夜が更けていく。 時計の針が11時を回った頃。「------眠れん」 そうつぶやくと、目蓋を開く。 理由はわかっている。 隣の部屋に金髪の美少女がいるからだ。「………なんだって、こう--」 時計の針の音に紛れて、穏やかな寝息が聞こえる。 あの、物語から抜け出てきた、凛とした姫騎士のような英霊。 いかに人外の力をふるう恐るべき使い魔であったとしても、あの黒い巨人と正面から撃ち合う剛力を持つ剣士であったとしても、姿は少女である。 同じ部屋に寝ると言って聞かないセイバーを、なんとか拝み倒して、「隣の部屋に寝てもらう」というところまで妥協させたのは僥倖であった。 隣にセイバーの寝顔があったら、自分を抑えられる自信がない。いや、自分はそんなケダモノではないのだ。ケダモノではないのだが、万が一ということもある。 冷静に考えれば、セイバーを無理やりどうこうできるわけなどないのだが。 しかし、身長以外の発育は良好な健康男子である士郎にとって、ちょっと年下に見える美少女がすぐそばで無防備に眠っているというのは、生殺しに近い。「ああああ。もう、眠れるわけ無いだろう!!」 とつぶやくと、布団からゆっくりと音を立てないように抜けだした。 あの、剣豪と呼ぶにふさわしい技量の持ち主のセイバーである。もしかしたら、セイバーから離れようとする気配を察知されるのでは? と危惧していたが、そんなこともなく衛宮亭の庭へと脱出は成功した。 離れの方に目をやる。遠坂凛と、その使い魔のアーチャーの部屋がある。 今はもう明かりはついていない。 もうすでに眠りについたようだ。 狐耳のアーチャーは、「うむ。我に茶室をあてがうとは。お主の性癖は特殊じゃが、なかなか見どころはあるやもしれぬ。これから先も励むが良いぞ」 などとぴょこぴょこ茶室に私物を配置していた。「我の使い魔が、鷹の目でこの家を見張っておるから、敵の奇襲など心配する必要はない。安心して眠るが良い」 など自信満々であった。 その使い魔であるが、「どんな使い魔なんだ?」 と聞いたはいいものの、「トラウマになるゆえ見ないほうがお主のためじゃ」 だそうである。遠坂凛も姿形は知らないようだが、「この子が見ないほうがいいっていうんだから、多分見ないほうがいいわよ」 と、あまり深く詮索する気はないようだ。 そんなことをぼんやり考えているうちに、目的地の土蔵の入り口へとたどり着いている。 昨日ランサーに殺されかかった場所であり、セイバーが召喚された場所。 そして、半人前の魔術師の工房でもある。 もっとも、成果と呼べるものは何一つない、セイバーが召喚された魔法陣以外、一切魔術的要素のかけらもない工房。 どちらかと言えば、精神統一のための鍛錬の場所といったほうが近いかもしれない。 桃色に染まってしまった頭のなかを浄化するために、一日の総仕上げとしての、魔術の鍛錬をすることにした。 扉を閉めて、土蔵の真ん中に座り、意識を集中する。結跏趺坐。「ふぅ--」 呼吸を整え、頭のなかを真っ白に。思春期特有のピンク色に染まりやすい頭のなかを白く白く染める。「同調-開始-(トレース オン)」 この言葉に意味などない。 南無阿弥陀仏でも、臨兵闘者皆陣列前行でもなんでも良いらしい。 ただ、自分に暗示をかけるための言葉だ。 その言葉と同時に、自分の背中に焼けた鉄の棒が突き刺されるイメージを繰り返す。 背骨に突き刺さった棒が、魔術回路に接続される。 使う魔術は強化。目の前に転がっている鉄パイプの構造を強化するだけの魔術。しかし情けないことに成功率は0.1%といったところである。 半ば失敗を覚悟しながらの魔術鍛錬。 そのさなか、ほんの僅かにゆらぎが生じた。意識よりももっと奥。本能とか起源とか呼ぶような部分が蠢く。 真っ白に染まった脳裏の中にぼんやりと、何か鋭利な影が浮かぶ。 幾千もの微細な傷が刻まれながらも鈍色に光る穂先。赤い布が無造作に巻かれた太刀打ち。いつも頭に思い浮かぶ金色の宝剣ではない。 