――間桐雁夜は夢を見ていた。 空からなにかが降ってきている。白くて大きいなにか。 九つの大きい尾を引く彗星である。 彗星が自分に向って落ちてきている。 屋根を突き破り、壁を吹き飛ばし、 父を、母を、産婆を、兄を、姉を、焼き尽くし、 大地に傷跡を残し 彗星は雁夜の右肩に吸い込まれた。 “カリヤおじさんのこえ、もうきこえなくなっちゃったな”――きっと気絶したんだろう、少しだけうらやましい。もうつらくないのだから。 この一年の間に、少女は多くのものを奪われた。 目の前の、冷たい鉄の扉の中で“教育”という名のもと行われた、語るもおぞましい餓鬼畜生の業によってである。 想像するもけがらわしい冥府魔道の業によってである。 もし、一年前に、少女が遠坂桜であった頃を知る者ならばその変化になにを思うだろうか。 遠坂桜は、決して活発な子どもではなかった。どちらかといえば、優しい母や気高い姉の後ろに隠れている引っ込み思案な子どもだった。 しかし、桜をよく知る大人たちは、桜が自分の足につまづいて転んだときの泣き顔を知っている。 姉に怖い話を聞かされて、夜に一人でトイレに行けなくなったことを母親が話したときには、顔を真っ赤にして恥ずかしがったことを覚えている。 立派な父に叱られて落ち込んでいる姉の頭を、桜の小さな手でなでていたことだって忘れていない。 ぬいぐるみのお土産をもらった桜が、蚊の鳴くような声で口にしたありがとうを、間違いなく耳にしたのだ 仲の良かった姉と、小動物のような仕草でじゃれあっていたときの笑顔を、記憶から消しさることのできる人間はいないだろう。 しかし、この間桐桜にはどの記憶の表情が浮かぶことはない。諦観に満ちたその表情。幽鬼のような青白い肌。深層に、澱のように、唯一残されていた感情は恐れのみだ。 まるで、体内を流れる熱い血潮が、闇色の液体になってしまったようだ。 それも、暴虐の釜にくべられた童にとっては、正当な自衛行為であった。“きょうは、いったいなんのじゅぎょうなんだろう。” 桜のように抵抗する術を知らない子供にとって、絶望こそが未知に対する恐怖を克服する唯一の方法なのだから。“つぎは、わたしだ。いつもおなじだ。されることはちがっても、わたしがいじめられて、きもちわるくて、いたくて、にがくて、つらくて、きをうしなって……それでおわり” いつからか、間桐桜には、言葉にならない願望がうまれていた。――はやくおしまいになってほしい。こころとからだがこわれておわってほしい。 凄まじい轟音が、屋敷を包んだ。 眼前の、冷たい鋼鉄の扉が、文字通り吹き飛んだ。莫大な黒煙と共に、ぬうっと、なにかでかいものが蟲蔵から出てきた。 巨大なものは、桜のよく知っているものを抱えていた。桜と同じで、虐められるだけのもの。 子どもの目から見ても瀕死の状態であることがわかってしまう。――この大きいナニカは、きっとおじいさまや、ビャクヤおとうさんと同じなのだろう。 瞳に映る、天を衝くような巨大な金色の獣が、雁夜をこんなふうにしたと桜は感じた。 雁夜が血涙を流し、うめき声をあげることもできず、擦れた呼吸音を鮮血と入り混じった涎と共に垂れ流す光景を目の当たりにする。ほんの少しだけ、桜の奥底に暗い波が生まれた。 鉄の扉が吹き飛び、目の前にバケモノが現れたことよりも、半死半生の雁夜のほうが、ほんの少しだけ少女の心を動かした。「……カリヤおじさん」 しかし、その波も桜に虫の羽音のような声で、そう呟かせるのが精一杯だった。 そうして、汚泥の貯め池へと歩を進める少女に、金色のバケモノが声をかけた。「おい、コムスメ」 しゃがれた、不機嫌そうな声であった。「そっちにゃなにもねえぞ」「でも、おじいさまが、カリヤおじさんが出てきたら、ムシグラにくるようにって……」 そう言って地下室に下りて行こうとする陰気な少女と、金色のバケモノがすれ違う。 実際、バケモノは不機嫌であった。 