アリスのハンター試験合格から、順調に季節は一回りし、いよいよレオリオとエレナがハンター試験を受験する時が近づいてきた。
港町ウベからハンター試験会場ザパン市への道のりは遠い。旅費を安く済ませたいレオリオは船旅を提案し、エレナも異論なくそれに乗った。ただ実際のところ旅は安上がりとは言えないものになってしまう。
相変わらず縦には順調に伸びて十一歳のエレナは百五十センチをわずかに超えたというのに、体重の方はちっとも増えてる様子を見せないので焦燥感にかられたレオリオが説得して予定より一週間早く出発したのだ。
もちろんアリスはお留守番である。アリス自身がその事実に気づいた時が心配なレオリオだが、そのことをエレナに話すと根拠は無いが大丈夫だろうと言ってのけた。
曰く、気づいたら不味いからこそアリスは決して気づいていることに気づかないようにしているのだと言う。だからこそ簡単に彼女に着いてくることを諦めて留守番を了承したのだと。
「それにしてもくじら島は魚がおいしいね、レオリオ」
泊まっている宿の一室で、買い込んだ干物を黙々と消費していたエレナが咀嚼の合間に笑顔で話しかける。一週間先行していたスケジュールを埋めるため、ザパン市への中継地であるくじら島に滞在するのも今日で四日目だ。
先ほどまで不機嫌ですというポーズを見せていた彼女がようやく笑顔を見せたのでレオリオもほっと一息ついた。ちなみに、不機嫌の理由は初日に縁のあった漁師連中との飲み会に夜な夜なレオリオが出かけていった挙句に昼過ぎまで使い物にならなくなるからである。
「ま、それが地場産業だからな」
「なーにそれ、そこはおいしいねって適当に同意しとけばいいの」
適当でいいのかよというレオリオの嘆きも気にせず、エレナは「地場産業万歳」と呟くと新たな干物へと噛み付いた。
彼女曰く、「訳あって」ここ一年伸ばしている黒髪は後ろでまとめられており、ショートの時同様綺麗な顔の輪郭は見て取れる。しかし、断然ショートの時の方が良かったと思うレオリオは一時期そう主張してみたのだが「何かね? 君には私を好きに着せ替えできる権利でもあるのかね」などと言われて引き下がった。
こうして一緒の宿に泊まっていると、毎朝レオリオには理解不能の手順でピンやら何やらでまとめているのが見られるのだが、そんなに後ろ髪がわずらわしいのならやはり切ってしまえばいいのにと思う。
「そーそー、何か飲み会で聞いたんだがよ、くじら島出身でお前の一つ上のやつが今回一緒にハンター試験受けるんだってよ」
「それがどうかした? 言っとくけど私は一人分くらいしかフォローできないよ」
興味がまるでないと言わんばかりのエレナの反応にもめげず、レオリオは言葉を続けた。
「いやほら、お前通信教育で高校まで卒業資格取ったせいで同年代の友達いないだろ? 同じ船に乗るみたいだし丁度いいんじゃねえかって」
「十二かそこらでハンター試験受けようなんて、尋常じゃない友達は私はいーやー」
うわぁとレオリオは手で目を覆う。言葉の内容は至極最もだが十一歳でハンター試験を受けようという彼女が言っては何というか色々と台無しだ。
だが彼女自身の言うようにエレナが親交を持つ人数は少なく抑えた方が賢いのかもしれない。
レオリオが見た限りでは彼女は他人に心を割きすぎる傾向がある。普段からのアリスとのやり取りは勿論だが、レオリオ自身も情けないながら世話になっているという実感があった。
もっと自分のことを考えたらどうだと言えば「だからこうして肉壁の養成をですなあ」などと軽く交わされるのが常で、レオリオとしては彼女が窮地に陥った時に助ける力のある自分がいればいいなあと願う限りだ。
「ん、おいし」
上機嫌で干物を胃袋に取り込んでいく様子を見ていると、こいつは実はそんなに深く考えてないんじゃなかろうかという錯覚に襲われるが、まあそれならばそれで悪くはない。
後三日もすればハンター試験のために出発しなければならない。連れの少女の機嫌もあるし、そろそろ酒断ちするべきかと内心で検討する。ハンター試験をルーキーで突破するのはかなりの難関ということらしいが必ず突破してみせるのだ。
