遠坂凛が狐耳少女を召喚したようです2(無謀にも続編を書いてしまった) なにやら虫の居所が悪い。 覚醒する前のぼんやりとした意識の中、それだけが判った。 温かな泥に包まれたまどろみの中、少しずつ覚醒していく感覚。 なにが不機嫌の原因なのかを、活性化していない脳細胞で思考していくたびに、あのおかしな夢に思い当たる。「……一体何なのよ」 そう言葉にならない声を口の中で呟いた。 最低の夢だった。 自分が邪悪の権化として、この世を地獄に変えようと全精力を傾けている夢など、気持ちが悪いだけだ。 口にするのもおぞましい、気色の悪い蛮行の数々が、ゆっくりと頭の中で反芻される。その夢の中で、自分は王を狂わせ、妊婦の胎を引き裂いて、国々を滅ぼした。 そして、なにより気味が悪いのは、その行為に耽っていた自分が、心の奥底では楽しんでいなかったことだ。もしも仮に、殺戮を、惨殺を、暴虐を、喜悦の下に行っていたというのならば、共感はできなくても理解はできる。 吐き気はするが、そういった人種がいることは知識として知ってはいる。 しかし、自分の根底にあったのは喜びでも娯楽でもない。もっと別の、快感や悦楽とは無縁のものだ。 玩具を持っている子供を、持っていない子供が見つめるときのような、そんな感情を夢の中でずっと味わっていたのだ。 そんな渇望を抱いたまま、信じられないほど長い夢を見ていた。 心底楽しんでいたのなら解る。楽しんでやったのならば理解できるのだ。 楽しくもないのに、そんなことをする人間の感情など理解できるわけがない。 面白くない夢を見続けた朝。 夢での人格など、結局のところ自分ではない。重ね合わせるのは愚かなことだ。自分と重ね合わせたところで、なんの意味もない。 下らないことを考え続けていたせいで、いつのまにか眠りから覚めてしまったようだ。 なんだか倦怠感が全身を包んでいる。 もぞもぞと大きな芋虫が腰や胸のあたりを這いまわっているかのような錯覚を覚えた。いや、錯覚ではない。間違いなく何かがべたべたと、寝間着の腰のあたりにへばり付いている。 嫌な予感がして、体温と同じ温度になった毛布を引っぺがす。 背筋がちりちりとする。 抱きつかれていた。それもがっちりと。 見覚えがある。幼いながらも整った顔立ち。頭からちょこんと伸びた狐耳と、お尻の辺りから生えた尻尾。 見間違えるはずなどない。昨日、自分が召喚したサーヴァントだ。 そのサーヴァントが、自分に抱きついて、胸のあたりに顔をうずめていた。“なにやってんのよ、あんたはっ!?” そう怒鳴ったあと、しがみついている幼女サーヴァントを引っぺがし、べちんと地面にたたきつけてやろうと思ったが、あまりにも幸せそうな顔をしていたので、毒気を抜かれてしまった。 なんというか、こんな顔をしている小学校低学年ぐらいの年齢の少女を、力任せに張り倒せる人間はいない。 しかも、このサーヴァントは、あろうことか「……うみゅう……主よ……心配するでないぞ。我は……最強じゃ。主は……我が……まもるのじゃ」などと寝言を垂れ流しているのだ。 このサーヴァントが目覚めたら、「勝手に布団の中に潜り込むんじゃない」とか「魔力の無駄だから、必要のないときは霊体化してなさい」と、色々と小言を言ってやろうと心に誓いつつ、今だけはもう少し抱きつかせてやっていてもいいかもしれない。 いかに英霊とはいえ外見は口を開かなければ、その辺の少女とまるで大差ない。 しかし、何時になったらこのサーヴァントは目を覚ますのだろうか? 悪い気はしないが、ずっと抱きつかれているわけにも……と思考した瞬間、しがみついていたサーヴァントがややこしいところに頬擦りしてきた。――な、なにしてんのよ、アンタ? そう叫び出しそうになったのをなんとか堪えた。 まるで、子供が母親に甘えるような仕草で、そっと顔を胸に押しつけてくる。 安心しきった寝顔だ。 自分にもこういった時期があったのだろうか? もう、一〇年以上も前の事だ。とても思い出せない。 眠ったふりをして、もう少しこのままでいるのもいいかもしれない。 このサーヴァントが起きたときに、この可愛らしい寝言をネタにして、からかってやるのも面白いだろう。 そうして、このサーヴァントのうわ言を、一字一句聞き逃すまいと耳を澄ます。「ふにゃぁ……主は……ペタンコじゃ……ぬりかべじゃ……聖杯に……胸を大きくしてもらうと良いぞ……」 なにかが霧散した。 