なんだかよくわからないが、大した願いもないのにいつの間にやら、聖杯とかいうのにサーヴァントとして召喚されており、自身を使役するマスターは半死半生の有様である。 召喚された場所も、胸糞悪い蟲共の吹き溜まりで、蟲共の親玉が気色悪くも甘い言葉で擦り寄ってきた。 マスターが未熟なのか儀式が不完全なのか、ほとんど魔力の供給もされず、腹は減りっぱなしである。 これで、機嫌が良いサーヴァントなどいるはずもない。 それは、不機嫌を紛らわすための悪戯のつもりだった。「おう旨そうな小娘がいるな。ぶっ殺して食ってやろうか」 人食い鮫のような口を凶々しく歪め、ピンク色の舌をぬらりと出して脅かしてやった。 牛頭馬頭の悪鬼がもしこの場に居たとしても、即座に踵を返し裸足で全力疾走しただろう。――てっきり震え上がって床にへたり込み、小便の一つも漏らすとかんがえていたのに。――母親を呼びながら、腰の抜けた身体をくねらせて、自分の反対方向へと逃げだす光景をみて笑ってやるつもりだったのに。 その小娘は、あろうことか、微笑っていたのだ。“これでおわりなら、もう、それでいい。”“くるしくなくなるのならそれでいい。”“ごめんなさい、カリヤおじさん。”“さきにらくになります。” 臓硯は、自らの死すら許そうとしなかった。 間桐桜にとって、死ぬのは嫌であるが恐怖の対象ではない。 恐れることなどなにもない。 目の前の怪物は、桜にとって単なる救い主なのだから。 その泣き叫ぶはずの少女は、腹の据わった声で、眼前の大妖怪にこう言いやがったのだ。「どうぞ」 奇妙な沈黙が流れた。 バケモノは、妙なものが詰まっていないかと刀剣のような爪で自分の両耳をほじくり返し、なにかを探すように周囲を見回した。 その滑稽な仕草が、すでに覚悟を決めていた少女を苛立たせる。 桜の心の中に、再び波が起き始めた。真っ黒い波であった。――なんだ、すぐにらくにしてくれないの?「はやくしてください」“ブチッ” ナニカが切れる音がした。 大妖怪の肩が、腕が、足が、脇腹が抱えられた間桐雁夜が小刻みに震えていた。「……いまなんつった?コムスメ」 どことなく、悲哀に満ちた声であった。――耳の悪いお化けなのだろうか。それならば 子供特有の腹式呼吸による大声で、そうするのが当然だと言わんばかりの声色で、「どうぞ、はやくしてください」“ブチブチ” さらにナニカが切れる音がした。 過去に、このバケモノに喰われたいと志願した人間はいなかったわけではない。 しかし、こんなにふてぶてしい態度で、こんな馬鹿げたことを要求されたのは、大妖怪の二千年以上の経験の中にも存在しない。 しかも、こんな投げ飛ばせば水平線の彼方まで飛んでいきそうな人間のガキに。 あまりといえばあまりのことに「……おめえバカか」 そう口にするのが精一杯であった。 桜に、この一言は看過することはできなかった。心の奥底にある、闇色の衝動が次第に渦を巻きはじめる。「わたしのこと、たべてくれないんですか」「あたりめーじゃねえか、ボケ。ほんとーに喰うわけねーだろうが。このガキが」 桜にとって、この一言は死刑宣告などとは比較にならないほど残酷な言葉に聞こえた。 絶望と諦観によって自分の心を守ってきた少女にとって、希望を与えておいてそれを奪い取るという行為は、いままでされたどんな行為よりも非道に感じられた。 がらんどうだった心を、次第に漆黒が、闇色が嵐となり支配しはじめる。 この間桐の家に来てから、否、少女が人生で初めて人を責める言葉が口から紡ぎだされた。「じゃあ、……うそついたんですね」“ブチブチブチ” 大量にナニカが切れる音がした。 桜は、あろうことか笑っていた。貧相な格好で宴会に来てしまった田舎者を嘲笑う都会女のように。「おいガキっ。てめー、ジョーシキでかんがえて……」「うそつきです」 取りつくシマもないとはこのことである。追いすがる大妖怪にぷいと背を向ける。