――花を買った。――生まれて初めてのことだった。――別に花でなくてもよかった。――「女に送るのなら花だ」――そう、誰かが言っていたから花にしたのだ。――宝石でも、金貨でも、布でも、敵将の首でもよかった。――色々と考えたが、花にしたのだ。――恥を忍んで、いけすかない貴族の一人に相談した。――その貴族は、自分の言葉を聞くと、阿呆のような顔をして、呼吸することを忘れたかのように笑いだした。――貴族は、笑い過ぎたあまり涙を流しながら、なんとか「女に送るのなら花だ」といった。――笑われていたのは自分だ。普段ならば、思いきりぶん殴ってやるところだが、今回ばかりはそんな気分にならない。――礼を尽した後、市場へと向かった。――花以外にもいろいろなものを買った。――市場で花を買うということが、こんなにも恐ろしいことだとは、知らなかった。――背なの肉が汗ばむ。臍の上の辺りが万力で締め付けられる。――戦場で千の敵兵に囲まれたときよりも、ずっと脚が震えた。――花以外にもいろいろなものを買った。――しかし、自分が花を指さすと、やはり物売りは阿呆な顔をして此方を凝視した。――陸に上がった魚のように口を動かし、「は、花ですか?」と判り切ったことを訊ねられる。――宝石を投げるように渡す。花の代金ではない。――余計なことを言いふらされないためだ。――女に花を贈る。――ただそれだけのことだ。――普通の男ならば、誰でもする。当たり前のことだ。――その誰もが出来る当たり前のことが、なぜこんなにも難しいのか。――歩いた。花を持って。――ただひたすらに。――あの姉弟の元に。風の流れる音がする。いや、耳に大量の空気が流れ込む音だ。寒い。気温が低いのだ。 全身に、なにか柔らかいものが巻きつけられている。 今更驚くほどの事でもない。 目を開けた現実が、いかに絶望に満ちたものであったとしてもだ。 いつ命の灯し火が、死神のきまぐれによって吹き消されたとしても不思議ではない。自分の意識が、古くなった蛍光灯のように点滅を繰り返した所で一喜一憂などしてはいられないはずなのだ。しかし、疑問もある。本当に自分は死ぬのだろうか? 臓硯に聞かされていたサーヴァントを使役する負荷というのは、この程度ではなかったはずだ。そもそもサーヴァントが現界を保つにはマスターの魔術回路からの魔力供給が不可欠だ。雁夜が魔力を生成するということは、体内に埋め込まれた刻印虫が雁夜自身をむしばむことに他ならない。サーヴァントが戦闘をするたびに、骨肉の中で覚醒した刻印虫が蠢き、荒ぶるはずなのだ。刻印虫が筋肉を喰らい、骨を砕き、内臓をその毒で汚染する。その苦痛は、臓硯の行った調整の比ではないはずなのだ。全身の毛細血管が破裂し、皮膚は爛れて腐り落ち、歩くことさえままならず、脳は神経からの痛覚信号に疲弊し、痛みさえも感じることなく、思考することさえ出来ぬ。生物としての機能は全て停止し、それでもなお身体が動くのは、ただ体内に埋め込まれた刻印虫が無理矢理に、宿主を生かそうとしているからだと、他ならぬ臓硯が、そう嬉々として語ったのだ。 よもやまさか、雁夜を怯えさせるためだけに、つまらぬ嘘を弄した――とも考えにくい。 だとすると、この状況はどういうことなのか? 僅かにだが、萎え掛けた脚に、痺れ切ったその指に力が戻ってきているような錯覚さえ覚える。 意を決して目を開ける。 右目に飛び込んだのは大量の星。 遠い。 地面が。 吹き飛んだ。なんか色々。 以前、航空写真で見たことがある景色だ。アレは上空1000メートル? いや2000メートルの写真であったか? アレは誰だったろうか? 以前取材したオーダーメイドで人形を作る職人の言葉だったろうか? 