久宇舞弥は、自身を空虚は人間だと自覚している。 もっと正確に言うならば、自分は、衛宮切嗣という男の使用する道具、もしくは、切嗣という人間を構成する部品だと考えている。 現在、こんな場所にいるのも切嗣の目と耳としての諜報活動の一環である。 自身の主である切嗣は、今回、アインツベルンのマスターとして参加する。 今回の切嗣の敵は、始まりの御三家だけではない。外来の魔術師が、四人参加することになるだろう。そういった魔術師が、根城にするであろう場所の構造、間取りを調査するのは舞弥にとって当然と言えた。 このホテルも、そんな場所のひとつである。 三十二階をケイネス・エルメロイ・アーチボルドという男が、ご丁寧に実名で一ヶ月も前から借り上げ、いろいろと大幅な改装を行っている。 此処がダミーで、どこかに本拠地を構えるという可能性もないわけではなかった。 しかし、改装の規模と労力を考えるとその確率は極めて低いだろう。 時計塔の神童と聞いて、ほんの僅か、一抹の不安を感じてはいた。 しかし、この体たらくをみて、舞弥は元の切嗣の部品へと戻る。 舞弥にとって、本拠地を選ぶ際の所在の隠蔽と退路の確保は、条件以前の常識であった。 ご丁寧にこんなにも目立つ、逃げ場もない場所を本陣に選ぶなど愚の極みである。 そんな計算もできない人間は、如何に強力な魔術師であったとしても、切嗣の脅威たり得ない。 放火、爆破など、お得意の手法で即座に決着がつくだろう。 ハイアットホテルの次は、港の倉庫群の調査に向かう予定であった。 ロビーを抜けようとする際、ある看板が目に飛び込む。“ケーキバイキング開催中 12:00~16:00” その知らせを見た瞬間、地下のカフェレストランに吸い込まれた。 気のせいか目が霞む。 そういえば、体内の血糖値が低い。 このへんで、動力源を補給しておかなくては、思考力の減衰からとんでもないミスを犯してしまうかもしれない。 誰も聞いていない言い訳をしながら、久宇舞弥は自身に訪れる甘味の嵐を想像し、身をよじらせた。 自身が甘味を好むのは、タンパク質や脂質よりも、糖質のほうが熱代謝効率が高いからに他ならない。 それ以外の理由など断じて無い。あるはずがない。 自分は、切嗣という人間の部品であり、趣味などという高尚なものを持ち合わせてよい人間ではない。 ましてや、食べ物の好みなどという贅沢を、口にするなどもってのほかだ。 それにしても、格式の違うホテルは味も違う。 うん。この苺のショートケーキのクリームは本物の生クリームを使用している。最近では、植物性油脂をホイップクリームとして使用している店が増えたが、味と食感、何より口融けに雲泥の差がある。 植物性クリームも、嫌いではない。嫌いではないが、本物の生クリームには到底及ばない。 よくできた生クリームは、口に入れた瞬間、最上のシャーベットのようにさらりと溶けて甘味とコクを全身に広げるのだ。それ に苺の爽やかさが加わり、脳髄にまで悦びが駆け抜ける。 自身にとって、摂食行動とは機械の燃料補給と同じなのだ。 機械が、燃料もなく動くはずがないではないか。 いま、自分がしているのは、誰に対しても恥じる行為ではない。 このザッハトルテというケーキは、人類の生んだ悪魔の発明ではなかろうか。チョコレートという麻薬にも似た甘味の魅力を最大限に発揮している。 生地に練り込まれた、苦味の強いビターチョコレートが全体の甘味をひきたたせる。 その生地を包む、ほんのり洋酒の香りのするネットリとした口当たりのガナッシュチョコレートがボリューム感を演出する。 その周りをがっちりとコーティングするクーベルチュールチョコレートがカカオの風味をケーキ全体に与えて、全身の力が吸い取られるような錯覚に陥る。 まるで食べるほどに空腹が増すかのようだ。 食が進むにともなって、体温が少しずつ上昇し始めた。 しかし、まだベストコンディションには程遠い。 さらに燃料を補給し、臨戦態勢へと自分を持っていかねばならない。 シュークリームというデザートには驚嘆する。あえて生地に甘味を与えずに、中にあるクリームのみの甘さで勝負をするという発想は、自身のようなつまらない人間には一生涯を懸けても思いつかないだろう。 また、外から中身が一切見えないというのも心憎い演出だ。