冬木は地方都市だ。新都には再開発の手が入り、それなりの賑わいを見せる。しかし、居住区域は思いのほか狭い。深山町の住宅街沿いの国道を十分も行けば、すぐに森林にぶち当たる。 東京に若者が仕事を求めて故郷を捨て、過疎が社会問題となっているのは、この冬木も例外ではない。 だから早朝ともなれば、神父姿の男がこんな風に徒歩で国道を歩いていても、誰にも見とがめられはしない。 それに加えてただでさえ車通りの少ない国道は、冬木の悪魔が凶行を繰り返しているとあって、皆無と来ている。 言峰綺礼はその森へとつながる国道を、代行者の健脚でひたすら走っていた。霊体化したアサシン総勢70体強を引き連れている。 魔術師としての理を外れ、一般人をなんの隠蔽もなく殺害して回るキャスターペアを不意打ちで倒すためだ。そして、一〇〇名以上の攫われた子供たちを奪還し、記憶を消して親元に返すという難問も同時にこなさなくてはならない。 可能ならば、児童保護の大型車両を数台手配して乗り込みたいところだが、そんなことをしたらあまりにも目立って仕方がない。冬眠中の熊であっても起きだしかねないのに、最強の感知能力を持つキャスターが気づかないはずがない。 一人で挑んでも感知されるだろう。しかし、最高の気配遮断スキルを持つアサシンによる奇襲とあれば話は別だ。総勢70人を超えるサーヴァントの同時奇襲である。もしも、キャスターが海魔を無尽蔵に展開する前であるならば、令呪を3画用いての奇襲で勝機はぎりぎりあるかもしれない。そのためには、キャスターペアにはできる限り油断してもらわなくては困る。単身を装って挑まねばならない。 魔力の残渣を追っていけば確実に追いつく。相手は意識を失った子供を連れての行軍だ。こちらは生身の人間とは言え怪魔殺しの代行者の足。いずれ追いつく。 問題は、キャスターペアがどこに向かっているのか。魔力残渣は市街地を離れ、ますます森の奥深くへと迷い込んでいく。 森中のその奥に根城を構える陣営はただ一つ。「アインツベルンか」 キャスターペアの目的に思い当たる。なぜかは知らないが、キャスターペアはセイバーに御執心らしい。興味はさっぱりないし全く理由はわからない。サーヴァントがサーヴァントに執着するなどということは理解を超えている。しかし、綺礼も似たようなものかもしれない。自分は、可能ならば衛宮切嗣とどこかで邂逅し、死線をくぐることにより衛宮切嗣の得た答えを覗きたいと執着しているのだから。 国道のガードレールを越え、草の生い茂る山道へと足を向けた瞬間だった。『おやおや。これは奇矯な巡り合わせだな。泣く子も黙る聖堂教会の代行者が、このような場所に何の用かね?』 反響するような、距離感のつかめない声に語り掛けられた。視界も意識もはっきりしているし景色の遠近感も狂ってはいない。幻術ではない。恐らくは隠形により、声の出どころを隠しているだけだろう。 すかさず黒鍵を抜き周囲を警戒する。声の主の姿はない。『アーチャーにアサシンを挑ませ真っ先に脱落したはずだ。そうではないか? 言峰綺礼くん。脱落したマスターは教会の奥で震えているのが常識。しかしなぜこんなところにいるのか? 私の目は節穴ではないよ。良からぬことを考えているのではないかね?』 他者を値踏みすることに慣れ切った声。神経質そうな高慢な研究者のそれには聞き覚えがった。「ふむ。時計塔のきっての俊英に名前を憶えられているとは光栄だな。代行者冥利に尽きるというものだ」 その声はロード・エルメロイ、ケイネス・エルメロイ・アーチボルドのものに間違いない。 軽口をたたきながらも状況を分析する。この遭遇は間違いなく偶然だ。なぜならつい1時間前まで、自分もアサシンを連れて出撃するなど全く考えてもいなかったし、アサシンの生存が露見した様子もない。