それはもう盛大に。 その後も、「我の乳も……分けてあげたくなるほどの……貧乳じゃ……タコヤキじゃ……まな板じゃ……扁平じゃ……洗濯板じゃ……哀乳じゃ……つるぺたさんじゃ……肋骨がゴリゴリと音を立てておる」 とかなんとか言っていたような気がするが、凛の耳には届いていなかった。 なんというか、やるべきことはいろいろある。聖杯戦争は始まっているのだ。こんな風にのんびりとしている暇はない。ダラダラと眠るのは、それこそ死んでからでもできる。サーヴァントの寝顔を覗いていても、良いことなどなにもない。 さあ、やるべきことをしよう。――とりあえず…… 最初にすべきこととして、凛は自分にしがみついて惰眠を貪っているサーヴァントを、二階の窓から外に放り出した。「なにをするのじゃっ、主よっ。幼女虐待じゃっ。児童相談所は一体なにをしておるのじゃ」 軽く済ませた朝食の後も、主を主とも思わないこのサーヴァントは、ぶつぶつと何か言っていた。 二階から庭へと投げつけられたことが、やはり相当におかんむりであったらしい。 案の定、アバズレだの、毒婦だの、淫乱だの、自分を召喚した主のことをネチネチと朝から罵倒している。 こめかみのあたりがヒクヒクと痙攣するが、一言でも言い返したら、このサーヴァントのペースにはまってしまう。そうなったら負けなのだ。 そんなこちらの思いを知ってか知らずか、「全く、前代未聞なのじゃ。こんな美少女を、窓から投げ捨てるなどとは。さては主よ、我の美貌に嫉妬しておるな?」 ぷちん。 頭の中で音がする。「あんたがっ!!!!!!!!!! わたしの……その……を、寝言でバカに……するから……」 怒った。 ストーブの上で空焚きされたヤカンのごとく怒ったのは良いが、相手に自分の正当性を叩きつけるためには…………その、自分の胸のサイズについてコメントせねばならず……………………結局、尻すぼみになってしまう。 いや、自分は貧乳ではない。 確かに大きいか? と問われれば、大きくはないが、小さいか? と言われれば、決してそこまでは小さくはない。適正サイズのはずだ。 そもそも、あまりにも大きいサイズは下品だと言われた時代もあったのだ。自分は古き良き時代の体現なのだ。誰に恥じることもない。優雅さを切り取って形にしたのが自分の胸囲ではないか?「いや、主よ。我が寝言でなにを口走ったのかは知らんが、いくら我でも……寝言にまで責任は持てんぞ?」 あきれ顔でこちらを除いてくる幼女。たしかに自分も寝言にまでは責任は持てない。冷静に考えると、どうやら此方のほうがずっと分が悪いようだ。癪ではあるが別の方向へと話をそらす。「大体アンタ、なんでわたしのベットに潜り込んでたのよ?」「うむ。寒いからじゃ。決して一人は寂しいからとか、主に抱きついて驚かせようとか、そんな下らん理由ではないぞ」 身も蓋もない返答。「あんた、霊体化してれば、寒いとか熱いとか関係ないでしょうが」 そもそもである。サーヴァントがなんの必要もなく現界していて、良いことなど何もない。この世界に現界させる分の魔力は、マスタのー持ち出しになるし、むしろデメリットしかないと言ってよい。「味気ないではないか。主よ。現界せねば、ろくに茶も飲めん。まさか命を掛けて主のために戦うサーヴァントに『茶も飲まず馬車馬のように働け』というほど鬼畜ではあるまい?」 結局、勝手に他人のベットに潜り込まないようにすること、空き部屋の一つをこのサーヴァントの部屋に割り当てることで手打ちとなった。 この家は、自分しか住んでいない。一人暮らしにしては大きすぎる屋敷だ。 大師父の書斎に父の部屋や、母の部屋、あの娘の使っていた部屋以外にも、空き部屋はいくつもある。そのうちの一つを、この生意気なサーヴァントの部屋として割り振ったのだ。「うむ、殺風景じゃが、改造のし甲斐のある部屋じゃなっ!!」 と喜んでいた。 何か改造とか聞こえたが、きっと気のせいだ。改装の間違いだろう。 そして、この下僕の淹れた紅茶を飲みながら、今後の方針をきっぱりと口にした。「ほう、主は今日から学び舎に行くのか?」「ええ、そうよ。何か問題があるかしら?」 何か問題があるかどころの話ではない。真っ当なサーヴァントなら必ず一言あるはずだ。 学校という場所は不意の襲撃には極めて備えにくい場所だ。主の身を守ることを最優先に考えるサーヴァントならば間違いなく、不特定多数の人間が出入りする場所に主が行くことを嫌うだろう。