歴戦の戦いを駆け抜けた白銀の槍。それが脳裏に浮かぶ。 その姿を“観た”瞬間、願望が生まれた。 その槍を、創り出したい。この両腕に握りしめたいという、根源的で原始的な欲望だ。 鋭利で強靭。化け物はその刃鳴を聞いただけで滅びを感じ、その使い手を観ただけで終焉を予感する。 幾多の妖怪変化と戦い、その使い手は不敗。魂を削りながら、持ち主に獣の如き敏捷さと、化け物の怪力を与え、その穂先は触れただけで化け物を消失させ、その刃腹は天を貫く轟雷さえ弾き返す。 作りたい。 造りたい 創りたい。 --ガチリ-- 予期しないうちに撃鉄が起こされる。 いつの間にか魔術回路が励起し、炉心に火がくべられ、銑鉄がさらなる錬成を求めて赤く光を放つ。 こうなってしまっては、もう鉄パイプの強化などできるはずがない。 もう一度つぶやく。『投影-開始-(トレース オン)』 基本構造を想定、構成材質の分析と複製、鍛造の技術を模倣、そして想像を創造へと導く。 その作業で終わるはずだった。 自分にとっては強化よりも投影のほうが性にはあっていた。しかし、魔力で編むと言う性質上、0から武具を作り出すよりも、実在する武器を強化するほうがずっと効率が良い。 それ故に強化を学ぶことになったのだ。投影は、実在しないものをどうしても魔術儀式で模倣せねばならないときにのみ使われる、いわば代用魔術である。それが魔術師にとっての常識だ。 しかし、自分は見てしまった。あの、槍を。 見てしまったら“贋る”しかない。 基本構造を想定、 構成材質の分析と複製、 鍛造の技術を模倣、 そして想像を創造へと導く 投影魔術の工程はそれだけだ。 そして魔力を編み、実体化する。 その槍が実在の質量を手に入れるか否かというその瞬間、唐突に--脳髄に汚泥が流し込まれた。 黒い。瘴気。泥。沼。熱い。 腐臭を放つような怨念が神経を侵食していく。 なにが起きたのかがわからない。完全なる不意打ちだった。 もう一度、投影の作業工程を見直す。 その刹那、最大の失策に気づいた。 見落としていた。 本来真っ先にすべき、創造理念の鑑定を。 その槍が「なんのためにつくられたのか?」 この槍は----だ。 憎い。憎い。憎い。憎い。憎しみが止まらない。 全身の神経を流れる電気信号が憎しみに染められる。 唐突に理解した。 この槍は呪いの槍。憎しみの権化なのだと。 人間が創りだした暗黒。 暗黒を打ち倒すために作られた暗黒の槍。 これは人間が創ってはいけない槍なのだ。 たとえ複製物であったとしても。それが投影魔術による贋作であったとしても。「ぎ----く、ああああああああああああああ…………!!!!!」 叫んだ。「……え……か」 足りない。叫び足りない。「く-くう、う、ああああああ、あああああああああああああああ」 苦しい。「聞こ…………たら……返事を……」 全身が焼ける。血管という血管にくろぐろとした廃液が回る。「ぐ、く、くああああああああああああああああああ」 息ができない。全身に酸素が行き渡らない。水槽の外に飛び出した金魚のように全身をばたつかせ、のたうち回る。「ええい!! 我の声が聞こえぬか? 剣の英霊の主よ!! 意識を我のほうに向けよ!! 向けねば命はないぞ!! いや、あるかもしれんが、人格と意識は無事ではすまぬぞ!?」 何かがそう耳元で叫ぶと、なにか小さいものがものすごい力で頬に激突した。 ばちん!! と乾いた音を立てて、痛みが頬に走る。「……っか……っはあ!?」 暴走した炉心の熱が軟いだ。が、それも一瞬のこと。 並べられたドミノが倒れていくように、魔力回路が一旦始まった錬成を止めようとしない。 一度命じられた命令を取り消すことができない壊れた装置のように。「聞こえたら返事をせい。頷……だけで………。え……こ………」 さっき聞こえた叫び声がまた小さくなる。ゆっくりと、しかし急速に削れていく。 意識と呼ぶべきものが、墨汁を流し込まれた水のように黒く黒く染まっていく。 