もしもアサシンが生きているともろバレしていたら、優秀な魔術師ほど、再度穴熊を決め込むわけで、こんな風に話しかけてくるわけがない。時計塔のロードである。それぐらいの知恵はあるだろう。『それは代行者の殺しの名簿に載るということではないかね? まあ良い。“ランサー”』 その言葉と同時に、正面の空間が揺らぐ。魔力が収束し折り重なり、双槍の美丈夫が現界する。『いかな代行者といえど、サーヴァントの前には無力。それは理解しているだろう? これから君は私の質問に正直に答えるように。正直に答えれば見逃してやる。嘘だと感じたら殺す』 冷酷極まりないセリフではある。しかし、その言葉の音色を聞いて、綺礼には若干の余裕が生まれた。その余裕をあえて言葉にすると「素人だな」とか「人を脅すことに慣れてないな」というたぐいのものだ。いかに強力な魔術師と言えど、こういう脅迫には縁がない人間の脅し方だ。もしも、武闘派の魔術師ならば、とりあえずランサーに襲わせて腕の一本でも切り落とすだろう。痛みとは雄弁なものだ。どんな強固な意志であっても圧倒的苦痛の前には揺らがざるを得ない。尋問するのはそのあとだ。 相手は鉄火場の機微を知らない素人であることをこの時点で綺礼は確信した。「命を助けてもらえるというのであれば仕方がない。どんなことでも訊ねるがいい」 黒鍵を手から離し両手を上にあげる。こんなポーズは代行者の技量を生きた知識として知っていたら、服従の証として信用してよいものではないと理解しているだろう。しかし、その形だけの降伏を見て影の声は気を良くしたようだった。『ほう。意外に素直だな。教会の代行者というのはどいつもこいつも話の通じない狂信者とばかり思っていたが、存外、話が早いじゃないか』 声に明らかに弛緩したものが混じる。しかし、目の前の槍兵は、緩んだ様子がみじんもない。むしろ、主の油断の分だけ警戒を強めたか、破魔の赤槍を綺礼の喉元に突きつける。 その光景を目にしてさらに上機嫌になった声が、投げかけられる。『ふふん。その辺にしてやるがいい。ランサー。明らかに尻尾を撒いている獲物を嬲るのは、君の騎士道に反するのではないかね?』「主殿がそうおっしゃるなら」 と槍兵が一歩引く。 尻尾を撒いたつもりはさらさらないが、ロード・エルメロイはそのように受け取ったらしい。勝手に優位を確信している。「あ、こいつは初陣で、しかも近いうちに早死にするな」と綺礼の経験が告げていた。こういう自惚れ屋のナルシストタイプは、どんなに才能があっても早死にする。戦場の初陣でついうっかり初見殺しの嵌め手とか、バカ詰みに引っかかって才能の1割も出せずに死ぬタイプだなぁと他人事のように思ったりする。。――なら、せいぜい有効活用するのが手か とあっさり結論を出す。『綺礼くん。きみはなぜアインツベルンの根城を目指しているのかね? もしや、まさか聖杯戦争で敗北を認めずに、サーヴァントをどこかから調達し、再度参戦しようと考えているのではないかね?』 まるで、神経質な教師が生徒の校則違反を咎めるような口調であった。 そこは表面上は超絶優等生の言峰綺礼である。こういう手合いはどう転がせば、こちらを気に入るかなど知り尽くしていた。「大変な誤解だ。私は代行者だ。そもそもこんな聖杯戦争などに選ばれること自体、全く持って迷惑千万だった。私には聖杯でかなえたい願いなどない。万能の願望機の力を借りて、個人的な欲望を叶えるなど、それは貴様ら魔術師のやり方で我々には許されざることだ」 こういう手合いをひっかけるには、相手の先入観を否定しないで、都合の良い情報だけを与える。これに尽きる。この場合は、「代行者が魔術を学んで聖杯戦争に参加することなどアホの所業である」という先入観を最大限に利用するのだ。『しかし、君は結果として参加した。断ろうというつもりはなかったのかね?』