そして、もっと厄介なのは人質の存在だ。魔術師にとっては、一般生徒を盾にすることには何の抵抗もないだろうし、操って傀儡や手駒にする方法はいくつもある。魔術を秘匿しながらならば、そのような手段に訴えてくる敵と言うのは十分考えられることだ。 しかし、この下僕にとってはそんなことは大した問題ではなかったようで、「てっきり、主のことを、現在流行りの不登校ではないかと思っておったのだが、ちゃんと学び舎に通う程度の勤勉さを持ち合わせておったとは、下僕としては鼻が高い。きちっと勉強して立派な大人になるのじゃぞ!!」 などと腕組みしながら偉ッそうにうなずいている。 一体何様だ、お前は。――というか、あんたはわたしの母親か?「……当然、貴方にもついて来てもらうわよ。学校に限らず、外に出るときには必ず側についてきてもらうからね。貴方の役割はわたしを守ることなんだから」 と念押ししておく。「うむ、心得たぞ。しかし、主よ。仮に学び舎に敵がいたらどうするのじゃ? 教師や生徒に敵がいないとは言い切れんであろう?」 などと、痛いところを突いてくる。しかし、だ。それはありえない話だ。「大丈夫よ。この街には魔術師の家系はわたしのところを除くと残りは一つで、そのあと一つの家系も落ちぶれててマスターにはなってなかったし」「マスターになっていないと確認を取ったのか? まさか……主よ。うん、やっぱり主はアバズレじゃ」 一体どこを、どう考えたら、そう言う結論に達する?「いや、確認する方法など……。裸に引ん剥いて、令呪の有無を確認するしかあるまい? 年頃の娘のくせに……全校生徒にそんなことをするなど、主はスケベじゃ、どスケベじゃ」 こいつは、この遠坂凛と言う人間をなんだと思っているんだ?「……黙りなさい、あんた。魔術師なら、他の魔術師には敏感なのよ。居たら間違いなく気がつくわよ。うちの学校にいるのはわたしの他は、マスターになる実力のない魔術師見習いってだけ。単なる消去法よ」「ほう、そうかそうか。それならば、学び舎にいるときは安全と言うことじゃな」「そうね。まあ、絶対に安全とまでは言い切れないけれど、そこまでは危険地帯のはずがないわ」「ならば、学び舎にいる間も我のビューティフルかつエレガントな名前を考えることが出来る訳じゃな。側で監視しておるから、じっくりと励むがよいぞっ」――あんたの頭の中はそればっかりか? そう心の中で反論しつつ、凛は登校する準備を始めた。 視線が痛い。「他には魔術師がおらんと言っておったの?」 背後からの視線がとても痛い。霊体化して背後霊のごとく背中に張り付いているサーヴァントのものだ。「“居たら間違いなく気付く”とか自信たっぷりであったの?」 反論のしようがない。まさかこんなことがあるとは、想像だにしなかった。 正門をくぐった瞬間に、ちょっとでも霊感のある人間なら感じてしまうほどの違和感。 つい三十分前の自信たっぷりな発言は、あっさりと裏切られた。「仕方ないじゃない。まさか本当に、こんなことをする魔術師がいるなんて普通想像しないわよ。それにしても、これ……もう結界が張られてない?」「まあ、下準備と言った所じゃな。範囲はこの学校全体じゃ。効果はまだはっきりとはわからんが、ロクでもないシロモノであることは間違いないの。発動したら、恐らく範囲内の人間の命は無かろうな」 教室へと入っていく人波の中、二人だけが静止している。 事の重大さを理解しているのは、恐らく自分を除けばこのアーチャーとして召喚された、このサーヴァントだけだろう。「ここまで派手にやるってことは、余程の大物の魔術師か……」「ただのバカな素人じゃの。一流の術者なら、発動するまで隠しておくのが常道じゃ。こんな風にすぐにばれる結界を張ってしまっては、あっさり対策を立てられてしまうではないか」 …………美味しいセリフを盗られた。しかし的確な指摘であるので、黙って聞いているしかない。「それで、主はどちらだと思うのじゃ?」「さあ、一流だろうが三流だろうが知ったことじゃないわ」 一旦言葉を切り、それから決意を込めて口から吐き出す。「わたしのテリトリーでこんなふざけた下種な真似してくれた奴なんて、問答無用でぶっ飛ばすだけよ」 ふん、と鼻を鳴らし、吐き捨てるように呟いた。我ながら青臭いことだとは思うが。「まあ、我にかかればこの程度の結界なら、破れんことはないがの」 その言葉に反応して、背後からサーヴァントが聞き捨てならないことを言った。