唐突に目が覚めた。
何時もの癖で枕元にいつも置いてあるはずの携帯で時間を確認しようとする。
もぞもぞ這わせた右手が虚しくシーツの上を泳ぎベッドの縁にあたる。それがまるで記憶のスイッチだったかの様に、自分が置かれている状況を思い出した。
(……ああ、やっぱり夢じゃない)
部屋の灯りはついたままだった。
軽く見回してみるがプレシアは見当たらない。食器も下げられている。
(確か……ご飯食べて、話をしてから……)
寝入ってしまったのか、そこから記憶がなかった。
(そういえば、窓も時計もないな。ここって)
明るくなった部屋を改めて見回してみるが、やはりなにも見当たらない。
では、外はどうなってるのか。
そう思い布団を上げたまでは良いが冷気に晒された途端、即座に考えを撤回する。さむい。
布団をかけ直すとそのありがたさを改めて実感した。心地良過ぎて出る気がしない。なので、今はまどろむようなこの気だるさを楽しむことにする。
一通りゴロゴロしたところで、仰向けになり枕の上で手を組んで頭を乗せた。二の腕に触れたしなやかな髪の感触に戸惑いつつ、ぼうっとピントの合わない視線を天井に向けて考える。
(結局、このままなのか?)
当然の不安ではあった。自分から見れば、体を含めた生活基盤が全部吹っ飛んだのだから。
残ったのは人格だけ。不安にならないほうがおかしい。元の生活への未練もある。
(冬のボーナス、出たばかりだったんだけどな)
ただ、その内容も俗物的なものだったが。
この状況は、妄想だけなら幾度もしてきた事だ。
フェイトに限らずあのキャラクターになれたら、特別な力を行使できたらと。
だがそれが現実となってしまえばどうだ。
原因を探すことに逃避し、プレシアを騙すことしかしていない。
突然のプレシアとの会話で咄嗟に受け答えできたのも、日頃の妄想の賜物だと思えば多少マシではあるが。
でなければ、アリシアの記憶などただの夢として扱い、プレシアのことを変わった看護婦として対応して、あそこで終わっていただろう。
(プレシア、か)
直に接してみて解ったこともある。
あいつはどこにでもいる母親で、ただ単に失ったものを取り戻す手段を持ち合わせていただけに過ぎない。
そして、あの真摯な愛情は自らが手がけた我が子へ向けられているもので、断じて得体の知れない人格相手へではないとも。
たとえ左利きなことを意識しても、リニスのことを覚えているふりをしても、それは長く誤魔化せるものではない。
(魔力光の問題もあるし)
例の事故を想起させこの体を失敗作と見限らせた決定的要因。
魔力光が何の要素で決まるかは自分も把握していないが後から弄れるものでもなさそうだった。
金色であれば、良くて自分の名前を忘れ、悪ければオレのことが発覚して終わり。
他の色では何が起きるか解らない。そんな分の悪い賭け。
(どうにかしないと……でも……)
自分の名前を忘れる程度でなんとかなるなら、自分が知っている未来へ繋がるなら、それも悪くない選択肢かもしれない。
ふと、そんなことを思ってしまった。
自分はめんどくさがりなのだ。どうせなにもできないんだから下手に動くこともない。
(オレの事は、誰も知らないんだ。名前ぐらい忘れても)
これはよくあることだった。
問題提起するだけで、適当な理由をつけて諦めるなんて、本当によくあることだ。
オレは、オレは――何もしなかった。
◆ ◇ ◆
一通りの洗礼は受けたように思う。
初めてのお手洗いに一緒に入るお風呂。そしてお休みのキス。
思い出すだけでも恥ずかしさともどかしさで頭が一杯になるが、徐々に耐性がついてきたとも自覚している。今もひらひらのワンピースだし。
驚くことはなかった。初めての経験に戸惑いはあっても、大体のことは予め予想がついている。
(TSモノもよく読んでたしね……)
そうした予習も多少は役にたってるのかもしれない。
なにか悟った様ではあったが、なんのことはない。アリシアの記憶が馴染んできただけに過ぎない。