人間が、高いところから地面を見下ろしたときに一番最初に感じる感情とは何か? それは怖いでもなく、死ぬでもなく“遠い”なんだそうだ。それがいったい人形造りと何の関係があるのかわよく解らなかったが、ただ一つ。彼女の言っていたことが正しかったということだけは認めなくてはならない。 そして、そのあとから色々な感情が噴出してきた。 自分がしがみついていたのは、バカでかい己がサーヴァントの胸板であったようだ。 その胸板の主に、本能のまま浮かんでくる言葉を雁夜はぶつけた。「お、おい。お前、降ろせ。なんで、空……バカっ、なんだ、これっ!! 降ろせ、とりあえず、今すぐに。バカっ!!」「相変わらず、やかましいな……ますたーは」「うるさい、バカっ!! さっさと……」「……降ろしてもいいけどよ、死ぬぞ」「降ろすな。絶対にだっ!!」 なんとか呼吸を整えて己が下僕に食ってかかる。「なんで空飛んでるんだよっ!! お前はっ!?」「バケモノが空飛んで何が悪いんだ? ますたー!?」「…………」 動悸がする。 息切れもだ。 断じて体調が急変したわけではない。 このサーヴァントの常識の無さに驚いただけだ。 そうだった。こいつはそういうやつだった。 性格がおかしいとか変人とかいうよりは、種族自体が違うのだ。 奇天烈な外見だけ見てもわかるように、人間の常識など通じる相手ではないのだ。 自分が息切れているのは、心拍が乱れているのは、このバケモノが非常識だからである。 断じて体調が急変したわけではないのだ。 おかしい。 異様なことだ。 半死人の自分が、こんなにも自分の体調が、持ち直しているのか? こんな些細な感情の変化に、全身が反応できるほどに、余裕が残っているのか? 本来ならば、体調の変化など気にできる身分ではない。 自分の体はもうすでに魔力を生産するだけの動く屍で、魔力を生産するたびに、ただひたすら崩壊し続けるだけの存在のはずなのだ。 サーヴァントを召喚した後は、その崩壊に拍車がかかり、刻印虫が全身を食い漁っていなくてはおかしいはずなのだ。 ふと思い当たる。解答などひとつしかない。 ただ、この疑問を口にしたのならば、自分とサーヴァントの関係は、一気に変質してしまうかもしれない。なぜ、そのようなことをするのか? 意図がまったく読めない。 しかし、だからこそ訊ねなくてはならない。 何の意図があってそんなおせっかいを焼くのか。その意思がどこにあるのか確かめなくてはこれから先、戦い続けることなどできるわけがない。 何とか意思を集約し口にした。「それで、なんでお前。俺の魔力を使わないんだ?」 声にしてから、いいようのない後悔の念が押し寄せてくる。こんなにも自分が臆病者であるとは想像さえしなかった。 なぜ、この間桐雁夜の体調が持ち直しているのか? その解答は、このサーヴァントが自分からの魔力供給を意図的に絞っているからに他ならない。 いかに、狂化スキルが有名無実名ほどに低いとはいえ、これほどに魔力消費が低いことなどありえるはずがないのだ。 ましてや戦闘の後である。どんなに燃費の良いサーヴァントでも戦闘の際の魔力消費は、通常の現界の数倍に上る。それなのに雁夜の体にかかる負荷は皆無と来ている。これで気づかないはずがない。 今から振り返ってみれば、サインはいくつもあった。大量に食い散らかされた食料。強敵との対決の際の宝具の不使用。 全て、自分の魔力を吸い上げないようにする、このバケモノの配慮だったのではないのか? 返答を待つことはできなかった。 もしも仮に、考えていた通りの答えが返ってきたのならば、その回答を自分は受け止め切れないかもしれないという恐怖が問いを重ねさせた。「お前、それで勝てるのか?」 後からの質問には、すぐにつっけんどんな声が戻ってきた。