そう、アリスのハンター試験合格がレオリオの心に転機をもたらしていた。
これまでのレオリオは、ハンターになるとは公言していたものの、身近に見本がいるわけでもなく、「ハンターになる」ということを具体的にイメージしきれて居なかった。しかし、毎日のように顔を合わせていたアリスが試験に合格したことで自分も受かるんじゃないかという妙な自信というか、記念受験なんかではなく受かりにいくのだという明確な意思が形成されたのである。
そうなると俄かに具体性を増して行くのが、ハンター試験に受かり、学費免除の特権を得て医大に挑戦するという道であり、真っ先にそこをイメージしてしまった自分に思わず笑ってしまった。
それによって、改めて医者になるんだという宣言をレオリオはしてのけていた。そんな彼にたいして、エレナが自分のことのように喜ぶのを見て決意を新たにするとともに、その頃考えていた発の開発をレオリオ自身の判断で止めている。
念能力を医術に役立てることを考えた場合、医大で専門知識を蓄えてからの方が絶対いいはずだというのが理由だ。戦闘に長けた念能力者になるよりも、より多くの患者を助けられる医者という方がレオリオの理想により近い。
ただ、エレナが言うように、「じゃ、私とアリスが守ってあげるね」などといった事態だけは正直勘弁して欲しいところだった。
「よっと」
その掛け声に思考を中断してエレナに目を向けると、能力名そのままの見た目である"豚の貯金箱"を彼女が具現化し、ベッドのエッジに腰掛けてレオリオに体を向けていた。
「で、夕方だけどどうする? また飲みに出るなら私はもう寝ちゃうけど」
「いや、もう日数も少ないしな、今日から酒断ちするわ」
「そっ」
エレナは豚の貯金箱を消すと、ベッドの脇から立ち上がってドアへとすたすたと歩いていく。
「どこ行くんだ?」
「朝レオリオがぐーすか寝てる時に宿のおばちゃんに釣竿借りて釣りに行ったの。そしたら何かアジが入れ食いでさー。フライ二人分頼んで来るね。手伝わせてくれそうならそのまま手伝って来るから」
「おー、任せた」
本当はちょっと飲みに行きたかったなーという気もするが、とりあえず正解を引き抜いた安堵で脱力する。干物の次はフライということらしかった。
△
▼
くじら島に滞在して一週間、十分に休暇を満喫したところでハンター志望者を既に大勢乗せた船が予定通りくじら島にたどり着いた。すでにレオリオとエレナは乗り込んで、すっかり宿のおばちゃんと仲良くなったエレナが見送りに来てくれたその人に手を振っている。
ここから乗り込んだ他の面々にもやはりそれぞれ見送りというのはいるもので、レオリオが酒の席で聞いた少年であろう人物が、絶対にハンターになって帰ってくるからねと叫んでいるのを見かけた。
「なあエレナ、あいつだよあいつ、漁師のおっちゃんに聞いたの」
「そうみたいね」
何だか妙に硬いエレナの様子が気にかかるが、レオリオは件の少年の方により目を奪われた。正確には彼のオーラにだ。念を覚えていないのは明らかだか常人というには余りにも力強い印象を受ける。
ちなみに今、レオリオとエレナは普通の人を装うために纏などは行っていない。ハンター試験でもよっぽどの事がなければ試験管はともかく受験者には念能力者であることを隠すように打ち合わせていた。
「レオリオは悔しくないの? あんな、あんなオーラ」
彼女が奥歯を食い締める音が聞こえるような気さえする。エレナがこんな風に他人に敵意を向けるのはひどく珍しい。
「何だお前、格闘超人になりたかったのか?」
「ううん。違うけどさ、でもどこまで行けるだろうって考えるかな」
「何か良く分かんねーけどくよくよするなって。こういう時はあれだ、お前の今年の目標を思い出すんだ」
大体、やたら強い敵なんぞが現れたりすればそこはアリスに任せてしまえばいいのである。レオリオとエレナは純粋な格闘面においてはひたすらにアリスに手を引かれているのが現状で、二人ともに成長を続けているにもかかわらず山頂などは見えもしなかった。