最初は『アリシア』としてはっきりと違和感を感じることも多く、それを基点にして装っていた。
ただ、装うとはいえ、それはなんとか必死にしがみ付いていた自己同一性(の放棄に他ならない。こんな体であれば尚更だ。
つまり、結果としてアリシアとしての振る舞いに付随する感情の全てを無条件に受け入れてしまうということになった。私自身のものとして。
記憶が失われるわけではない。
単にオレの記憶よりアリシアの記憶が優先される。ただそれだけのこと。
だがオレにとっては自我の侵蝕に等しく、自覚する度に耐え難い喪失感を催したが、抗う術をもたない私にはどうしようもなかった。
その所為か、もう私は私のことがよく判らない。
どういう時にどんな返事をすればいいのか少し悩んでしまう。
前はとても自然に、当たり前にこなしてきた筈なのに。当たり前が二つある所為なのか。
一人称もなんだか最近は安定していない。『私』か『オレ』か。
ただ、もう『アリシア』を意識することもない。
だからなのか、今からやろうとすることも、どこか気まずい思いがあった。
昨日からアリシアの部屋へ移り、外出も許可された私は、お目付け役らしいリニスと一緒に時の庭園を散策している。
つかずはなれずの距離で後ろにひっついてきているこのリニス。見た目こそアリシアの記憶と違わないものの、中身はまるで別物だ。
使い魔となったからか、とにかく賢い。人語を解してる節すらある。
今日の朝なんて、部屋のドアノブに飛び乗って自ら開けて入ってきたし、その後もちゃんと自分で閉めた。お行儀がいい。
そしてそのまま足元まできては、ちょこんと座りこんで、こちらをじぃっと上目遣いで見つめてくれるのだ。つぶらな瞳がかわいい。
試しに「リニスもくる?」と言ってみれば、一つ鳴いて返事を返しこちらについてきたので驚いた。それもまだ慣れていないこの体の拙い歩調に合わせてくれるのだからまさに忠犬ならぬ忠猫。
そんなリニスを連れた私は時の庭園らしきこの建造物の外周をぐるりと回っている。
庭園の周りは、申し訳程度に拓けていたが、さらにその周りを鬱蒼と茂った森が覆っている。
正面にはなだらかな丘があり、さきっぽから地平線まで見渡せた。ただ、遠くに見える険しい山々の手前には森しか見当たらない。
ほうっと息を吐いて景色を眺めていた私を心配したのか、リニスが擦り寄ってきた。抱きかかえて暖をとることにする。抱きかかえた手を開いてそのまま毛をわしわしすると結構暖かい。
そのままリニスをわしわししながら振り返り、庭園を正面から捉えてみるが、自分の目にはまるで中世に出てくる無骨な要塞のように映った。
裏手に回ってからも驚いた。山を半分ほど豪快に抉り取ったような崖だったからだ。
それも最近に削られたものらしく、赤黒い土の断層と倒れた木々が痛々しい。
周っている最中に気づいたが、その崖に庭園がすっぽりと半分収まる形になっているようだ。
一周しても山道すら見当たらず、人の手が入っているようにはとても見えない。
陸の孤島。
うす雲がかかった空をぼんやりと見上げていると、そんな単語が思い浮かぶ。
隙間なく生えている木々と崖に阻まれた私は、遠出は出来ないと諦め素直に部屋へ戻ることにした。
子供の足には少し重労働だったのか、多少疲れを覚えているのもある。あのうんざりするような緑をみての気疲れかもしれない。
途中で書庫に寄ることにする。
プレシアが居ない時の暇つぶしは、ここの本しかない。今は別の目的があって来たのだけれども。
紙のかびた独特の匂いがするここも、混沌としている様だけを見れば外の森と良い勝負だった。
踏み場を探すのが難しいほどに本の山が床に散乱している。
中身を読んでみたい衝動に駆られるが、今まではなんとか自制していた。
(だってどう考えても死亡フラグだもん。それに多分読み解けない)
こちらの言語の語彙力はアリシアそのままでしかないから当然ではある。
作業用らしき机を横切り奥へと進む。そこから先には書架が並んでいた。
