「――アリシア? 入るわよ?」
その声に心臓が跳ね上がるような錯覚を覚える。少なくとも肩は跳ねた。
(なんで今来るの! なんで!)
集中が乱れ、頭の中で展開していたイメージが掻き消える。描かれていた真円も霧散して魔力に戻った。
見開いた目には、残光が幽かだが確かに映りこむ。――淡い青紫。記憶にある『アリシア』の色では、ない。
よりによってあんな調子で成功してしまったらしい。それも一度目に。
そして、背の方から外光が差し込んできていることも確認できた。
(見られた……)
また体が緊張で絞られるのを自覚する。
私はどうなるのだろう。背の方、部屋の入り口に居る筈のプレシアを意識する。
(かあさんなら私のこと)
――もしかしたら受け入れてくれるかもしれない。
こんなになってまでも最初に抱いたのは淡い期待。
これは誰の感情だろうか。自覚して頬を引き攣らせる。
そうして全てをプレシアに委ねてしまえばどれだけ楽なことか。
しかし、生憎と私はアリシアだけでは成っていない。故に次の瞬間には逆の考えも頭を過る。
(でも、受け入れてもらえなかったら?)
途端、悪寒が背筋を駆ける。
数日前は『なにかされるだろう』としか考えていなかった。
では『なにか』とはなにか。
自分に問いかけて浮かんだ幾通りもの破局の、死のイメージ。
曖昧な恐怖の正体。これこそ、プレシアを欺いてまで頑なに拒んでいるもの。それがもう目の前に迫ってきている。
最善は名前だけを忘れることだったが、そんな都合良く事が運ぶ筈がない。
(記憶を見られたれたら……)
記憶の改竄では済まないに決まっている。
殺されるにしろ記憶を消されるにしろ、どちらも同じこと。自分にとっては大差ない。
(解っていた筈だったのに……!)
タイミングを逃してしまった。どれだけ時間が経ったのかは解らないが、もう不自然な程に間が空いしまったことだけは解る。
今更、演技なんかしても胡散臭いだけ。そもそもが素人の演技なのだ。今まで騙しきれたのは、アリシアの容姿と記憶があったからに過ぎない。
でも、そんな確認なんか意味がない。今、必要なのは打開する策だ。
それも解りきっている。解りきっているが――何も思い浮かばない。
時間だけが刻々と過ぎ、焦りだけが募る。口の中が酷く乾く。
(どうにもならない……?)
しばらくして心中でそれを認めた瞬間。
わけもわからず肺が引きつり呼吸が浅くなる。ただ胸が苦しい。
同時に、頭の芯を侵す不安感。つられる形で視界が揺れ、ふらついてしまう。なんとか踏み止まろうとしたが、あっさりとその場に膝を突く。
咄嗟に差し出した左手で体を支えているものの、これも震えて力が入らない。嫌な類の汗が背中から広がり、体中から噴出している。
不安感に振り回されながらようやく理解する。これは自分が感じている死そのものだ。
しかし、今更理解したところで何もできない。そのまま前のめりに倒れこみそうになる、が
(いや! 消えたくない!)
自分でもよく解らないモノがすんでところで体を支えた。そして、口が動く。
「ねえ、かあさん」
「アリシア、ど」
「――わたしのひかり。なんで前と違うの?」
「うし……」
「ねえ、かあさん」
「……」
「わたしおぼえていたの。最後の年。――なんであれから何年もたってるのにわたし、そのままなの? なんでリニスが生きてるの!」
「……」
「ねえ、かあさん。答えてよ…… ねえ」
咄嗟の悪足掻き。
なにか(される前にこちらから齟齬をつきつける。
奇妙な落差だった。先程襲った激しい動悸と眩暈が嘘のように消えている。でも、背に残るべっとりと濡れた嫌な汗の感覚だけは確かに今も残っていて。
(……足掻いて何になるの)
振り向きながら心中で苦々しく思う。
これこそ誰の感情か。
私の諦観を拒み、生きようと足掻いたのは誰か。
どちらにしろ、重要なのはここからだ。
齟齬をつきつけてみたまではいいものの、肝心のプレシアがどう動くのかは私には想像がつかない。
つまりはこれこそ、そういうことなのだろう。
(分の悪い賭け、ね……)
嫌な静寂が部屋を包み、お互い何も言わずただ時間だけが過ぎていく。
「アリシアは、知りたいの?――それを」
先に動いたのはプレシアだった。確かめるような、見定めるような瞳。
内心は縋るように、でも見た目は静かに、頷く。
「ついてきなさい。本当のことを教えてあげる」
酷く、平坦な声だった。
◆ ◇ ◆