「本当にっ!?」 思わず大声を出してしまう。 周囲の生徒が此方を驚きのまなざしで凝視している。学園きっての優等生が急に叫び出したのだ。驚いて当然だろう。しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。「結界って言っても種類や効果は千差万別よ? ここまで大規模な結界を本当に破れるの?」 解っていることは、結界の規模が学園全体の大規模。標的は無差別。発動したら、その中の人間の生命活動は圧迫されるということぐらいだ。 そんな不安を、打ち消すかのようにサーヴァントは自信満々に答える。「今は無理じゃが、そうじゃのう。放課後の人の少ない時間にならば、あっさりと破ってやっても良いぞ」 その声が、あまりにも当然と言った口調であるので逆に驚いた。 結界と言うのは術師を守るために張られることがほとんどだ。必然的に、魔術師の技術の粋が集められることになる。 いかなサーヴァントであってもそう簡単に破るなどと断定できるものではないはずなのだ。「我を誰だと思っておるのじゃ。我に破れぬ結界なんぞ、頼もしいことに、この世界では一つか二つじゃぞ」「自分を誰だと思ってるって、あんた自分の真名を隠してるんでしょうが」 そう指摘しても、声の主は何一つ痛痒を感じた様子もなく、満ちている自信を隠そうともしない。「まあ、放課後を楽しみにしておるがよいぞ。結界破りは我の得意中の得意じゃ。この程度の結界を破るなど、赤子の手をひねるよりも容易いことじゃ。だから主よ、そんなに不安がらず、放課後までは我の名前を考えておるが良い。サボるでないぞ、主の鞄の中に資料を色々と入れておいたからの」 はっきりと理解した。このサーヴァントの名前に対する執心のほうが、この結界なんかよりもずっと怖い。「……まいったな。これ、わたしの手には負えない」 放課後、校内に張り巡らされた結界を詳細に調査した結論だった。 校舎の各ポイントに、結界の基点は存在した。そこにある魔力を打ち消すことは可能だ。しかし、打ち消したところで、この結界を張った人間がまた魔力を通せば元通りになる。 尋常な結界ではない。「――これで七つ目か。とりあえずここが基点みたいね」 屋上の入口の壁には、赤紫の刻印が堂々と描かれていた。八角の刻印であり、使用されている文字は見たことすらなく、いかなる方法で刻まれたのかはそれこそ見当もつかない。 しかし、効果だけは解った。 結界内の人間の体を溶解させ、分離した魂を抽出する魂食いだ。 魂などを集めたところで、使い道など限られてくる。少なくとも魔術師には使い難いエネルギー源だ。――思いつくのは、 つい反射的に後ろを振り返ってしまう。「我には不要じゃ。人間の魂なんぞ。そんなもの喰わずとも十分我は強いからの」 どうやら言わんとすることを察したらしい。 この結界は、サーヴァントを強化するために魂を無差別に収集するものだ。 しかし、この結界は尋常な結界ではない。効果は解るが、一体いかなる術式なのか……。少なくとも、ここ最近の魔術師が使う方式の結界ではない。千年以上前の術式の可能性もある。 一体どのようにして、この刻印が描かれたのかが解らない以上、完全に無力化するのはほぼ不可能。爆弾の構造が解らない素人が、ドライバー片手に時限爆弾を分解しようとするようなものだ。 しかし、今朝のサーヴァントの言を信じるならば、彼女にはこの結界を破る算段がもうすでにあるらしい。「貴方、これを本当に破れるの? この結界がどうやって創られたかの見当もついてる?」 声には残念ながら疑いの響きが混じってしまう。それほどに、この結界を破る方法と言うのがこの自分には思いつかなかったのだ。「いや、どう創られたのかはまるで判らん。せいぜい見てとれるのは――大陸はの神代のもの――であることぐらいかの」「だったら、どうやって、貴方この結界を破るつもりだったのよ?」 その非難に満ちた質問を、このアーチャーはにんまりと邪悪な笑みを浮かべて、「結界破りなんぞ簡単じゃ。まあ見ておれ」 そう言うが早いかアーチャーは呪印の前に立ち、月光に青白く濡れた尻尾を、二度、三度と振り回す。――そのたびに、なにやら途方もない魔力が大気に溶けて 唐突に、このサーヴァントがなにをしようとしているのかを理解した。 冗談じゃない。 やめろ、こら。 ふざけるな。 