「目標かあ、コタツでみかん、コタミカ……ぐーたらしたいよねえ」
「知らねーって。受かって戻ったら俺に休みなんてものは無いんだよ」
「大丈夫だよ。レオリオのみかんは私が食べてあげる」
レオリオの励ましに無難に乗っかってきたエレナはまだ次第に遠くなるくじら島から目を離さずにいた。きっと彼女の中の葛藤はおさまってもいないはずで、すぐ遠い場所に負の感情をしまいこんでしまうエレナのそんなところがレオリオは不安だった。
「ほら、もういいだろ。とりあえず部屋っつーか所定のスペースに荷物くらい置こうぜ」
「うん、おばちゃんから貰ったイカナゴのくぎ煮を万全な体制で守らないとねっ」
くじら島滞在中の3日目だか4日目の昼食に付け合せとして出ていた小魚を甘く煮たものにエレナは大騒ぎした。その挙句に、宿のおばちゃんから大き目の保存容器に満載したものを受け取っていたのである。
「あー、あの何か茶色いやつな」
「ふふふ、今は好きに言っているがいい。ご飯との相性を経験したその時、レオリオ君、君は頭を地に付ける」
チケットに印刷された大部屋へと向かいながら鼻歌混じりでそう言ってのける彼女は、自分が思い出した荷物の中のタッパーに思いを飛ばして嫌なことは心から飛んだようだ。
「でも、あの量なら私一人で食べても二ヶ月持つかどうか――やはり独占すべきかなぁ」
何かを真剣に計算しはじめた彼女が、そのイカナゴのくぎ煮の入ったタッパーを抱えたまま大揺れのハンモックの上で嵐の通過に耐えることになったのはわずかに数時間後のことだった。
△
▼
エレナとレオリオの乗った船は、くじら島を出港して数時間して嵐にみまわれてしまう。ようやく揺れがおさまった時、もらいゲロの恐怖を抑え付けてエレナがハンモックの上から下をのぞいてみると、実に散々たるありさまであった。
鼻につく吐瀉物の匂いも気にせず悠々と眠り込んでいるレオリオや金髪の少年の姿に、信じらんないと心中で悪態をつく。しかし無理に彼らを起こすことはせず、エレナは乗客スペースの床へと降り立つと折り重なるようにしてダウンしている者の介抱と汚れた床の掃除を始めた。
「ねえ」
薬草をかませたり汚れた布団やタオルの類を運んでいたツンツン頭の少年が近くを通るところを捕まえるために声をかける。
「どうしたの?」
暢気な黒い瞳がこっちを向いた。彼は絶対ハンターになると出港の際叫んでいた少年だ。
「あっちのさ、寝かせといた男の人たち何だけど、服濡れちゃってる人とか脱がしといてくれないかな」
「うん、分かったよ」
快諾して早速その作業に取り掛かった少年の、その背中をエレナはついつい眺めてしまって、その事に気づくと慌てて床の掃除の続きを再開した。彼女がその少年に注目してしまうのには勿論理由がある。
彼こそがエレナの入り込んでしまった物語、HUNTER×HUNTERの主人公ゴン・フリークスその人なのだ。
バトル物漫画の主人公である彼は当然厄介ごとに次から次へとぶち当たるわけであり、エレナとしてはなるべく適度な距離を取っていたい相手だった。そんなことを何故エレナが知識として知っているかというのは誰にも話していない彼女の秘密だ。
HUNTER×HUNTERというのは、彼女の世界の商業誌上に掲載されたりされなかったりされなかったりしていた漫画物語であり、主人公であるゴンを中心としてレオリオなども描かれていた。
つまり、本来であれば彼女にとってこの今の世界は二次元の存在なのである。この世界が狂ってるのか彼女が狂っているのかはエレナにとって大きな命題だが、まあ今は、何はともあれハンター試験だ。
船内の混乱も一段落というところで船長直々のアナウンスが響き渡る。その内容は、先ほどの倍近い嵐の中をこれから突っ切るので嫌な奴はさっさと船を降りて近くの島にでも避難しろという乱暴なものだった。
そして再び始まった大混乱によって、ほとんどの乗客が争うようにして海面に降ろされた救命ボートに乗り移って逃げ去ってしまう。
