Fate/zero×spear of beast 10 自身の知らない街の空を飛ぶのは気分良かった。 自身の召喚された場所は、蟲共の匂いの染みついた穴倉であり、大分風通しを良くしたものの、それでもバケモノの鬱屈した気分は晴れそうになかった。 マスターの護衛として、新都へ出てきたバケモノを出迎えたのは、どこか観た様な景色でありながら、初めて観たような景色でもある。 その光景を目の当たりにした瞬間、バケモノは主を護衛する任務を放棄して街中を飛び回った。 鏡のようなガラスを敷き詰めた巨大な建物。 自分の知らないうちに、無尽蔵に増え続けた人間共。 人間共の中には、妖怪除けとしか思えない、鼻の曲がる臭気を放つ連中もいたが、そう輩には近づかなければ良いだけである。 そして、人間よりも態度が大きい、馬より早く走る鉄の箱。 現在では、そういった新鮮なものも見飽きたのか、この街で最も高い建物の上に鎮座し、海の遙か向こうへ沈む朱色の夕陽をのんびりと眺めている。 もしも、この夕日を眺めている怪物を視た人間がいたとするならばとてもではないが、昔、京の都を揺るがした天魔とは想像し得ないだろう。――変わらんもんは変わらんなー。 そんな感慨に耽りながら、風の匂いを嗅いでいると、その中に、よく知った臭いが混じっていた。すえた、鉄のような臭い。血臭である。 いや、それだけではない。 息苦しいような匂いが混じっていた。この匂いは思い出せないほどの太古、自分にとって良く馴染んだ匂いだ。 憎しみが、悲哀が入り混じったような匂いだ。それだけではない。殺意や嫉妬、怨嗟に軽蔑、これは断末魔だろうか……………………。 バケモノの心中に戦慄が走った。忘れようとしても忘れられない香り。――アイツのニオイだ。 その考えをバケモノは即座に打ち消した。 似ていることは似ている。確かにこの世にある昏いものを全て煮詰めた様な匂いは、バケモノの記憶にある匂いとはよく似ているが、どこか別な香りであった。 その違いをあえて言葉にするならば、粘度であろうか。 記憶にあるものは、身体に粘り付き一体化しそうな印象を受けるが、この街に漂うものは、自身とは馴染むことのない異質のものであった。 バケモノにとって、この戦いはまるで気乗りのしないものだった。自身の媒介を用いて半強制的に座から呼び出されたのだ。――阿頼耶識だか、根源だか、不老不死だか知らねえが、人間共があくせくしやがって。 それがバケモノが、間桐臓硯の書斎を漁り、聖杯からは与えられないこの戦いの知識を得たときの感想だった。 自分と、またそれに匹敵するほどの連中を聖杯という釜にくべて奇跡を起こすための儀式である。 バケモノの知識にも、それと同じようなことを行っていた連中は存在した。 魂の物質化という考えは、成功例こそ風の噂にも聞いたことはなかったが、二〇〇〇年か、それ以上前に大陸で同じような理論を構築している人間がいなかった訳ではない。 完全にとはいかないものの、使用されている理屈は大筋の所で理解できる。 しかし、それならば、なぜこんな匂いがするのか?――もしも、アイツみたいなやつが出てきたら……。 バケモノは、思考の渦の中で、敏感に破滅の匂いを感じていた。 間桐雁夜は、闇の中を一人歩んでいた。 新都の都市部から、バスを使って最寄りの停留所まではたどり着いたが、坂の上にある言峰教会までは、徒歩で行かねばならない。 文字通り虫の這うような速度で坂を上る。なんとしても、あの筋骨逞しい老神父に会わなくてはならなかった。 その歩調は、あたかも歳老いた巡礼者が神に赦しを乞い、聖地を目指すようにも視える。しかし、当然教会には祈りを捧げに行くわけではない。 マスターたる雁夜が、教会に訪れるのはサーヴァントを失い敵から自分を守る術が無くなったときか、自身の意思で聖杯戦争を降りる場合である。 しかし、雁夜が煌々と明りを灯す丘の上の教会を訪れる理由はそのどちらでもなかった。 聖堂教会の監督役に会い、聖杯戦争に異物が混じっていることを伝えるためである。 自分の息子を遠坂に弟子入りさせ、マスターに仕立てあげるなど、とても公正が期待できる男ではなかったが、かといって自分の掴んだ事実を伝えるに足る人間の心当たりが、雁夜には他になかった。 なぜ、そんなことをしようと思い立ったのか、雁夜には自覚がなかった。 弱者が勝利を拾うには、正常な真っ向勝負よりも事態の混迷した大乱戦のほうが都合がよい。 外道が、進んで聖杯戦争を荒し回ってくれるというのならば、本来は歓迎すべき事態のはずであった。 