なんとか無理矢理止めようとしたが、もう遅い。 かくなるうえは、強引に魔力を耳に集め、なんとか鼓膜を強化する。 それだけでは足りない。両耳に手を当てて、聴覚を来るであろう衝撃から保護する。――その瞬間、来た。 明らかに人間の鼓膜が、聴覚細胞が受け止めきれる以上の負荷が来た。 それが、外耳から中耳、内耳を通じて、聴覚細胞を侵す。 いや、聴覚だけではない。大気の振動を皮膚が、肉が、骨が、全て受け止める。 まるで空気が圧力を持って身体を絞ったかのような錯覚。金属が震えるような不快な残響が、頭の中を駆け回って……。「どうじゃ!! 跡形もなく消え去ったであろう!! 後はこれを全ての基点で繰り返すだけじゃ!!」 自慢げなサーヴァントの言葉の通り、たしかに呪印は跡形もなく消え去っていた。 屋上への入口ごと。文字通り……跡形もなく。瓦礫や小石さえも残っていない。 残っているのは、建物が焦げたような異臭だけ。 空間ごと抉り取ったかのような、見事な一撃だった。「どうじゃ、すごいであろうっ!! さあ、頭を撫でて思いきり誉めるがよい!!」 確かに凄い。ここまでとは思っていなかった。 このサーヴァントを見くびっていたようだ。 パタパタと尻尾を振っているこちらに笑顔を振りまいているサーヴァントに、にっこりとほほ笑み返すと、靴を脱いで思いっきり頭に叩きつけてやる。「ぷぎゃっ、なにをするんじゃっ!! ここは『良くやった』と我を神のごとく崇め奉るところではないかっ!?」「やかましいわよっ、この大馬鹿サーヴァントっ!!」 ここまで馬鹿だとは想像できる次元を超えていた。 一発では足りない。全然足りない。 二発、三発と、脱いだ靴でアーチャーをべちべちとぶっ叩く。「痛いっ。やめるのじゃっ!! 暴力反対じゃっ!! 幼女虐待反対じゃっ!!」「うるさい、バカっ。この、このっ。こんなバカでっかい音たてて……。そんな結界の破り方したら、この学校が穴だらけになっちゃうでしょうがっ?」 まだ足りない。全然足りない。「あんたっ、目立つことはするなってあれほど言ったでしょうが。あの性格ドクサレ神父に隠蔽工作を頼まなきゃいけないじゃないっ。しかも、こんなにバカみたいな音を立てて。いい? 魔術師って言うのはね、隠密行動が大原則なの。魔術を使ってるところを見られちゃいけないのっ。一般人にわたしたちが魔術を使ってるところを見られたら……」 そこで言葉を切る。 アーチャーが射るような瞳をこちらに向けていたのだ。「……見られたらどうするのじゃ。消すのか?」 周囲の気温が急激に下がったかのような錯覚に陥る。喉の奥がひりひりと乾く。「どうするのじゃ?」 その声は確認するように静かでありながら、有無を言わせぬ響きにあふれていた。「……別に。そこまではしないわよ。記憶を消して家に帰すわ。他の連中はどうするか知らないけれどね」 魔術師には善も悪もない。そう、それは基本中の基本。初歩の初歩だ。 目撃者を消すのは魔術師のルール。 しかし、無用の犠牲を肯定するほど腐ってはいない。 その目撃者を、どう消すのかは見つかった魔術師の裁量だ。命を盗ろうが、記憶を改編しようが、それは魔術を目撃された間抜けがどう責任をとるのかという話だ。 目撃者の心臓を抉ろうが、脳の中枢の情報を弄ろうが、魔術の隠蔽と言う点においては差などない。魔術師にとっては両方とも同じ意味しかない。 ならば、どちらを選ぶかは、遠坂凛という人間に委ねられるはずだ。 我ながら、心の贅肉だが、これを譲ってしまっては自分が自分ではなくなる。 そんな青臭いセリフを素面で吐いてしまったマスターを、アーチャーは覗き込むと、「そうか、それならばなんの問題はないのじゃ」 けたけたと声を立てて笑いだした。 なにやら腹立たしい。 自分が笑われているのは間違いない。 被害妄想だとは判っているが、“お前は甘ったれの魔術師失格だ”とでも言われたかのような、そんな印象を受けてしまう。「ところで主よ」「なによっ!!」 八つ当たりではあることは、百も承知だがサーヴァントに苛立ちをぶつける。「死にたくなくば、我の側を離れるでないぞ」「――え?」 問いただす閑もなく、唐突にアーチャーは凛の手を掴むと、己が尻尾に魔力を漲らせた。その体毛の全てが、白銀の針へと形を変える。直後、そのうちの数本が音速にも昇る流星となって給水塔へと突き刺さった。「なんだよ。気付いてたのかよ」 一〇メートルほどの上空。