なんということだったろうか。 先ほど別れたTV局の事件記者の守矢さんが近づいて行ったあの男。 あの後ろ姿は間違いない。目深にかぶったパーカーにおぼつかない足取りが、なんらかの薬物を常習していることを思わせる。 きっとこちらからは見えないその顔は、よだれをたらしながらニヤニヤとした気色の悪い狂気に歪んでいるに違いない。 なにかしら会話を始めている。 間違いなくあの人物は異常だった。 もしかしたら、自分たちの追っている連続殺人事件の犯人かもしれない。 ひょっとしたら私たちの捜査の手が伸びているのをどこかで感じ取ったのかもしれない。 きっとそうだ。 だいたい、あのポケットハンドが怪しい。ポケットの中にある手の平に、ナイフや拳銃が握られていないという可能性は否定できない。 自分は、剣道の段位こそ弐段だが、実力は参段かそれ以上のものがあると自負している。 年齢と修業期間の規定により試験は受けられなかったが、大学や警察の剣道部での出稽古では自分よりも高段位の人たちと互角以上に渡り合ってきた。 あの守矢というジャーナリストの顔、どう考えても油断しきっていた。 自分の命が危ないという自覚があるのだろうか? ぶるぶると身震いがした。こういうときこそしっかりボディーガードとしての任務を果たさなくては。 そうして、私は妖刀『虎竹刀』に手をかけた。 サーヴァントが出揃っていないうちに、聖杯戦争の下準備を行う。これはどのマスターについても当然の戦略である。 雁夜の敵は時臣だけではない。余所者の魔術師を雇ってまで妄執を果たそうとする西洋の名門、そして四組の外来のマスター。 その魔術師たちの根城になりそうな場所に、使い魔の蟲を放っておくのは間桐の魔術師としては、いわば定石ともいえる行動だった。 別に聖杯を手に入れるつもりは、自分にも呼び出したバケモノにもなかったが、時臣と対決する前に、どこかの誰かにやられてしまいましたという結末では死んでも死にきれない。 それにしても、と思う。 深山町のめぼしい場所を一日かけて回り、新都へと足を延ばしたときにバケモノの反応は一体なんだったのだろう。 なんというか、あれは三〇年前の高度経済成長期に電気も通っていない離島から上京してきた田舎者の反応ではなかったろうか。 守護すべきマスターを、「なんかあったら“れいじゅ”でよべ」 といって、文字通りどこかへと飛んで行ってしまった。 溜息をつきながら午後からはひとりで新都を回った。 最後に安ホテル街へと向かったとき、見覚えのある人影を見つけた。 そこにいたのは、雁夜にとって予想外の人物であった。 いや、今の冬木にはこれ以上ないぐらいにふさわしい人間かもしれない。 フリーのルポライター時代に、何度か一緒になったことがある。もっとも立場には雲泥の差があったが。 こちらは無名のルポライター、あちらは業界の有名人。 替えのいくらでもきくフリーの人間を、虫けら扱いする鼻持ちならない連中が多いなか、守矢という男には不思議とそういう空気がなかった。 とはいえ友人付き合いがあったわけでもなく、二度三度、一緒に飲んだことがあるぐらいだ。 こちらの視線に気がついたようだ。 咄嗟に顔をそむける。 しかし、その行動が余計に相手の興味を引いてしまった。自分にはどうやら探偵やスパイの才能はないようだ。 こちらの方に近寄り、「ひょっとして間桐君か?」 守矢さんはそう声をかけた。「……ご無沙汰しています」「最近うわさをきかなくてな、心配はしていたんだが」「体を壊してしまいまして……」 おぼつかない足取りを心配するように言う。「だいぶ悪いのか?」「……ええ。左半身が麻痺しちゃって……」「そうか……。そんな体調なのに、君も例の事件を追っているのか?」 冬木の連続殺人事件のことだろう。「君は不思議と鼻が利くからな、もしかしたらバッティングするんじゃないかとは思っていたんだ」 誉められることがなんだかむずがゆい。「……いえ、冬木に実家があって。身体を壊してからは、こっちで療養中です」 大嘘である。人間としての機能がぶっ壊れたのは冬木に戻ってきてからだ。「……なんだ。君は追っていないのか」「はい」「……そうか」 煙草を取り出し、火をつけた。 深呼吸するように吸いこみ、溜息をするように吐き出す。「てっきりライバルが増えたかと思っていたんだが、あてが外れたな」 身に余るほどの高評価をされていたようで困惑した。 沈黙する自分を余所に続ける。「まあ、でも君が追っていないというのなら話してもいいか……。この事件は恐らく氷山の一角だ」 今はまだ、俺ひとりの妄想だが、と前置きをしたうえで、「これから、冬木ではとんでもないことが起きる。もしかしたら、もう起こっているのかもしれない。