無機質な少女は、父親の制止する声を無視して玄関へと歩を向けた。 寝起き特有のおぼつかない足取りと、うす昏い眼差しで。眼を覚ました少女の周囲にあるはずの、探しても、探しても見つからない二つの人影を追い求めて。 声がした。とても優しくてとても物分かりの悪いあのひとが、この家に戻ってくるよりもずっと前、あの大きくてうそつきのオバケが突然現れるよりもっと前。 ムシグラに入って少しして、どんなに泣いても叫んでも、誰も助けてくれないと悟ったその日から、少女の脳裏にこびりついて離れない声だ。 誰の声か解らない。 その声は桜の耳元で囁いていた。ほんの数日、臓硯による教育が中断された程度で、その声は桜の耳元から消えることはなかった。――待っていても無駄だ。――なにも望むな。――悲鳴を上げるな。――泣くな。――祈るな。――叫ぶな。――期待するな。――助けなど誰も来ない。――いいことなんて何もない。――これから先ずっと。 言葉にならない言葉で、その声は桜に囁き続けていた。 その声が、小さいのだ。あの物分かりの悪いあのひとが、うそつきのオバケがこの家にいるときには、その声がとても小さくなるのだ。 だというのに、なにも言わないで居なくなってしまった。目覚めたら居なくなってしまった。 あの人たちが居ないと、その声がとても大きい。 その声が嫌で、堪らなくなって、桜は二つの人影を幽鬼のような表情で探した。 桜の眼前の重たい扉が開く。 その扉を開けた人影を見上げて、桜は笑みを零した。――期待するな。 その通りだった。 桜は、不快な囁き声が完全に正しいことを認めた。――祈るな。 この声の言う通りだった。 結局、この世界は自分には優しくないのだ。 そんなことは、あの日からずっと解っていたというのに。観たくもない楽しい夢を見ていたのだ。 桜を出迎えた人影は、少女が探し求めていたものとは違っていた。 長身を撓ませた、漆黒のローブ。無垢な笑顔を浮かべた大きな双眸。なにも知らなかった頃ならば、本性を見誤ったかもしれないほどに穏やかな微笑み。 しかし、その笑顔に、少女は見覚えがあった。 少女の経験が、その慈愛に満ちた天使のような笑みの本質を見抜いた。“おじいさまと同じだ” なぜそう感じたのか、桜にも解らない。“このひとはおじいさまと同じだ” ただ、そう確信していた。――助けなど来ない。 おかしくって、おかしくって桜は微笑んだ。――叫ぶな。 確信に近い予感があった。“わたしがなけばなくほど、このヒトはよろこぶ” 初めて、ムシグラに叩き込まれたときの記憶が蘇える。 泣いても、叫んでも、懇願しても、臓硯は少女を開放しなかった。 いや、少女が苦痛にあえぐほど、臓硯はその顔を喜悦に歪めた。 抵抗する方法など、なにひとつ自分には無いことを少女は誰よりも承知していた。 だからせめて笑った。笑ってやったのだ。あの物分かりの悪いあのひとにも、うそつきのオバケにも見せていない笑顔で。――悲鳴など上げるな。 ずるり、ずるりとなにかを引きずるような耳障りな音が鼓膜を叩く。 その人影から伸びた青黒くぬめり、蠢く触手の塊を目の当たりにしても、その触手が、自分の青白い腕に触れても、首に巻き付いても、背中を這いまわっても。 おぞましさを押し殺して笑った。生ぬるい吸盤が顔に吸い付いても、その感触が不快であればあるほど唇を歪めて笑ってやった。 その桜の様子を観て、もうひとつの人影が感嘆の声を洩らす。「おおーっ。すげぇ!! マジにすげえっすよ、この娘!! こんな女の子、見たことない!! キュートすぎて惚れちゃいそう。新しい趣味に目覚めちゃうかも!! 青髭の旦那ぁ!!」 最高の素材を発見した、歓喜の声だった。「気に入りましたか、リュウノスケ?」 門弟を教え導く柔和な声だった。「気に入るも何もっ、最高だよ!!この娘ぉ。旦那あっ!! ……燃えてきたぁ!!」 その天使のような二人の本性を、桜は見抜いていた。 二人の後ろから延びた触手の奥、十人ほどの桜と同じ年端もいかぬ幼子がいた。 そのいずれもが、意思の光を持たずに眠ったような表情である。催眠暗示の影響下にあることは明らかだった。 