「代行者としての任務指令に拒否権はないと思っている。やれと言われたらやらざるを得ない。だから、全く興味のない魔術も学んだ。しかし、勝ち負け自体はどうでもいい。ただ数合わせのために参加しろと言われただけだ。だから、アサシンをアーチャーにぶつけて戦いそのものから降りた」 嘘は言ってない。嘘は。 誤解されるように言っているが、言葉が足りないだけである。あと八〇体ほど残っており、霊体化して気配を遮断し、すぐそばに待機しているということだけは黙っておこう。『……そ、そうか。代行者というのは案外大変な職業なのだな』 何らかの哀れみに満ちた声がむけられる。ぶっきらぼうな綺礼の発言が何らかの好奇心を刺激したようで、エルメロイ先生の詰問はどうでもいい方向に進んだ。『君の経歴を見ると、明らかに出世コースだったと思ったが、なぜ代行者になどになったのかね』「かつては枢機卿になるのでは、とか未来を期待されていた身だった。しかし、教会内の権力闘争に上司が負けた。流れ着いて代行者になった」『そ、そうか。出世争いの結果の敗北だったか。』 嘘ではない。しかしどうでも良いことだった。むしろ、つらい修業が待っているならその先に答えがあるのではとか淡い期待を抱いていた。そちらの方が重要だった。むしろ志願した。 『資料には妻帯者とあるが、こんな危険な戦いに赴くことに反対されなかったかね?』「3年前に他界した。娘とは、それ以来逢ってない」『……………………………』 気まずい沈黙だった。プライベートな不幸にむやみに踏み込んでしまったことに気まずさを覚えたらしく沈黙してしまった。 基本的に善人なのかもしれない。ますます魔術師の戦いに向いてない。「あ、主殿!」 と、ランサーが発言を促す。「おっと、そうだった。やりたくもない仕事を押し付けられてマスターになったことはよくわかった。私にも覚えがある。派閥争いなどは組織の梅毒だ。くだらんことこのうえない。さて、そのうえで問うが、やる気のないマスターがこんな危険地帯になぜいるのかね? 何の目的があってここに来た」 最初の高慢な態度が消えて、妙に同情的な音色が混じる。やはり善人だ。ゆえに御しやすい。せいぜい利用しよう。そして裏切る。裏切られたとわかった時にこの善良な男はどんな顔をするのだろうか。そう思うと××くてたまらない。「今回の聖杯戦争は、隠蔽工作を考えないで無茶苦茶なことをやる陣営が多い。サーヴァントを失ったマスターとはいえ代行者は代行者。監督役の手足としてこうして働いているというわけだ」 サーヴァントは確かに失った。八〇人中たったの1人だけだが。嘘は言ってない。嘘は。『なるほど。確かに無茶をやる陣営は確かにいる。何を考えているのか。魔術師の風上にも置けない汚い手法を使う匪賊が間違いなく居る。嘆かわしい限りだ』 妙に納得しだした。そういえば、ロード・エルメロイは住んでるホテルを爆破されて、丹精込めて作った出先の工房が一瞬で崩壊されたのであった。全く持ってお気の毒である。そう考えると××しくなってしまう。「追っているのはキャスター陣営だ。マスターはイレギュラーとして選ばれた殺人鬼で、これまでに二〇人もの子供を攫っては生贄に使うでもなくただ殺すだけの外道であることが判明した。しかも一切の隠ぺい工作を行っていない。そして現在は一〇〇人もの子供を殺害するために攫い、アインツベルンの森に向かっていることが判明した。監督役としても代行者としても看過できない。それゆえに、急遽私が後を追っていた」『なんと!? そのような外道が!!』 素直に驚いたような声色だった。そこには疑いの音色はなかった。 すかさずに畳みかける。「そういうわけで先を急いでいる。すまないが見逃してはもらないだろうか。これは魔術の隠蔽という点で、決して魔術師の理から外れた提案ではないと思うが」『君一人で戦うつもりか? 