「おめー、ひとの話をきけよっ」 バケモノには意地があった。人間の貧相なガキを脅かそうとして、やりこめられてしまったなどどとてもではないが大妖怪としての誇りが許さない。 この陰気で生意気な小娘に、ビビり倒してもらわなくては、バケモノの沽券にかかわるのだ。「いいか、わしに喰われるっていうことはだな、血がドバーつっとでて、グチャグチャのどろどろ……」 眼前のバケモノに喰われるとはどういうことかを、延々と力説されても、桜には薄ら笑いしかわいてこない“なんだあ、そんなの、おじいさまのきょういくのほうがずっとつらい” 生殺しを延々と続けられることにくらべれば、一回で終わるならばどんな苦痛も桜にとっては怖くなかった。 目の前のバケモノは一体何をそんなに必死になっているのだろう。その疑問の回答がふとの頭に思い浮かんだ。“ああ、なるほど。そういうことか” 一年前の、遠坂桜を知る者が見たら卒倒してしまうやもしれない。童とは思えぬ妖艶な表情で、伝説の大妖怪の自尊心に止めを刺した。「もしかして、わたしをたべるのがこわいんですか?」“ブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチ” ナニカが一斉に、盛大に切れる音がした。 十にも満たないこの小生意気な人間の雌は、この最強の妖怪を臆病者の弱虫の嘘吐きと見下しているのだ。 抱えていた雁夜を振り回し、完膚なきまでに叩きのめされた大妖怪は、景気よく唾を飛ばしながら、負け惜しみを絶叫し始めた。「おいコムスメ。わしはなぁ。おめーみたいな、ひんそーで肉づきが悪くって虫食いのがきなんかほんとーは食いたくねーんだよ」 顔を真っ赤にしたバケモノの口から、妙な単語が、飛び出した。「てろやけはんばっがって知ってるかっ」“そんなへんな言葉、聞いたことがない。おじいさまからも、カリヤおじさんからも、あのひとたちからも聞いたことがない” ぷるぷると首をふる。「わしがおめーをくわないのはなぁ、てろやけはんばっがのほうがおめーよりずっと旨えからだっ。くったことあるか?」“喰ったことあるか?そんなみょうなものたべたことない。おじいさまのつくりだしたあたらしい虫かな?” 「ほんとうにおいしいんですか、それ?」 一度だまされているのだ。桜は、もう騙されないとばかりに慎重に聞き返す。「すごくうめえぞ。おまえみたいな虫食いよりきっとすごくうめえぞ。だから、おめえを喰うのは肉付きがよくなって目方が増えた当分後にしてやる。楽しみにしとけ。行くぞ」 二千年の寿命が生んだ、盛大な負け惜しみであった。そうしてバケモノは、てろやけはんばっがなるものを食いに連れて行こうと、桜を抱えあげた。「でもおじいさまが、ムシグラにくるようにって……」 そう口にして、恐怖が湧きあがってきた。ここでこんなマヌケなバケモノと遊んでいる場合ではないことを思い出したのだ。 その急に怯えだした仕草が、金色のバケモノのなけなしの自尊心を再度踏みにじった。 その少女は怯えていた。 怯えられるのは嫌いではない。しかし、自分以外のなにかにおびえているものは好きではなかった。“わしにびびらんくせに、あんな気色悪いだけの虫どもにびびるとは……”「そっちにゃなにもねえぞ。虫なら全部一匹残らずわしが焼き殺した。虫の分際でわしにたかりやがって……」「でも、おじいさまが……」 そういうと、震える体をうごかしながらなんとか下に降りようとする。 耳の奥にこびりいて離れない、『桜、儂のいうことが聞けんというのか?』という言葉の意味を、少女は世界中の誰よりも理解している。「いわなかったか?コムスメ」「わしは、一匹残らず全部焼き殺したって言ったんだ。喰うぞコラ」 しかし、その言葉の意味を、どうしても少女は理解できなかった。 きょとんとしている桜を右腕に抱え、バケモノは死に損なったマスターを寝かせる場所を物色し始めた。