クリスマスプレゼントの包みを破る前の子供の心境とはこう言ったものなのだろうか? 中に入っていたのはカスタードクリームだ。それも相当に出来がいい。卵の過剰な鶏くささが一切なく、バニラビーンスのふくよかな芳香が滑らかに口の中に広がる。 いいや、それだけでは味が単調になってしまうところを、ブルーベリーとラズベリーの酸味、キャラメルソースの苦味がキリリと引き締めている。 洋菓子とは、卓越した指揮官の振る舞いや、非の打ちどころのない戦術に似ている。 必ずその味に、根拠となる理論が存在するのだ。その理論が幾つもの要素となり、複雑に絡まりあい、味わう人間を完膚なきまでに打ちのめす。抵抗の余力も与えないほど、再起の意思すら奪い去るほど、苛烈に、執拗に、徹底的に。 自身が甘味に詳しくなったのも、そういった共通点があったからなのだ。それ以外の理由などこの世の中に存在しないのだ。 うん、決して。 ああ、まだケーキを六十二個しか食べていない。これでは、来日した切嗣のサポートをする際にエネルギー切れを起こしてしまうかもしれない。切嗣の前でそんな失態を演じるわけにはいかない。なんとしても、栄養分を補給しなくてはならない。 それにしても、なぜ、人間の体というのは、こんなにも胃袋が小さく設計されているのだろう。これではあと七十六個程度しかケーキが食べられないではないか。 衛宮切嗣は、久宇舞弥という女のことを、恐らく地球上の誰よりも知っている。 そんな切嗣でさえ、舞弥が壊滅的な洋菓子好きだなどとは夢にも思わないだろう。 理由は単純で、舞弥本人がひた隠しにしてきたからである。 仮に、切嗣がこの破滅的な光景を目撃したとするならばどうなるだろう。 まず、硝煙に汚れた袖で眼をこすり、その後で、思い切り自分の頬を抓るだろう。 そして、自分の視界に入ってきたものが、現実であると確認した後は、幾つかの簡単な質問を舞弥にするだろう。――なにか体調に異変はないか?――過去の極限状態でのストレス対処法に誤りはなかったか?――妙な薬物に手を出していないか? 想像するだけで恐ろしい。 いや、舞弥にとって、恐ろしいのはこれからである。 なにを間違ったか、切嗣が舞弥を、その辺の年頃の娘と同じように、洋菓子に心を躍らせるような趣味の持ち主だなどと最悪の誤解をしたら……。 切嗣という男は、舞弥に人殺しの技術しか教え込まず、道具として使い捨てようとしていた自分を呪うだろう。 世間で恐れられているほど、衛宮切嗣という男は凶悪でもなければ強靭でもない。 残虐な手法をとるたびに人知れず、咽び泣いていたことを舞弥は知っている。 それでも舞弥を道具として傍に置いてくれるのならばまだ良いが、新しい人生を送るようにいろいろと手を尽くし、舞弥を自分から遠ざけようとするだろう。 まるで、飼えない仔犬を里子に出すように。 それが、舞弥には、道具として使い捨てられることより、ずっと恐ろしかった。 守矢克美はそのテーブルで、黙々と、表情を変えないまま洋菓子をむさぼり続ける女に、「お忙しいところ申し訳ございません。私、こういう者ですが、少々お時間を頂けますでしょうか?」 名刺を出しながら声をかけた。 その瞬間である。 何か、得体のしれないものが守矢の全身を駆け抜けていった。声にならない声、殺気とでもいうのだろうか。――邪魔をするな…………。私の邪魔をするな…………。するなったらするな……。 聞こえてはいけないものが聞こえたような気がした。餌を奪おうとしたハイエナが獅子に一喝されたような妙な心境に陥る。 しかし、守矢という男は、非常にしつこく、執拗であきらめの悪い男であった。ここで冷水を頭から浴びせられたとしても取材を続けただろう。気配ごときでひるむような神経は持ち合わせてはいない。 何事もなかったかのように、もう一度声をかける。「少々お時間を頂けますでしょうか?」 女は観念したのか、ぎぎぎぎと、首を機械のように守矢のほうへと向けた。 すさまじい無表情のまま、リスのように頬をふくらませたまま口を開いた。「ナンパですか?ならお断りです」 もしも、守矢に下心があり舞弥を籠絡しようと手薬煉をひいていたならば、その顔色をみて一切の目論みを捨て、即座に退散しただろう。 しかし、守矢という男は正義のジャーナリストであった。 