「結局残ったのは四人だけか」
ずんぐりむっくりした体格に、立派すぎるヒゲを生やした船長が何故か客室を訪れると乗客を集めてそう言った。残っているのはエレナとレオリオ、そしてゴン少年と金髪の少年である。
「悪いがお前さんたち名前は?」
「俺はゴン! ゴン・フリークス」
エレナ以外には意図の掴めない船長の質問に対して、一人ゴンだけが元気よく答えた。
「ま、名前くらいは別に言ってもいいけどよ、何の意味があるんだ?」
「そうだな、船賃を払っている以上客室で大人しくしている分には何の干渉も受けるいわれはない」
説明を先にしろというレオリオの言葉に同意したのだろう、成人男性を基準とするとやや小柄な金髪の少年が言葉を続ける。
「船賃ねえ、ははっ船に乗れば船長の俺が絶対だ。そんなのは関係ねえ――と言うのは俺の持論だが、今はまた別の話だ。ハンター試験だよ、ハンター試験。会場に着く前にもふるいは幾つもあるってことだな。さあっ――名前は何だ? ハンターになりたい理由は? 心して答えた方が身のためだぜ」
俄かに絶対者として君臨した船長にたいしてまずはゴンが現役ハンターである父親のようになりたいのだと志望理由を話した。そして次が金髪の少年だ。
「私の名はクラピカ。クルタ族と呼ばれる少数民族の生き残りだ。四年前に一族を滅ぼした幻影旅団を追っている」
あまり穏やかでは無いクラピカの志望理由にレオリオが思わずといった調子で口を挟む。
「要は復讐か? 別にハンターじゃなくてもいいんじゃねえのか?」
そのレオリオの言葉を受けてクラピカが呆れたように肩をすくめた。他人の事情に口を挟むという時点であまり褒められた行為ではないが、レオリオのハンターに対しての無知ぶりもクラピカの顰蹙を買ったのだろう。
「君は馬鹿か? ハンターでなければ聞けない情報入れない場所というのが山ほどあるのだよ」
咄嗟に言い返そうとしてこらえたレオリオに対し、エレナはそでを掴みかけていた手を下ろした。そこに船長のしわがれた声が割り込む。
「旅団って言やぁA級の賞金首だぜ。素人に毛が生えたような奴が追えば死にに行くようなもんだ」
言いたくもないはずの志望理由を、しかも複数人の前で言わされた時点で苛立っていたであろうクラピカの雰囲気が変わるのが分かった。
それでも自分を抑え付けているのだろう、船長をにらみつけて搾り出すようにして声を出す。
「死などというものは全く怖くはない、私が恐れるのはこの怒りがやがて風化してしまわないかどうかだ」
クラピカの決意の発露に、船長は一つ鼻をならすとレオリオに顔を向けた。次はお前だということだろう。
隣に立っていたエレナはレオリオが志望理由を言う前に彼女に視線を落とす気配がしたので咄嗟に視線を合わせた。実際には二、三秒も無かったのだろうが、その行為の意味がよく分からずエレナは首を傾げる。
それがちょっと可笑しかったのだろう、レオリオはうっすらと頬を歪めると軽くエレナの頭を掌でポンポンと二度触れた。そして一歩前に出る。
まあ悪い気はしないが、丁度いい高さにあるからってレオリオは自分の脳細胞を殺しすぎだとエレナは思う。
「俺はレオリオっていう者だ。嘘吐くのもメンドイんで正直に言うと金だな。金がねーもんで医者になれないわけよ。つーわけでハンター試験に見事受かって学費免除を勝ち取ろうって魂胆だ。ああ、もちろんいい服いい酒いい車も大歓迎だぜ」
その時その場で、レオリオが口にした言葉は原作とは決定的に異なっていた。エレナがまだ別の名だった頃に読んだ漫画の中では、彼はこの時お金のことしか口にしていなかったのだ。
どちらが良い悪いでは無く、変わったという事実がエレナにはひどく嬉しい。今世界に彼女だけしか知らない傷がついた。その形こそがエレナがここにいるという証なのである。
「どうせ私が居なかったらいい女も付け加えるんでしょ?」
高揚した気分のままに軽口を挟むとレオリオが口を尖らせる。
「いいだろっ、それくらい言ったってよー。お前のせいでろくにエロ本も読めやしないんだぜ」