庭園の地下に来るのは初めてになる。存外自分が最初に居た部屋の近くらしい。
廊下の隅にひっそりとある、見る人が見なければそれと気づかないような扉。
そこを抜けると先の見えない階段が口をあけていた。
しばらく降りていくと「保存室」とプレートが掛かった扉の前へ辿りつく。
先導していたプレシアが、いつの間にか持っていた杖をかざすと扉が開いた。
「これが答えよ」
部屋の中心に鎮座してるソレ。私(の遺体。
「あなたはね、昔失くしたアリシアの複製なの。リニスもね、私が使い魔として蘇らせたのよ。
つまりは、そういうことなの」
口早に紡がれるプレシアの言葉。
私が何か反応するのをまっているのだろう。視線が此方に向く。
でも、それでも、何も思いつかない。
(ダメ、かな……)
所謂、冥土の土産というものか。実際に体験することになるとは思わなかった。
ここまで足掻いてきた自分もこうなるとどうしようもない。先程のような眩暈もないが都合の良い足掻きもない。
後はもう『オレ』の存在に気づかれないことに賭けるしかない。だが、奇跡は起きない、と他人事のように現状を認識している自分もいる。
「おどろかないのね」
(御免、母さん……)
かあさんのことを思う度に、ちらついていたもう一つの顔。オレの母親。
こんな時に、よりによって想いを馳せたのはそんなこと。
今まで極力考えないように、思い出さないように努めてきたオレの家族。
……オレの家は母子家庭だった。父はオレが幼い内に母と別れた。
どこにでもよくある話だ。ただ少し違うのは、働くには少しばかり脆すぎた母。
自分が中学に上がって気付いた頃には精神を病んでいた。それでも薬で誤魔化しながら働いて。
薬の副作用なのか、それとも病状なのか。
最初は、単純な事柄に執拗にこだわる様になった。それは部屋の照明や家電のスイッチであったり。
次は会話に現れた。目に見えて記憶力が衰え、会話も連続したものではなくなってゆく。
そして、最後は容姿だった。薬の副作用で肥満体になり、幼い記憶にあったたおやかな黒髪もすっかりくすんでしまった。
そうして、人としての何かが欠けていく様に、そのおぞましさに、オレは耐えられなくて、また母も保護者としての能力を失って、高校に入ってからは叔母の家で世話になった。
そう、オレは逃げ出した。あんなになっても最後までオレのことを心配していてくれた母を捨てて。
病名は今でも知らない。オレに知る勇気はなかった。
もう長い間、連絡はとっていない。毎月、贖罪のつもりで仕送りだけはしていたものの、近況は世話をしてくれている叔母から話を聞くだけに留めていた。
こんなことになるなら会っておくべきだったと後悔する。今からでも出来る限りのことをしてあげるべきだった。
母を愛していた、とは言わない。逃げ出したのだから。だが、そうする機会も失われてしまった。
改めてプレシアを見やる。此方を向いたその瞳から感情は読み取れなかったが、まだそうはなってはいない様に見える。
(いや……)
そこで気づき、皮肉げに思い直す。
違う。母さんとプレシアの狂気は違う。
オレが覚えているプレシアは確固たる目的の為に倫理観を押え付けていただけで、会話が通じなかったりしない。
振る舞いには一貫性があるような描写だったとも覚えている。
多少短絡的な思考やヒステリックな面も見られたが、死を間際にした病人にしては十分理性的といっていい。
娘一人の為に世界を引き換えにしようというのだから、そういった意味ではまさしく狂人だが。
(……? ……まってよ?)
そこでようやく気づき始めた。この衝動に任せた選択の危うさに。
小説でのフェイトとの決別も、金色の魔力光で事故を想起し、これは偽物なのだとはっきりと認識したからではなかったか。
もちろん一つの流れを書き留めただけに過ぎない小説と、この現実とではかなり乖離があるだろう。オレの意識や薄紫の魔力光がそうだ。
だがオレや金色でなかった魔力光は、まだ私にとって良い方向への乖離ではなかったか。
先ほど遮ってしまった声音は、娘を心配するそれではなかったか?
「まあいいわ。次は失敗しない」
なにか、取り返しのつかない過ちを――
/.プレシア
リニスがこちらに居るのを珍しく思っていれば、歪な魔力の反応があった。場所は――アリシアの部屋。
部屋の中を魔法で確認してみればなんのことはない。アリシアだった。
(って、アリシア……?)