給水塔の上から良く通る男の声が響き渡る。 給水塔の縁に、腰かけた男のものだ。月の光を跳ね返す、群青の鎧。 美系と言って差し支えない相貌だが、その表情に浮かぶのは獣のような捕食者の笑み。「これは、お主の仕業かの?」 アーチャーが剣針の塊と化した尻尾で、かつて結界の呪印のあった場所を指し示しながら問う。「いいや。そういう回りくどいことをやるのは趣味じゃねえ。オレ達はただ命じられたまま戦うのみ。だろう、そこのお嬢ちゃん」 給水塔の縁に腰掛けながら、軽口を叩いている。しかし問題なのはそこではない。 群青の男から発される、人間では持ち得ないほどの魔力と獣臭に満ちた殺気。 間違いない。同類だ。「……サーヴァント」「そうとも。で、それが判るお嬢ちゃんたちは、オレの敵ってコトでいいのかな?」 胃が痛む。吐き気もする。背中に氷を突っ込まれたような寒気。 直感が告げていた。間違いない。この男は自分達を殺しにこの場にいるのだ。 淡々とした口調とは裏腹の、抜き身の殺意。十数年の人生の中で、自分を殺しに来た人間を見るのは、初めての経験だ。いや、自分を殺しに来る人間と会話するという経験など、体験する人の方が珍しいだろう。 身構える。戦うための構えではない。背中を見せず、後ろに跳ぶための構えだ。この屋上という逃げ場のない地点で、この男と正対しているのは「殺してくれ」と言っているに等しい。「……ほう。なかなかわきまえてるじゃねえか。ど素人かと思ってたら、きっちり要点は押さえてやがる」 そうつぶやいて男は立ち上がり、手を無造作に振る。 なにも手にしていなかったその腕の中に、真紅の長物が握られていた。 煮えたぎる溶岩のように、燃えたぎる魔力に彩られた呪いの魔槍。 その瞬間、跳ぶよりも速く、思いきり腕を引かれた。 抗議の声を上げるよりも早く、身体が宙に浮いた。 自分の身体が、綿毛のように空を舞う。「――ちょっ」 声を出したのと同時に、一秒前までいた空間を赤い光がなぎ払った。「はっ、やるじゃねえか」 信じられない。信じられるわけがない。 いかにサーヴァントがこの世の理を超えた存在であったとしても、十メートルの距離を一瞬で詰めるなど……。 しかし、相手が神速を持って襲い掛かるというのならば、此方はそうと知った上で対策を立てるまで……「Es ist gro……ふぎゃっ、なにすん……ぎぇふっ」 左腕の魔術刻印を励起させ、魔術を組み上げようとした瞬間、腰に小さな手が回されて、抱えあげられる。いわゆるお姫様抱っこだ。「ここは少々場所が悪い。主を守るには不向きじゃ。逃げるぞ。あと口を動かしておると、舌を噛むぞ」――あと二秒ほど早く言え。 そう抗議したかったが、そんな暇もなく。抱えられた身体は加速し、フェンスを越え、重力に引かれて地上に落下した。 衝撃。お尻のあたりにとんでもない負荷がかかる。 痛い。それはもう。 ある程度は着地の際の衝撃をアーチャーが吸収してくれたのだろう。そうでなければ地上五階からの落下だ。命はない。 しかしそれでも痛いものは痛い。「はやっ!? ちょっと、貴方。降ろして、自分で走れ……ぎゃじぇ」 また舌を噛んでしまった……。 屋上から校庭までおよそ五秒フラット。距離にして一五〇メートル。 それもヒトを一人抱えながら。金メダルを三つ四つ貰える偉業だ。 というか、幼女にお姫様抱っこされて、全力ダッシュされたなど、目撃されたら生きていけない。とりあえず凛は、誰かいないか周囲を確認する。もし、誰かに一部始終を見られていたら、そいつの記憶を消さなくてはいけない。それはもう、念入りに。ついでに思いきりぶん殴ってやろう。「――鬼ごっこは終わりかい。お嬢ちゃんがた?」 背後から声がする。「ええ、終わりよ。ここで相手をしてあげる」「主よ。そういうセリフは我から降りてからいうべきではないかの?」――うるさい。黙ってろ。 急に気恥ずかしさが襲い掛かってくる。「さてと、ここでなら文句は無かろうな。ランサーよ」「なんでランサーだって解った? って、聞くだけ野暮か。如何にもその通りだ」 そんな魔力の塊みたいな槍を持っていて、むしろランサーでない方が驚きだ。「そう言うお嬢ちゃんは、セイバー……って感じじゃねえな。まともに一騎打ちするようなタイプじゃねえ。何者だ?」「うむ。キャスターじゃ」――嘘をつくな。アーチャー。 と心の中で突っ込みつつ、凛は出来る限り感情を表情に出さないようにする。 