レオリオはエレナの事を良く知っている。些細なシモネタなど涼しい顔で受け流してみせる余裕と理解が彼女にはあった。
しかしどうやら、ここまでの船長とのやり取りで既に頭が沸き立ってしまっていたクラピカという名の金髪の少年は、十台になったばかりとうかがえる少女に対しての余り上品ではない言葉と、照れ隠しにレオリオが言葉に乗せた欲に我慢ならなかったようだ。
「あまり感心できない喋り方は辞めた方がいい。レオリオ、品性は金では買えないよ」
客観的に見ても喧嘩を売っていると判断できるその言葉に、その年代の男らしくあまり軽く見られるのが好きではないレオリオもまた苛立った。その気配に、エレナは諦めたように視線を落とす。
「てめぇさっきから喧嘩売ってんのか? だったら甲板に出ろよ、買ってやるぜ。クレタ族だかクロタ族だか知らねーがその血を絶やしてやる」
「貴様! 訂正しろ、レオリオ。一族への侮辱は許さん」
あーあと思う間もなくヒートアップする二人の様子にエレナは肩を竦める。レオリオの方ならもしかすると止めれたかもしれないが、念のために甲板に上がっておきたい彼女はそれをしなかった。
「訂正? しねーよ。それとレ オ リ オ さ ん だ」
そう言い切ってレオリオが甲板へと出る扉へアゴをしゃくると、何も言わずにそこから出て行く。クラピカも迷うことなくその後ろに続いた。
そして二人がそこから甲板へ出て行くのと入れ代わるようにして船員が駆け込んでくる。
「船長! 思ったより風が巻いてやがるっ。やばいかもしれねえ」
レオリオとクラピカのやり合いに少し焦っているように見えた船長が、その船員の言葉を受けて絶対者としての姿をたちまち取り戻した。
「分かった。俺も出る!」
「船長。俺も何か手伝うよ」
自分の志望動機をのべてからは黙って様子を眺めていたゴンが船長に続いて甲板への扉をくぐった。
「ふん、好きにしろ。にしてもあいつらこんな中で決闘やらかすつもりか? 落ちたら浮かねえぞ、こいつは」
わざわざそれぞれに理由のある志望動機を他人の前で言わせた船長がそれを言うことに多少の憤りを覚えながらエレナは黙ってそれに続く。もっとも、それもハンター試験のうちと言われればそれまでだ。
客室にいるときから揺れで大体の想像はついていたものの、実際に甲板に出て体験したそれは、エレナにとって未曾有の大嵐だった。体中に雨と舞い上がった海水が叩きつけられる。四十キロに満たないエレナの体は油断するとすぐにも風にさらわれてしまうだろう。
そんな中でレオリオとクラピカの二人は多少の距離を取り、向かい合って立っていた。この嵐の中で支えもなく立つことができる時点で二人が積み重ねた修練が透けて見える。そこに目を奪われて言葉をやり取りするゴンと船長をよそに、エレナは油断なく甲板上を観察していた。
未来が変わり得ると分かった以上、より確実な方を選ぶのは道理だからだ。そして、正対する二人が互いに隙をうかがいあう中、いよいよ耐え切れなくなったヤードと呼ばれるマストについている帆をつける横棒の一つが半ばからへし折れてしまう。
「カッツォ!」
一人の船員が名前を叫ぶその先には、今まで必死にマストの脇で帆をたたむ作業をしていた別の船員がいた。
その船員カッツォへと折れたヤードがぶち当たり、その時波によって大幅に傾いていた甲板の上を彼が落ちるように吹き飛ばされていく。クラピカの背後で起こったその事故は、当然正対するレオリオの視界に映っており、このままだと船員が海へと落ちるのを見て取ったレオリオが決闘を放り棄てて動いた。
その明らかに自分に向けてではないレオリオの突進の理由に、背後を振り向いて気づいたクラピカがそれに続く。その二人の姿が、一瞬で船員カッツォが吹き飛ばされるその船縁へとたどり着いていたエレナからは良く見えた。
ゴンも少し離れた船長の脇から飛び出している。何となくズルした気分になってゴメンネとつぶやいた。そして迫り来る船員へと意識を切り換える。