魔力の暴走による自傷事故だ。初歩の初歩の魔術師が最も恐るべき現象。--終わりだ。 そう予感した。 そのとき、唇に柔らかいものが触れた。いや、触れただけではない。口の中に柔らかいものが入ってきた。それは生き物のように士郎の舌に触れると、ゆっくりと這い回るように動いた。 冷たい。 いや、唇にふれたものの温度は人肌で温かいものだったような気がする。 しかし、柔らかいものが口に差し込まれて呼吸を十も数えた頃だろうか? 暴走状態だった炉心は冷却剤を流し込まれたかのように熱を失い、魔力回路を駆け巡っていた高密度の黒い電流は士郎の口に入ったものを通じて、大部分が体内へと排出された。 目眩がする。 吐き気もだ。 加えて頭が麻酔なしで手術されたかのような強烈な頭痛。 しかし、それは、まだ「痛みを感じる機能が残されている」ということに他ならない。 魔術回路の暴走事故は、起こってしまえば、死。運が悪ければ廃人となる。とりわけ感覚神経へのダメージは深刻だ。 しかし、痛みをまともに感じられるということは、なんとか最悪の事態は回避されたということなのだろう。 ゆっくりと目を開けた。 そこには顔を真赤にして、小刻みにプルプルと震えるアーチャーが居た。 なにが起きたのかを理解した。アーチャーが口から直にパスをつないで、暴走していた魔力をあちら側に吸いだしたのだ。 口から直にパスを繋ぐということは、つまり、そういうことだ。 あまりの恥ずかしさに、いっその事気絶できればいいのにと心底思った。 「……我は怒っておるのじゃぞ」 10分ほど押し黙ってお互いがお互いの顔を見ることが出来ない時間が流れたあと、狐耳のアーチャーは小声で口を開いた。 いつもの天真爛漫さは鳴りを潜め、目尻には涙まで浮かんでいる。「あ……。その……。ごめん、アーチャー。キスまでさせちゃって。本当に俺が悪い」「アホか!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 貴様は!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!?」 耳が痛い。 思い切り怒鳴られた。 土蔵の天井からパラパラと埃が落ちてくる。「我の第二の人生のファーストキッスの代償はいずれ返してもらうのは当然じゃがな!? お主が身の程もわきまえずに、“あの槍”を無から創りだそうなどとたわけたことをしておることのほうが我は許せんのじゃぞ!? 己は自分の軽率さを割腹自殺して詫びるのが先じゃとは思わぬのか!?」「あの槍って、アーチャーは、アレが何なのか知ってるのか?」 あの憎しみを煮詰めて形にしたような、殺意と怨恨の塊のような銀色の槍。投影しようとしただけで人格ごと塗りつぶされそうな暗黒の奔流。それに心当たりがあるというのだ。尋ねずにはいられなかった。「まず、何度も言うておることじゃがな。我をアーチャーと呼ぶでない。もしも今日、もう一度我をアーチャーと読んだら、剣の英霊と我が主をたたき起こして、『ロリ宮士郎に無理やりファーストキッスを奪われた。舌まで入れられた』と言って泣き喚くぞ?」「はい。二度と言いません」 ちなみにさっきから言われるまでもなく正座している。「あの槍はの。我を殺すためだけに作られた外法の槍じゃ。宝具として換算したら最低でもA++は固いの。お主のような雛鳥が形だけを真似るにしても荷が重い。脳髄があの槍の重さに耐え切れずに造る前に焼け落ちてしまうのが当然の理じゃ。そんなことよりも我の問にも答えよ」 そうして銀色の瞳がこちらを見据える。「お主、あの槍をどこで知った? なぜお主があの槍のことを知っておるのじゃ?」 その瞳の色は、今まで見ていたいたずら好きの子供の瞳ではなく、もっと温度の低い冷酷な観察者の色をしていた。 その目に打たれてしまった以上、嘘などつけない。真実を話すしかない。「信じられないかもしれないけれど、ただ思い浮かんだんだ。