私の娘はいつからこのような魔力発露が可能になったのだろう。
幼いうちは簡単な魔法すら全力で行使しようとするから自然と反応も大きくなる。がそれを踏まえてもこの大きさは異常だった。
それより幼いうちの単独での魔法行使は危うい。何らかの変換資質をもっていた場合、自分まで傷付けてしまう恐れがある。
己が魔力を制御できるようになるまでは監督者の下で行使するのが常だった。
幸い今は何もおきていない様だが、叱っておかなければならない。
魔法の行使中であることを踏まえ、ゆっくりと声をかけつつ、扉に手をかける。
「――アリシア? 入るわよ?」
扉を開けたその瞬間、視界を埋め尽くした輝きの色に目を庇うことをも忘れた。
私の声に集中を乱したのか、アリシアの回りの魔法陣が崩れて光も収まってゆく。
その魔力光は私が覚えているアリシアの色ではなかった。
散々行ってきた実験から事前に解っていたことではある。でも、この目で実際に確認するとやはり落胆は大きかった。
FATEプロジェクトの技術では完全な複製を生み出せない。現状の技術でいかに同じ形に発現させようが、器質的な差異はどこかに現れる。
リンカーコアはその内の一つだった。
と、いつの間にか研究者として思考している自分に気づき胸中で苦笑する。
気を取り直して声をかけようとした矢先、アリシアが先に声をかけてくる。
「ねえ、かあさん」
「アリシア、ど」
「――わたしのひかり。なんで前と違うの?」
(……え?)
「うし……」
割り込まれた言葉に続かない。
「ねえ、かあさん」
力なく、ただほうっと、残りの息を静かに吐く
「わたしおぼえていたの。最後の年。――なんであれから何年もたってるのにわたし、そのままなの? なんでリニスが生きてるの!」
眩暈がした。
記憶を補修しないこと。つまりは編集しないこと、とはこういうことだった。
記憶と現実との齟齬。予想できてしかるべきことだった筈なのに。
「ねえ、かあさん。答えてよ。ねえ」
なんて答えればいいのだろう。
長年過ごしてきた研究者が記憶を編集すればよいと囁いている。
次にアリシアを通じてやっと取り戻してきた母親が、抱きとめて諭せばよいのだとも訴えている。
研究者としての考えが先に浮かんだ時点で、もうだめだった。
簡単な事だ。母親としてはここで諭してあげればいい。
この子は間違いなくアリシアで、本人もそう思っている。
だけれども先ほどの考えの前には、これも滑稽な一人遊びのように思える。
そう、この予備素体(は科学者として定まってしまった私を母親に戻してくれるものではなかった、と。
つまり、幸せな夢から醒めてしまったのだろう。私は。
目の前のこれはアリシアではなくて、アリシアの記憶をもった人形。
そう明確に意識してしまう。
(記憶があるが故にこんなことになるなんて――)
本当に、皮肉でしかない。
私が半生を賭けて追い求めてきたものは――代替物にしか、なりえないのか。
「あなたは、知りたいの? ……それを」
記憶の検証を怠り、ここまできた私にも責任があるのは事実だ。
この齟齬に気づいていれば、検証さえしていれば、まだ幸せな時間を過ごして(いたのかもしれない。
それも今となっては無意味な夢想にすぎないが。
「ついてきなさい。本当のことを教えてあげる」
だから自分への戒めも兼ねて、あの部屋へ連れて行くことにした。
◆ ◇ ◆
「これが答えよ。
あなたはね、昔失くしたアリシアの複製なの。リニスもね、私が使い魔として蘇らせたのよ。
つまりは、そういうことなの」
(だから、時間がずれていて当然。魔力光も違っていて当然)
胸の中でそう続ける。
眠る私のアリシアの前で予備素体へ事実を告げて反応をまつ。だが何も反応を示さない。
平坦な表情、どこを捉えてるのか定かでない瞳、ぴくりとも動かないその姿はまるで人形のようだ。
「……おどろかないのね」
アリシアの姿でそんな表情をされるのは、とても辛い。
早く終わらせることにする。
(……?)
いまさら予備素体の顔に表情が戻る。戻った表情は何かを訴えるものだった。でも、もう遅い。
「まあいいわ。次は失敗しない」
そう呟いて、デバイスを通じて仕込んでおいた安全装置を発動させる。
前のめりに崩れるように倒れた予備素体を見据えながら、次のことへと思考を巡らせた。
こうなると、もう私には最後の手段しか残されていない。
これを挙げた時、自分でも現実的ではないと一蹴しそうになったモノ。
計画上に存在だけはさせていた最後のプラン。
魔法における最大の不可侵領域『生命蘇生』(