相手は最弱とはいえキャスターだ。いかな代行者とはいえ蛮勇が過ぎるというものだろう』 その一言で「釣れたな」と確信する。「それが私の使命だ。できるできないは最初から埒の外だ。それに勝算が全くないというわけではない。相手は正規のペアではない。マスターは素人だ。マスターを先手を打って仕留めることができれば勝機はある。もう問うこともないだろう。それでは私は行く」 と踵を返したその瞬間『まて』 と、綺礼の待ちに待った言葉が投げかけられた。『魔術師の理を外れた鬼畜外道がいるとあっては、時計塔のロードとして見過ごすわけにはいかない。聖堂教会の監督役の不手際を本来糾弾するべきなのだろうが、そんな状況でもないようだ』「どういうことだ?」 心底わからないような声を出す。あくまでも、理解できないことが起こったように演技する。『不必要に聖堂教会の領分に介入するつもりはない。しかし、このエルメロイのみたところ、もうすでに状況は教会の管理できる事態ではないようだ。ここは私が助力してやろう。そう言っているのだ。良いな? ランサー』「は。幼子を助けるのは騎士の本懐。このディルムッド、主の度量に感服する次第」 と頭を下げ、槍を捧げる。「キャスター討滅に助力してくれるというのか? 本当ならば願ってもないが……」 と訝しんで見せる。降ってわいた幸運を信じられないというような口ぶりでだ。『ただし、何の見返りもなくというわけにはいかない。そこはわかっているだろうね? 綺礼くん』「なにが望みだ」『冬木の教会には、過去の戦いで使用されずに残った令呪が回収されていると聞いた。それをもらい受けたい』 利害だけなら本来ならば考える場面ではない。一も二もなく飛びつくべきところである。しかし、ここは気を持たせた方がいい。騙しの手管というやつである。「それは……。私の一存で決められることでは……」 と、わざと勿体をつける。『嫌なら構わんよ。君一人でキャスターに挑むというだけならば止めはしない。さあ、いますぐいまこの場で選びたまえ』 自分の優位を確信した声である。 しかし、綺礼の腹はもうすでに決まっていた。すなわち利用するだけ利用しつくす。後で裏切る。そこに罪悪感は全くない。なぜならそれが代行者だからである。「魔術師をだまして何が悪い」が常識の職場である。「わかった。しかし、あくまで私の権限で自由になる分だけだ。もしもキャスターを討ち果たした暁には、聖堂教会にて保管中の令呪の一画を譲渡することをこの場で確約しよう」『そうか。一画か。まあ良い。それでは簡易的ではあるが、こちらのセルフギアススクロールに署名してもらえるかね』 と、声が届くが早いか、すぐそばの木陰からその姿が現れた。意外に近くに潜んでいたようだ。 写真で見たときよりもわずかにやつれた顔だが間違いない。 ケイネス・エルメロイ・アーチボルドだ。 てのひらに収まりそうな羊皮紙のスクロールを取り出すとそこに筆記体で文言を刻む。「教会に保管してある令呪一画譲渡。聖堂教会の全権委任者、言峰綺礼からケイネス・エルメロイ・アーチボルドへ。ただし、ランサーがキャスターを討滅した場合に限る」と乱雑に即興で書きこまれる。 この男はわかっているのだろうか? ここに署名をするということは、裏切りが露呈したとしても、令呪に固執する限り令呪を受け取るまでは綺礼を殺したくても殺せなくなるということだ。 恐らく裏切られるなど微塵も考えていないのだろう。鉄火場をくぐってきた男なら「裏切ったら自殺する」とか「キャスターが死ぬまで絶対服従」ぐらい書くものである。 おそらく、騙されたことがないのだろう。 そして、綺礼の予感が告げていた。こいつはたぶん、令呪を受け取る前にリタイヤするだろうなあと。 手短にサインをしながら綺礼は思う。「あの男ならこんな手には引っかからないだろうな」と。