少女の全身を、軟体動物が舐め回すように絡め捕る。 これより先に、どんな暴虐と狼藉が待っているのか、想像することを許されているのは幼子の中で桜一人だけだった。 工業地帯のプレハブ倉庫の片隅に、雁夜とバケモノはいた。 夜ともなれば、人通りなど皆無である。時折点滅するまばらな街灯が、申し訳程度に地面を照らす。 激突する魔力を感じ、その正体がサーヴァント同士の衝突であると解った以上、捨て置くのは論外であった。 敵となるサーヴァントの外見、クラス、あわよくば宝具と真名までを知る最大のチャンスなのだから。 他のサーヴァントに気付かれないよう距離を取り、気配を殺し、物影に潜みながら間桐雁夜は、呆然と立ち尽くしていた。 現在、雁夜の眼前で繰り広げてられている戦いの、桁外れに圧倒されて。 物陰から覗いているその戦いの、桁違いに呆気にとられて。 物語の中から抜け出てきたかのような、双槍の美丈夫と甲冑の美少女が、その得物を超高速で叩きつけるたびに、莫大な魔力が迸り破壊の奔流が吹きすさぶ。 それはいつ終わるとも知れない、破壊の演舞だった。 雁夜の使い魔たる、昆虫の複眼を持ってしても、その舞の影を追うことしか叶わない。 弾かれた矛先がコンクリートの地面を抉り取る。受け流された剣先の風圧が、送電線をまとめて断ち切る。弾き飛ばされたコンクリートの断片が、雁夜の鼻先を擦過し倉庫の壁に罅を入れめり込む。 衝突のたびに弾き出される電子の閃光が闇を切り裂き、雁夜の網膜を焼いた。 戦いの中心に居る瞬速の双影を除いて、世界が砕けて行くのだ。 マスターたる雁夜の右眼は、その二人の能力偏差を遠目ながらも読み取っていた。 少女の方、恐らくは剣の英霊であろう。能力値もほぼAランクと恵まれている。 しかし、己がサーヴァントの能力値と比較した場合、軍配が上がるのはあのバケモノであろう。 能力値では、バーサーカーに劣るはずのサーヴァントですら、自分の理解をはるかに超えた戦いを演じているのだ。 雁夜は恐る恐る、無駄に図体のでかいバケモノの体躯を見あげた。――もしも仮に、この後ろに居る間抜けなバケモノがその気になったとするのならば……。 そう考えると、雁夜は戦慄を禁じ得ない。自身が召喚したバケモノが、どれほどの規格外なのか初めて理解した。 とんでもない戦いに、否、とんでもない世界に足を踏み入れていること、今更ながら実感する。 少女の両腕から、圧搾された大気が噴出し、黄金の煌めきが露出する。 赤と黄の渦巻が、白銀の騎士を押し込み始めた。 均衡が崩れ始めた兆しだった。 少女が、竜巻の如き魔力の渦を槍兵に叩き付けんと下段に不可視の刀身を構え――動いた。 衝撃波が倉庫の硝子に蜘蛛の巣を張り、瓦礫を吹き飛ばす。大気と大地が悲鳴を上げる。 少女が音速を超えた流星となり、宿敵の喉笛を食い千切らんと襲い掛かったのだ。 迎え撃つは、端然と佇む槍兵の黄槍。 刹那の交錯の後、花の様に散る槍兵の血潮。――しかし―― 苦悶の表情を浮かべたのは、仕掛けた剣の英霊。 余裕を残しているのは、 深手を負ったはずの槍兵。 勝利の天秤が、槍兵の側へと明らかに傾いたと、雁夜の素人目にさえ見てとれたときである。 悠然と、決着を付けようと歩を進める美丈夫と、不屈の闘志を燃やし逆転を狙う奇跡のような美少女。 槍兵と剣の英霊のどちらかがこの交錯で消失する。その確信に近い予感を抱いた瞬間、 落雷の直撃を受けたかのような轟音が倉庫群を揺るがした。 二人の英霊の決着に割って入ったのは、巨大な雄牛に引かれた空を駆ける戦車だった。 巨漢が御する雄牛が、猛々しく嘶き虚空を踏みしめるたびに、車輪に取り付けられたブレードが大気を切り裂くたびに、稲妻を撒き散らす。 こんな現実離れはサーヴァントでなければ不可能だ。 よく見ると、世界の終りを予知した超能力者のような表情をした少年が、戦車の御者台にひしっとしがみ付いている。 第三のサーヴァントが、二人の決着前に横やりを入れたのだと理解したとき、「運が良いな、ますたー。ここで三人くたばるかもな……」 戦いが始まってから、黙りこくっていたはずのバケモノが雁夜に声を掛ける。