また、今回の聖杯戦争に、魔術の隠蔽などという常識すら守らない異端が入り混じっているというのは、情報戦で見た場合少なからぬアドバンテージである。 その優位性を投げ捨てようとしていることに、本人はまるで気付いていなかった。 健康な人間ならば、さほど力を込めずに開けられるはずの扉を、身体を預けるようにして開ける。 礼拝堂の中を照らすのは、文明の利器たる蛍光灯ではなく、柔らかく真実のみを照らす数多の蝋燭の炎であった。 呼吸が苦しいのは、なにも急勾配の坂を半死半生の身体で登りきった為だけではない。教会特有の静謐で荘厳な空気が、雁夜自身を罪人であると責め立てるためである。 もしも、今が聖杯戦争などという状況でなかったならば、その場にいるであろう敬虔な神父に告解の一つもしていたかもしれない。 しかし、出迎えたのは見覚えのある老練の神父ではなく、聖堂教会派遣の工作員を名乗る男であった。 能面のような、表情の見えない男であった。 令呪を見せて素性を明かし、事情を説明した。 守矢に気付かれないように、一枚失敬した写真を添えて提出した。 男は写真を理解しかねるものを見るかのように凝視した後、受取り、ファイルに保管した。 老人のような足取りで踵を返す雁夜に、出口までの助力を申し出たが雁夜は断り外へと出た。 教会の中よりも、外の大気のほうが世俗にまみれ汚れているはずなのに、雁夜には心地よく感じられた。 おぼつかない歩調で坂を下る。自分の体重から来る重力加速にさえ耐えきれそうにない二本足に、恨めしさを感じているとき、よく知った声が、背後から掛けられる。「けぇっ、どこほっつきあるってやがった? ますたー」 召喚したバケモノの、野太く年寄り染みた声である。先にどこかへ飛んで行ったのは自分のほうであるのにも関わらず、そんなことを忘れたかのように悪態を付いていた。 ふてぶてしい態度ではあるが、どことなく憎めないように感じてしまう。 雁夜が振り返ると、そこには想像通りの巨大な肉食獣を思わせるシュルエットが在った。 召喚した直後は羅刹悪鬼のような恐ろしい風貌に思われたが、数日経過した現在では、その人間よりも人間臭い行動を見たせいかどことなく愛嬌を感じてしまう。「あの教会に、ちょっと用事があってな。お前は、なにやってたんだよ? まさか、また妙なものを拾ってきたんじゃないだろうな?」 屋敷の中庭に積み上げられた粗大ゴミの山を思い起こし、雁夜はげんなりとした口調で問う。 てっきり、どうしようもない軽口が帰ってくると信じていた。しかし、バケモノは重々しい声で、「……ますたー。この戦いは……ぶっ壊れてるぜ」 雁夜の理解が及ばないことを言い出した。「“ぶっ壊れてる”って、なにがだよ?」 いぶかしがるような声で聞く。 聖杯戦争は、古今の綺羅星のごとき武勇を誇る英雄、掛け値なしに天下無双の益荒男達が覇を争う戦いである。 自身を、この世の法に縛られない存在と嘯く魔術師共が、一〇〇年や二〇〇年では効かない時間と正気とは思えないほど莫大な犠牲を払って、再現不能の奇跡の業を為そうとするのだ。 常の法が通用する戦いであると思うほど、雁夜は楽天家ではなかった。 第一、眼の前にいるバケモノの保有している膨大な魔力自体が、雁夜の理解を超えている。 だからと言って、そういったことを聞いていないことは理解できた。「……解らねえのか?」 底冷えするような声であった。「……おかしいだろうが。わしみたいなバケモノが呼ばれるんだぜ」 その思いは雁夜にもあった。自身が呼び出したのはどう考えても、悪鬼魍魎、邪怪妖魅の類である。 しかし、数日間同居して、このバケモノのたち振る舞いや桜や自分への接し方を観察するに、この怪物に対する警戒心は無用のものと見てとれた。「バーサーカー、お前、なにを……」 自身のサーヴァントが、なにを言わんとしているのか問おうとしているときに、この冬木市の大気を満たしていたマナの濃度が、ほんの僅か、極めてほんの僅か薄くなった。 老練の魔術師であっても、特別な機器を使用なくては感知できないほどの一寸した揺らぎ。 雁夜のようなにわか仕立ての魔術師には、なにが起こったのか想像することさえできなかった。 ただ、眼前の己がサーヴァントは、なにが起きたのか、正確に把握していた。 全身の体毛を逆立たせ、鎌首を擡げた蛇のように周囲を見渡しながら、「……始まったぜ」 静かな声で、そう呟いた。「なにが始まったんだよ?」 己が主人に、首だけ振り返り、「……戦争が始まったに決まってんだろうが」 バケモノは、本当に静かな声でそう呟いた。