「……どうしてもワシにほうぐを使わせたかったら、れいじゅを使え」 それは、令呪をもって命令されない限り、宝具を使うつもりはないということだろうか。 しかし、それでもしも敵との戦闘で敗北するというのならば本末転倒ではないか? そう問いかけようとして思いとどまる。 バケモノが何を言わんとしているかに思い当たったからだ。 令呪は三度しか使えないサーヴァントに対する絶対的強権の発動だ。自身に背いたときに無理やり命令を聞かせたり、サーヴァントの実力をはるかに超えた無理難題を可能にさせる三辺の刻印。 しかし、それはあくまで表の令呪の使用法だ。 令呪には裏の顔がある。 大量の魔力を凝縮した、聖痕としての顔だ。 外付けの使い捨てフィジカルエンチャントとして、その魔力を食うことにより極めて法外な魔力を行使することもできる。 その魔力を宝具使用に回せと言っているのだ。 三度しか宝具を使えないと考えるのは、実戦的ではない。 過去の聖杯戦争を振り返るならば、令呪を使い切らぬうちに脱落するマスターというのは事実多い。参加するマスターが、使いどころを見誤っているうちに敗退するためだ。大量の予備令呪が教会の監督役に保管されているゆえんだ。 そもそも、宝具の開帳ということ自体が、そう何度も行われることではない。常時開放された何らかの能力付加型の宝具でもない限り、そう何度も真名を開放する機会というものは訪れない。真名を晒すときは相手を始末するときというのは定石だ。 かなり強引ではあるが、ギリギリ戦術としては成立しているラインだ。 元より、全てのサーヴァントを打倒する必要はない。「ワシからも訊かせろや」「なんだよ」「おまえ、なんのために戦ってるんだよ?」 その質問は以前にされた質問だった。「時臣に真意を聞くためだ。前にも言っただろ」 このサーヴァント。やはり頭が悪い。もう忘れてしまうとは。「あ、ーそーじゃなくってだな」 バケモノは、こちらをはじめて振り返ってそう尋ねた。「ますたー。おめぇには叶えたい願いはねえってのかって訊いてんだよ」 そのバケモノからの問いは、まったくの奇襲だった。「せーはいだかなんだかに、くたばりぞこなった体治してもらって、そんであのネクラのガキの親父になるとか考えたことはねえのか?」 想像したことさえない。いや、あえて目を背けてきたと言ったほうが正解かもしれない。「一度もないよ。そんなこと、夢にも思わなかった」 嘘ではない。 厳密には嘘ではないが、本質はそれと変わらない返答だった。 甘い誘惑だった。これ以上ないほどに、全身を甘い毒が駆け巡る。 そんな、人並みの幸福など、一年前のあの日に捨てた。捨てたはずなのだ。 しかし、もしも聖杯が万能の願望機であるというのならば、それが叶うやもしれない。 いや、それ以前に、過去に戻ってあの言葉をやり直すことができるかもしれない。 あの人との出会いを、やり直してあの男よりも先に想いを伝えることさえできるのだろう。 冷え切っていたはずの心の一部が熱を帯びる。これほどまでに業の深い感情が自分のどこに眠っていたのだろうか? だが、そんな願望も、幸福も結局自分はもてあましてしまうのだろう。 これまで自分がずっとそうしてきたように。 ずっとそうだ。自分は失ってからでなくては本気になれない人間だ。それぐらいのことは解っている。解ってはいるのだ。「……なんでぇ、つまんねぇ人間だな」 自分の嘘に気付いているのかいないのか。バケモノは振り返らずにそうつぶやいた。 点でしかなかった街の街灯が、ちらちらと光を放ちこちらに近づいてくる。 バケモノも雁夜も、それから間桐の屋敷に戻るまで、口を開くことはなかった。 二人が間桐邸の中庭に帰還したのは、昔から草木も眠ると言われるころだった。 誰一人として空中に浮く2人が、誰にも見咎められなかったのは、ひとえに深夜といえ、ありえないほどの人通りのなさだろう。 