どこに住んでいるのか、どこから来たのか、なにをしに来たのか、次々と質問を舞弥に投げかける。 女はそれを、上の空で答えていた。まるで、逆に、――私にケーキを食べさせないつもりか?――そんなことを聞いてどうするんだ?――いいかげんにしないと血を見るぞ? と脅されているような気分に陥った。 流石に守矢も“この女は違うだろう” と結論付けた。 しかし、最後のつもりで放った質問が状況を一変させた。「現在、冬木市でなにが起きているかご存じありませんか?」 極めて、ほんの僅かな時間、女の動きが止まった。 眼の前にいるくたびれた三十男は、『現在、冬木市でなにが起きているかご存じありませんか?』 と言った。 自分は、冬木で何が起きているのか、これからなにが起こるのか知っている。 戦争が始まるのだ。自分もその戦争に、切嗣の一部として参加する。 先ほどの言葉は、『お前はアインツベルンのマスターの手の者か?』 ともとれる発言であった。「なんの話ですか?」 とは返答したものの、心中は穏やかではない。 可能性は少なくとも、切嗣の悲願の障害となるならば排除する必要がある。 男は両手を返し、「失礼しました、忘れてください」 そういって自分のテーブルへ戻って行った。 それから少ししてからだろうか。 レストランの自動ドアが開き、ものすごい勢いで女の子が走り込んできた。 癖っ毛を後ろで束ねた可愛らしい娘だった。左手に持っている包みは……恐らく竹刀だろう。 小動物のような仕草で店内を見回したあと、先ほどの男のテーブルへと出向いた。 どうやら待ち合わせをしていたようだ。 驚いている男に、遅刻して済まなかったと平謝りしている。 二人の話を聞くに、守矢という男は本当にジャーナリストで、冬木での連続殺人事件を独自に調査しているようだ。 状況から判断すると、男が切嗣の障害となる可能性は極めて低いといえる。現実的には無視できるレベルだ。始末した後のリスクを考えるならば、放っておいたほうが安全だろう。 そう判断したとたん、食欲が戻ってきた。 あと五十九個はいける計算だ。 さあ、エネルギー摂取を続けよう。 間桐雁夜は頭を抱えていた。 原因は分かっている。自身の呼び出したサーヴァントである。 このサーヴァントときたら、妙なところで人間臭い。 それも、五才児かそれぐらいの。 目を覚ましたら、間桐家の家先になんだかよくわからないものが大量に集められていた。 パラボナアンテナ、交通安全の旗、バスの手すり、ケンタくんに、剥ぎ取られたガードレール、歩行者用信号機、備え付けのスピーカー、二宮金次郎さんまでいる。 一瞬、白眼を剥いて卒倒しかかり、桜に支えてもらわなければゴミの山に頭から倒れ込んでいただろう。 電柱を指差して、“五百年も経つと木も様変わりするな……” などと嘯いているのを聞いて、『余計なものを拾ってくるな』 と令呪で命令してやろうかと本気で悩んだ。 臓硯の書庫に入って、何語で書かれているのかも雁夜には解らない書物を読みふけったかと思えば、TVの時代劇を見て、侍に対抗意識を燃やしている。 兄の鶴野を脅して、ハンバーガーを大量に買い込ませ片っ端から食い漁り、ニュース番組を見ては、「人間はかわらんなー、あいかわらずあくせくしやがって」 などど、一千年ぶりに下界へと降りてきた仙人のような感想を生意気にも洩らす。 そして現在は、リビングルームで桜と昔の映画のロードショーを並んで見ている。 内容は、塔に囚われた姫君を、大泥棒が助けに来るという筋書きだ。自分も、中学生の頃に夢中になって見た記憶がある。 桜の唇がぼんやりと動いた。「うそです」 誰へともなく言った。「このえいがはうそです」 言葉の真意を理解した。自分が来たのは、姫が手籠にされてからだ。また、自己嫌悪に陥りそうになる。「そして、このヒトはうそつきです」 隣で同じ映画を見ていたバケモノを指差していった。 この二人に、いったいなにがあったというのだろうか。 ふと、桜の外見に違和感を感じた。 よく視ると、桜の髪にいつもの赤いリボンのほかに金色の髪結いが括られている。「桜ちゃん、その髪どうしたの?」 それはただの好奇心だった。 その問いに、「……秘密……」 桜は、こころなしか恥ずかしそうに答えた。