このサーヴァントの大陸風の黒い衣装と幼い風貌。キャスターに見えないこともない。 確かに、相手がアーチャーのクラスを勘違いしてくれるのならば、それに越したことはない。 聖杯戦争は情報戦でもある。相手のサーヴァントの正体やクラスを知っていれば、その分対策が立てられる。自分の召喚されたクラスを偽るという行為は、ある意味で定石と言えた。 群青の槍兵の殺意に満ちた表情に、初めて別の感情が混ざる。なんとも言い難い苦笑のような困った顔だ。「……いや、お嬢ちゃん。それは無しだぜ。他の奴には通じたかもしれねえが、キャスターの奴と、直接やり合ったことのあるオレには意味がねえ。その年齢でなかなかの女狐っぷりだが、運が悪かったな」「そうか? ならば、我はバーサーカーじゃ」 姦計を見抜かれて悪びれるどころかさらに正体を偽る辺り、自分で召喚しておいてなんだが、やはりこのアーチャーは只者ではない。「いや、お前。理性失ってねえじゃねえか……」 ぬけぬけとしたアーチャーの態度に、腹を立てるどころか、なにやら感じるものがあったらしい。失笑とともに、殺意が掻き消えて涼やかな表情になる。夏から秋にかけて、海から吹く熱気と温かさを含んだ柔らかな風のような顔だ。 凛々しい瞳と眉に精悍な相貌。口元に浮かぶ柔らかな表情。どのような美形でも真似できない、観る者を安らがせる微笑み。 しかし、それも一瞬のこと。 すぐに戦場の顔へと切り替わる。「ところでよ。その、なんだ? いつまでご主人様を抱えてるんだ、オマエ? さっさと降ろしてやれよ。これでも女への礼は弁えてるからな、それぐらいは待ってやる」 その通りだ。さっさと降ろせ。 とりあえず、戦いにくいとか邪魔だとかいう以前に恥ずかしいことこの上ない。「そうか? ならばその言葉に甘えるとしようかの」 そう言うと、アーチャーはマスターを地面に降ろし、相手のサーヴァントに向き直る。 自分とランサーの対角線に割って入ったのだと凛が気付いたとき、アーチャーはくるりと振り向いて、「ところで主よ」「なによ?」「もう戦ってもよいかの?」 戦場とは思えないほど平然とした声。それはつまり自信の裏返しに他ならない。「――ええ、貴方の力見せて頂戴」 その凛の言葉がきっかけとなった。 アーチャーの尻尾に魔力が漲り、闇の中、白銀の光が奔り衝撃音が響く。 魔力によって針剣へと変化した体毛が、疾風のようにランサーへと向かい、ひとつ残らずたたき落とされたのだ。 それらは狙いなどなく、ただ投げ付けられただけのものだ。しかし、数が違う。 目視できるほどの速度ではなく、避けきれるほどの数ではない。 それを全て槍で全て叩き落とすなど、尋常な腕前ではない。 ランサーは今の攻防で、このサーヴァントを飛び道具に特化した英霊だと辺りを付けたらしい。「なるほど、アーチャーか。お嬢ちゃんにしては良い腕だ。でもな」「ほう――――?」 異様な光景だった。 とてもではないが信じられるものではなかった。 まるでアーチャーの攻撃が、当たることを避けているかのようさえ感じられた。 アーチャーの声に驚きが混じる。 明らかにおかしい。闇の中、身を躱す隙間もないほどの飛得物の攻撃。視認さえ困難な連撃を如何にランサーが敏捷に特化した英霊とはいえ、一撃も当たらないはずがない。 その疑問にはランサー自身が答えた。「俺にそれは上手くないぜ。生まれつきでな。眼に見えている相手からの飛び道具なんざ通じねえんだよ。よっぽどのモノじゃない限りはな」「どうやらそのようじゃ。ならば、これはどうじゃ?」 やおらアーチャーの攻撃が、あらぬ方向へと向けられた。ランサーではなく空へ。 凛には判らないアーチャーの意図を、敵対するランサーだけは正確に汲み取った。「即興の策としちゃ悪くないが、それも無駄だな」 そう呟くとランサーは持ち前の敏捷さを活かし、敵の懐へと潜り込む。 槍と言う長物ゆえの振りの大きささえ、この英霊の技量にとっては、些細なことであったらしい。 槍ゆえの振りの隙が存在しない、小さくそれでいて鋭い神速の連突。高速の刺殺は必殺にして、連続でアーチャーの針剣をことごとく撃ち落とす。 あと一息で真紅の槍がアーチャーの喉元に届く間合いとなったとき、少女は妖艶な笑みを浮かべた。罠にかかった猛獣をあざ笑う、罠師の微笑だ。 頭上より落下する無数の針剣。風切り声を立てて、篠突く雨の如く空から襲い掛かる。 