魔術の鍛錬をしようとしたら……」 銀色の双眸が舐めるようにこちらを観察する。二呼吸ほどの間をおいてから、「嘘はついておらぬようだの。ならば……ふむ……なるほどのう……。そういうことか……。うむぅ……。そうなると無碍にお主を責めるわけにはいかんのう」 と一人で何やら納得しだした。「あの槍はのう。おそらく我の記憶じゃ」「記憶って、……のか?」 危うくアーチャーと呼びそうになって、うめき声で隠す。命の危険があったとはいえ、さすがに子供にしか見えないアーチャーといわゆるアレなキスをしたのは間違いない。 社会的信用を失うのはさすがに避けたい。「うむ。昨日の学び舎でお主を助けるために我の尻尾の一本を、お主の体の中に埋め込んだのじゃが、そこから我の記憶がお主に流れ込んでおるのやもしれぬな。これから先も、我の記憶が時々流れ込むかもしれぬが、気にするでない。何か見えたとしても他言無用じゃぞ。剣の英霊や、とりわけ我の主人にはな」 解せない。「セイバーに黙ってるのはわかるけれど、遠坂にも言わないほうがいいのか?」 アーチャーと自分たちはいずれは敵になる。だから情報を与えないようにするというのはわかる。しかし、遠坂凛はアーチャーと仲間のはずである。なぜ隠すのか理由がわからない。「我の記憶にろくなものなど何もない。我がマスターにもお主にも百害あって一利もなかろう。主人は我の過去を知れば、間違いなく悩むであろうよ。くだらぬことで悩むぐらいなら我の名前を考えさせておいたほうが我はうれしいのじゃ」 アーチャーの顔を見ると、いつもの少女の顔に戻っていた。その顔を見ると、どんなお願いでも聞いてしまいたくなる。ましてや、魔術回路の暴走から助けてもらった身である。断れるわけがない。 自分が首を縦に振るのを見ると、アーチャーはふと気がついたように尻尾を弄り始めた。「無論ただで、とは言わぬ。そうじゃな。お主にはこれをくれてやろう。しっかり励むが良いぞ」 白の光と黒の闇が閃いたかと思うと、次の瞬間、目の前に白と黒の双剣が屹立していた。 鋭利な光と重厚な刃厚。間違いなく宝具レベルの武具だ。「我が叩き折った剣の複製じゃ。名前も忘れたが、お主が学ぶにはちょうどよい代物であろ」 息を呑む。 これほどの業物をこともなげに複製し、あまつさえ叩き折ったと語るアーチャーにだ。「それと今日はもう休むが良い。体の中から毒気の大半を抜いたとは言え、昨日今日だけで四回も死にかけたのじゃ。おとなしくしておるのが良いであろうな。もう一度ど下手な魔術鍛錬などしようものなら、今度は脳髄が腐り落ちるぞ? その時にも我がお主を助けるなどと思っておったら大間違いじゃからな?」 そうして狐耳のサーヴァントは踵を返す。 その背中に声をかける。「俺から質問してもいいかな?」「なんじゃ?」「どうして俺が魔術回路を暴走させたってわかったんだ?」「我の使い魔が鷹の目でこの屋敷を見はっておるというたであろうが。お主の秘蔵のエロ本の隠し場所も性癖も、我には筒抜けじゃ」 冗談であってほしい。それだけは本当に冗談であってほしい。「用はそれだけか? それならば我は寝るぞ」 それだけじゃない。どうしてもこれだけは言っておかなきゃいけない。「あの……。いまさらだけど、感謝してる。助けてくれて……ありがとう」 その一言で、アーチャーはビクリっと動きを止めて、油が切れた機械じかけの人形のようにギギギギギギギギギと首だけ振り返る。 その顔は土蔵の闇の中でもはっきりわかるほど紅潮していて、思いもかけない不意打ちを食らったようなそんな表情だった。 アーチャーはぐぬぬぬぬぬぬぬぬ、とうめき声をもらしたあと、「我は寝るぞ!!!!!!! もう寝るのじゃ!!!!!!!!」 と大声で叫ぶと、大股で離れの方角へと立ち去っていった。 また、怒らせてしまったのだろうか。 結局、今夜の一件のことは、セイバーと遠坂凜には黙っていてもらえるのかと不安になりながら、こっそりと母屋の布団に戻り眠りについた。 寝苦しさはいつの間にか消えていた。