御伽噺みたいな現実離れしたなにか。たとえば、悪魔が出てきて人を食い殺すとか」 とてもではないが看過できないようなことを守矢さんは言った。「……東京に帰った方がいいですよ」 自分の声帯から出たのは、恐ろしくなるほど冷たい声だった。 守矢さんは身構えて、煙草を備え付けの灰皿へと捨てる。「だいぶ疲れているんじゃないですか?TV局って激務ですから。俺みたいに体を壊しちゃいますよ」 前の言葉を打ち消すように冗談めかして言ってみた。「やっぱり妄言に聞こえるか?俺個人はいたって真剣なんだが」 守矢さんは含み笑いをもらす。 俺もつられて笑いをもらした。 その瞬間、背後から凄まじい殺気を感じた。 相手が凶器を取り出すまでが勝負だった。ナイフならばなんとでもなる。 しかし拳銃ともなると自信がない。祖父ぐらい猛者になると、そんなのは気合いの問題だとか言えるのだろが、こちらは十代女子である。こんな立ち回り経験したことがない。 気配を殺して慎重に、慎重に。獲物にとびかかる前の猛獣のように。 守矢さんが乾いた含み笑いをもらした。 今頃になって自分の迂闊さに気がついたのだろう。 遅すぎです!!守矢さん!! 危険察知はサバイバルの基本ですよ!! 異常者が不気味な笑い声を上げた。こんな不気味な笑い声聞いたことがない!! 襲い掛かる気だ!!! もう一瞬の猶予もない。 私は、虎竹刀を握りしめ、渾身の一刀を振り下ろした。 チェースートー!!!!!!!!!!!!!!!!! 頭部に衝撃が走った。一回ではない何回も。 倒れそうにもつれる足を払うように一撃が加えられる。 踏みとどまろうとしたせいで、きりもみ状態となり仰向けに倒れてしまう。 その後も、半死半生の身体に、容赦のない執拗な連撃が加えられる。「このっ、このっ」 朦朧とする意識の中、視界に入ったのは こちらを羅刹悪鬼をにらみ殺す仁王のような表情のポニーテールの少女と、その少女にしがみついて、なんとか押しとどめている守矢さん、そして、守矢さんの手から離れ路上へとぶちまけられた紙と写真だった。「止めるんだ、大河ちゃん!!」 右眼に一番近い写真が目に入る。「守矢さん。とめないでください!!」 その写真に描かれているものに見覚えがあった。「急にどうしたって言うんだ!!」 細部には違いがあるものの、「守矢さんには野生の勘がないんですか!!そんなんじゃ密林は生き残れませんよ!!」 間違いなく蟲蔵にあった魔法陣と同一のものだった。「その人は俺の知り合いだ!!」 サーヴァントの降霊の儀に使用するものだ。「――守矢さんもこの殺人犯の仲間だったんですかーー!!私を騙してたんですねーー!!」 なんでこんなものが写っているんだ……。「たい、タイがちゃっ、タイがぁーちゃん……落ち着いて。」「タイガーってよぶなぁあああぁあぁーーーーー!!!!!!」 絶叫がホテル街に響きわたった。 守矢さんが暴れる少女をなんとかなだめて、出たばかりの喫茶店へと連れ込んだのはそれからすぐだった。 簡単な自己紹介を終えた。 なんとか心拍数が元に戻る。 確かに可愛らしい娘だとは思う。 本性さえ知らなければの話だか。「協力者じゃないです」 守矢さんの紹介が気に入らなかったらしい「守矢さんの相棒です!!」 などと嘯くあたり……間違いなく只者ではない。 本来は即座に間桐の家に帰りたいのだが、そうも言っていられない理由ができた。「守矢さん。この写真って……」「ん、ああ、そこの大河ちゃんが紹介してくれた刑事さんがな。口外はしないでくれよ」 その写真を凝視している俺をみて、「……やっぱりなにか知っているんだな」 問い詰めるようでも、引っ掛けるようでもなく、確認するように言った。「……はい」「本物か?」 核心をついた質問だった。 心臓が止まりそうになった。この人は鋭すぎる。一体どこまで掴んでいるのだろう。 流石に聖杯戦争の詳細や、俺がマスターだという所までは解っていないだろうが……。「……そうか」 沈黙を持って答えとしたようだ。「やっぱり東京に帰った方がいいと思います」 言外に、この件に関わることの危険性を伝えた。「あー無視無視っ!!危ない目に遭うのが怖くって事件記者やってられるかっての。怖い目にはもう慣れた」 ひらひらと手を振ってこたえる。「……死ぬことには慣れていないと思いますけど」 精一杯、恐い声を出したつもりだった。「ふーん。それほどの事件か?」 悪戯を面白がっている声だ。 これ以上守矢さんと話していると、余計な情報を与えるだけだった。 挨拶をし、左足を引きずりながら店に出た。 古今の英雄が火花を散らし究極へと至る聖杯戦争に、怪しい異分子が紛れ込んでいることをひしひしと感じた。