狙いも密度もでたらめな、感に任せた空からの奇襲。そしてそれゆえに予測不能な攻撃だ。 頭上から降り注ぐ刃を躱そうとすれば、正面のアーチャーの攻撃に無防備な姿をさらすことになる。「――――」 いかなサーヴァントと言えど、無傷で済むことはありえまい。ただのサーヴァントには。 あり得ぬことだった。真紅の槍によって弾かれた針剣が、頭上から降り注ぐランサーに当たるはずの刃を弾き飛ばした。 偶然なわけがない。狙ってやっているのだ。 身体能力だけではない。このランサーは、技巧さえもこの世の常を超えている。 空から降ってくる殺意のこもらぬ刃を、いかなる方法で知覚して撃ち落としているのか。「じゃあな、嬢ちゃん。そういう未来もあるさ」 上空からの最後の一本を弾き飛ばし、そう軽口を叩くと槍兵は、一息のうちに閃光と見紛うばかりの打突を繰り出す。 狙いは正中線。額、眉間、顎、喉、心臓、水月、脾臓。全て急所。 その一撃を、アーチャーは針の塊と化した尻尾でなんとか受けきる。 弓兵が腰の物を抜き、相手の得物を防いだということは、弓の利点である距離が全て喰われ、白兵戦になったということ。 ランサーの絶対的優位な距離だ。「――間抜け」 そう呟いたのは一体誰であったか。 その瞬間、アーチャーの尻尾が爆ぜた。 いや、爆発したというのは正確ではない。 細かった針剣の尾が、あたかも大蛇のようにうねり、全ての針が伸びて大剣のサイズに変化するなど、誰が予想出来ようか。 槍兵に襲い掛かったのは剣の壁。烈風のごとく飛び込んだ槍兵は、自ら猛獣の牙に飛び込んだのも同じことだ。「くぬぅ…………!」 ランサーは身をよじらせて、跳び退る。 しかし、無傷ではなかった。両腕はアーチャーの尻尾によって無数の斬撃を受けていた。 夥しい出血によって、青い鎧が赤黒く染まっている。傷は深い。なんとか皮一枚で繋がっているような有様だ。 いかに再生能力を備えているサーヴァントとはいえ、無視できないほどの深手。 その様子を見てアーチャーが笑う。呵々大笑。可笑しくて可笑しくて仕方がないと言った顔だ。「くく、ふふ、ははっ、ふあははははははははははははははっ、ほほう、アレを躱したか? 流石は槍兵と言ったところじゃな、見事見事。じゃがな、ヌルいのう。ぬるま湯じゃ。こんな手に引っ掛かるとは。まさか、我の懐に入れば勝負ありとでも思っておったか? 最初から全力を出さぬから、要らぬ手傷を負うのじゃ」「――全力だと?」 そう混ぜっ返すランサーに、アーチャーは上機嫌で応える。 「我の姿が可愛らしい美少女だから、ついつい下らぬ手加減をする。男であれば仕方がないがの。それを油断と言うのじゃぞ、槍兵。どんと来るがよいぞ」――全力。 サーヴァントの全力とは、一つしかない。 宝具の使用だ。 サーヴァントの象徴。最大にして強力無比な伝説の武器。 神話の、伝説の中にしか存在しない、悪魔殺し、龍殺し、救世の武具たち。それの使用に他ならない。 サーヴァントの強力さは、この宝具によるところが大きい。つまるところ、宝具の開帳はサーヴァントの最強の一撃だ。 それを使えとアーチャーは挑発しているのだ。「惜しいな」 口から無念そうな声が漏れた。 深手を負い、追いつめられているのはランサーのはずだ。 だというのに、ランサーの口から出てくるのはアーチャーを気遣い、そして惜しむ声だった。 あの人智を超えたふざけた攻防は、本当に全力ではないというのだろうか。「あと一〇年もすりゃあ、どんな英雄にも劣らねえ良い女が出来上がるだろうに」 その苦いものを吐き出すような声とともに、空気が凍る。 大気に満ちていた魔力が集束していく。 ランサーの持つ真紅の槍に。 周囲の魔力を喰っているのだ。魔槍が、真の姿を見せるために。 凍てつくような殺気。今までのモノとは異質な密度でぶつけられる殺意に耐えかねて 堪らず凛は叫んだ。 アレは不味い。アレだけは不味い。 あの槍はアーチャーの天敵だ。あのランサーの槍が、真の姿で放たれたらアーチャーは脱落する。 根拠などない。予感であり直感だ。「アーチャー!! 避けなさいっ!!」 凛はその瞬間、自分の失策を悟った。 にらみ合う両雄は動く切っ掛けを探していたのだ。そして、自分の声が開始の合図になってしまったということを。――真紅の槍は、より赤く輝き 狐を狩る猟犬のように猛り狂った。 あープロットの半分ぐらいしか終わってないのに、分量が増える。という言い訳でした。