棚の本は所々抜けていて一見並びもばらばらのように見えるが一応揃えられているらしい。
この書架に並んでいるものは工学書が大半を占めている。
魔法の本か何かがないかと少し探してみたりもしたが、結局見つけることは適わなかった。別の場所に保管してあるのだろう。
専門書ばかりとはいえ、こんな所へ立ち入りを許可するプレシアも相当なものだと思う。
幼子には理解できないと思っているのだろうか。それとも反応を見たいのか。
後ろにいるであろうリニスを意識しながら、そんな邪推をしてみる。
そうして書架も横切り一番奥までくると目的のものが見えてきた。丁度、その前で私は立ち止まる。
明らかに周りとは違う造りの本棚が目の前にあった。
生前アリシアが読んでいた本が納められている本棚。数はそう多くない。
何故、私の部屋でなくて、書庫のこんな奥に置かれているのか、私には解らなかった。
単に遺品整理の際にこちらへ運んでそのままになっているだけかもしれない。
ともかく本棚からお目当ての一冊を手にとって書庫を後にする。
手に取ったのは、魔法の幼年用テキスト。
足早に自室へと戻った私は、カーテンを閉めて机の上にテキストを広げた。
リニスは散歩してくるように言い付けて部屋から締め出してある。
外を散策していたのは逃げ出す算段を考えていたに過ぎない。人が多い場所に出ることができればなんとかなるかも、という考えがあった。
だが、それも無理だと解った今、先送りにしていた魔力光の問題に向き合うしかない。
つまるところ、これが先ほど感じた気まずさの原因なんだろう。
かあさんなら無条件に受け入れてくれる筈という『アリシア』の無垢な信頼と、そうではないと確信している『オレ』の折り合いのつかなさ。
テキストの「あなたのいろはなにいろ?」という項目に目を通し終わった私は、椅子から跳ねる様にして立ち上がり部屋の真ん中へと移動した。
(まずは確認から)
一度で成功できるとは思っていない。そもそもいまだに自分が魔法を使えると言う実感が湧かない。
まだ自分が魔法として見たものは、あの初日の鏡だけだ。
あれすらあまりにも自然なタイミングだったので、魔法だと認識するのにも時間を要した。
今も頭の隅で馬鹿馬鹿しすぎて笑い出しそうになっている自分がいる。
(でも、やらないと)
もう時間がないであろうことは事実だ。
結局これもまた、よくあることではある。こんな姿になっても自分は追い詰められないと行動しない性質らしい。
アリシアの記憶を頼りに魔法の行使に必要な手順を一つずつ追ってゆく。
大きく深呼吸をしては息を止め、再び深呼吸をする。ゆっくりとゆっくりとそれを繰り返し精神を落ち着ける。
ここから目を瞑り自分の胸辺りにあるであろうリンカーコアを手を添えて意識する。苦笑が零れた。
呼吸するのに肺を動かすように、ものをとるのに手を動かすように。
普段は無意識で行っている事を殊更に意識するようにして、自らの一部であろうリンカーコアの存在を感じ取ろうとする。
しばらくして、心臓の鼓動に重なるようにして動いているモノを己が体内に感じ取る。
一瞬、錯覚かと思ったが体に纏わりつくなにかをも肌で感じることができた。これが魔力と呼ばれるものなのか。
この感覚をリンカーコアの発動と認識した私は、さらに次へと進んだ。
体に纏わりつくなにかを胸へと集めるイメージ。まわりの魔力がリンカーコアを通じて己が内へ溶けてゆくのが体感覚を通して解る。
己の中に異物を感じて気持ちが悪くなってくる。
練り上げたもので単純な真円を描くようにイメージ。己が手の届かない場所で真円を描く感触を確かに感じ取ることができた。
そのまま書き終える。この時点で、魔力光はイメージ通り描かれた真円を通して発現している筈だった。
自分が魔法を使っている。その非現実性に思わずまた苦笑が漏れそうになったがリンカーコアの感覚は現実だと訴えている。
そうして、おもむろに目を開くのと背の方にある扉から声がするのは、同時だった。
「――アリシア?入るわよ?」