「……なんの運が良いんだよっ!? どこが!?」 声を潜めながらも、責めるように言う。 運が良いなどと言われたのは生まれて初めての経験である。 自分ほど運の悪い男は世界中探してもそうはいないはずだ。 全世界、運の悪い男ランキングというものがあったのならば、下から数えた方が確実に早い。 その雁夜の問いに、バケモノの答えは明快だった。 戦車のサーヴァント――恐らくライダーであろう――は、雁夜たちと同じくあのサーヴァントたちの戦いを観戦しに来たのだろう。敵同士を咬み合わせ、消耗した所に乱入し漁夫の利を得ようとしていたのだろう。しかし、それならば、乱入するタイミングが早すぎる。もう少し咬みあわせるべきだった。 二人は明らかに消耗しているものの、戦う力を充分に残している。槍兵と剣士は漁夫の利を得させまいと共闘するだろう。戦車のサーヴァントが撥ねられるのは必然である。そしてさらに消耗した二人をさらに咬みあわせ、自分たちが襲い掛かれば三人のサーヴァントが脱落する。アサシンは脱落しているのだから、後は時臣のサーヴァントとキャスターの二人を残すだけ。バーサーカーがキャスターに敗北するということは戦闘能力の差から考え難い。「…………………………」 その解説を聞いて、雁夜は意外なものを観るような瞳でバケモノを覗いた。「……なんだよ……」 その視線の意味をバケモノは理解し得なかった。「いや、べつに」 と嘯くマスターを尻目に大きく鼻を鳴らしただけである。 言えない。絶対に。『なんだ、おまえ。ちゃんと頭が付いてたんだな』とか、『悪知恵だけは働くんだな』とか、『バーサーカーって略すとバカになるよな』とか、思っていても言えない。絶対に言えない。 この自分の欲望だけが行動原理のように見える、単細胞なサーヴァントが思いのほか狡猾な戦局眼を持っていたことが意外だった。 確かにそんな状況になれば、目的の八割は達成したのも同じである。これ以上ないという状況だろう。 しかし、その目論みは三〇秒後にあっさりと崩れさることとなる。 撥ねられるはずのライダーが呵呵大笑し、大声で罵り声を上げたのだ。「おいこら! 他にもおるだろうが。闇に紛れて覗き見をしておる連中は!」 この倉庫街を通り越し、工業地帯を越えて新都までも響きわたるような大声だった。「情けない。情けないのうっ!!」 その罵り声に、雁夜のバケモノの目蓋がぴくりと蠢く。「この期に及んで、こそこそと覗き見に徹するというのなら、腰ぬけだわな。英霊が聞いてあきれるわなぁ。んん!?」“ブチブチブチブチブチ” 雁夜の背後から、なにかが一斉に切れる音がした。――まずい、マズイ、不味い!! 全身の感受機関が最大量の警報を上げる。 雁夜が振り返ると、そこには、「……んだと、このヤロウ」 頭部に血管を浮き立たせ、ライダーの単純極まりない挑発に乗って、いまにも飛びかからんとするバケモノが居た。 「聖杯に招かれし英霊は、今!ここに集うがいい。なおも顔見せを怖じるような臆病者は、征服王イスカンダルの侮蔑を免れぬものと知れ!」 ばちばちとバケモノは周囲に紫電を撒き散らし、「ワシをみくびんじゃねえっ!! 牛野郎!! ああっ!! 行ってやろうじゃねえか!!」 ライダーに負けず劣らずの大声で咆え猛る。「待てっ!! バーサーカー!! お前!! 漁夫の利はどうした!!」 ここで打って出るなど戦略的に無意味である。 というか論外である。 ただ一〇分ほど押し黙って、ボーっと突っ立っているだけで、五人の敵のうちの一人か二人、場合によっては三人が居なくなるのである。誰がどう考えても、ここは待ちの一手である。 とんでもねえ大声を張り上げ、ご丁寧に稲妻まで打ち出してしまっているが、相手がよほどのマヌケならば此方のことに気付いていないかもしれない。 なんとか己が下僕を押しとどめようと、バケモノに掴みかかった雁夜だが、英霊の筋力の前には、へばりついた薄紙ほどの足止めにもならなかった。 胴体にしがみついた雁夜を無視したまま、バケモノは三匹の猛獣の檻へと突き進んでいった。全方位に稲妻と轟音を撒き散らし金色の鬣を逆立てながら。 雁夜は自分の運勢が最悪であると確信した。