度重なる猟奇事件に誘拐事件。善良な人間はおろか、裏社会に所属している悪人やろくでなしも、貧乏くじを引くのは御免とばかりに自分の家に引きこもっている。静寂が街を支配するようになってから数日。何事も起こらないのは新しい嵐の前触れでしかないことを経験として知っているからだ。 最初に異変に気付いたのは、バケモノだった。屋敷の中から漏れ出す闇に溶けた異臭、腐敗した血肉の残り香を発達した嗅覚が捕らえた。 そして、屋敷の中から鳴り響く、黒電話のベルの音。 屋敷に駆け出すバケモノ、雁夜がそれに続く。 何が起きているかは判らないが、なにかが起きているということだけは理解できた。 血が凍る。まったくの油断だった。 聖杯戦争において、本拠地を構えている以上、襲撃される可能性を考えていなかったわけではない。 しかし、いかに没落したとはいえ、間桐の屋敷は魔術師の根城である。外敵への備えがないわけではない。 侵入されればそれと気付くはずだ。 いかに結界が穴だらけになったとはいえ、正面からこの館の最大の防護結界を掻い潜るには数ヶ月を要するはずだ。臓硯が存命しているときから準備せねば、侵入できない期間である。 あの自己保身に長けた策略家が、そんなふざけた真似を許すはずがない。 もしも仮に魔術の術理を嘲笑うペテン師の手管をもってしても、ただの人間が雁夜が家を後にした半日程度の短時間で潜入できるわけがないのだ。--ただの人間には。 例外が存在することを雁夜は知っていた。 常識の断りの外に生きる魔術師。その魔術の常識さえ軽々と乗り越える人外の存在。 しかし、そんなことができるのは、まず気配遮断スキルを持つ暗殺者たるアサシンのクラス。しかし、アサシンはあの男のサーヴァントによって、聖杯戦争開始直後に脱落したはずだ。 残されたクラスでそれが可能なサーヴァントは一つしかない。 魔術師のクラス。キャスター。 戦闘能力は最弱ではあるが、特殊能力とあらゆる姦計に長けたクラスである。 ならば、なぜ、空き家を狙うのか? 問題はまだある。 キャスタークラスは、その低い攻撃能力とは裏腹に、こと陣地作成スキルによる防衛能力はあらゆるサーヴァントを凌駕している。それゆえに、穴熊をし続けるのがキャスターの唯一にして絶対の戦術のはずなのだ。 ありえないのだ。こんなことはありえないはずなのだ。 感情が、脳細胞が、己の失策を認められず、現実を否定しようと躍起になっている。 しかし、この屋敷に何者かが侵入したことは、否定のしようのない事実なのだ。 走る。引きつった半身を無視するように。 あまりの腐乱臭に吐き気を催しながら、その異臭の源へと近づいていく。“-----------------” もう思考が言葉にならなかった。 自分が何を口走っているのか判らない。 ただ、なにか同じ言葉を繰り返しつぶやいていたような気がする。 探した。 他の何がなくてもかまわない。 ただ一つあればかまわない。 バケモノが立ち止まる。 雁夜もそれにつられて静止する。 異臭の源へとたどり着いたからだ。 開け放たれた玄関の扉、大量にこびりついた何物かの粘液、なにかうわごとを放つ兄の鶴野、脱ぎ捨てられた子どもの赤い靴。 ただ、それだけが残されていた。 立ち尽くす雁夜の背後から、電話のベルが、ただひたすらに鳴り続けていた。 と言うわけで更新しました。遅れた理由はただひとつ。イラストを描いていたからですorz ロリ化を描こうと思い立ち描いてました。途中ハルヒの佐々木を書いたりペンタブ買って、PCを買ってといろいろやってました。pixivでも見れます。IDは kanenooto7248 です。よろしければどうぞ。 と言うわけで次は番外編の更新となります。