このまま待っていては質量で大きく劣る自分は受け止めきれない可能性が高い。だから彼女は強く踏み切るとカッツォに向けて跳躍した。速度を得て運動エネルギーを獲得したエレナの体は、空中でカッツォとぶつかって無事甲板へと落ちることに成功する。
間を置かずしてそこにたどり着いたレオリオがエレナを、クラピカとゴンがカッツォを甲板の上へと抑え付けて確保すると、そこにタイミングを合わせて他の船員が命綱を投げてよこした。
「よっしゃ! よくやったぞ嬢ちゃん」
「おおっ、ありがとなっ」
口々に船員に感謝の言葉を浴びせられる中、エレナはレオリオの体の下でわずかに身をよじる。
「レオリオ、ちょっと痛いかも」
「ん、ワリィッ」
慌てて体勢を変え、レオリオは片膝立ちの自分の体にエレナをもたれさせ、彼女の左肩あたりから抱きこむように腕をまわす。エレナはクラピカにも聞こえるように少し大きめの声を出した。
「少しは頭冷めた?」
「ああ、――おいっ、クラピカだったな。さっきは悪かった。発言は撤回するぜ」
倒れた船員の介抱をしながら、こちらを注視していたクラピカが、レオリオと目を合わすと軽く首を振って笑った。
「いや、こちらこそ非礼を詫びよう。レオリオさん、すまなかった」
「なんでー水臭ーな。レオリオでいいぜ」
「(レオリオッ、美少年が笑うとやっぱ華が違うね、華が)」
レオリオが呼び捨てでいいとクラピカに話す脇で、そんなことをレオリオだけに聞こえるように言うと、レオリオが肩から回した腕を上にずらして片腕で首を絞めてくる。
「んなこと言ってる場合かっつーの、とりあえず一度中に戻るぞ。お前軽いんだから何時飛ばされるか分かりゃしねえ」
「そうだな、ゴン。この人も一度中に運び込もう」
「うんっ」
うっわっ、こいつらそんなとこで決闘していたことを棚に上げやがったと半ば呆然としながら、エレナは素直にレオリオに体を預けて客室へと戻った。客室でエレナを床に降ろしてほっとしたらしいレオリオが突っかかってくる。
「お前なあ、あんな嵐の中で無茶な動きしてんじゃねえよ。心配するだろうがっ」
「レオリオの言う通りだっ。下は激早の海流に人魚ですら溺れると名高い危険海域なのだよっ!」
何故自分が責められているのだろうか? エレナが少々白けていると、頬をぽりぽりとかくツンツン頭の少年と目があった。彼はエレナへと困ったねといった具合の表情を見せている。
あれだけ濡れてなお天を突くその髪質に疑問を抱きつつ、エレナは話をふった。
「ねえゴン。言ってやって言ってやって」
「うん、そんな場所で決闘している方がよっぽど危ないと思うよ?」
心得たとばかりにゴンがそう言うと、レオリオとクラピカがぐっと黙る。そして勝利を確信したエレナが髪留めのピンの位置を適当に直していると、甲板からの扉が勢いよく開き、船長が現れた。
「ようお前ら、さっきは助かったぜ。海もそろそろ落ち着きそうだ。ハンター試験はもう全員合格でいいからよっ、とりあえず嬢ちゃん、名前だけ教えてくれや」
「私はエレナよ。ちなみに志望理由、いえ――受験理由は人探しね」
名を問われたエレナは、自分だけ受験理由を秘匿するのも申し訳ないので、人探しが目的であることを告げた。そんなことは聞いたことの無いレオリオが驚きの表情をつくるのを見てくすりと笑う。
この世界が漫画になっている世界で友人だった人物を探していると言えば病院にでも連れていかれてしまうだろうか。
ちなみに、エレナはハンターを志望しているとは少し言いがたい。ライセンスを持っていれば便利なので最後まで受験する気でいるものの、恐らく彼女の望みは最初の試験会場でかなうことになる。
「なるほどな、まっ嵐もすぐ止むかからよ、後は着くまでゆっくりしててくれや。ゴンは操舵でも見るか?」
「うんっ!」
船長の言葉に元気良くうなずいたゴンが、船長に続いてまた甲板へと上がっていった。その背中が扉の向こうに消えるまで追っていたエレナの瞳が床へと落ちる。
本当にこれで良かったのかという思いが胸によぎった。船員カッツォの救出、それはレオリオ、ゴン、クラピカの三人が強く絆を結んでいく最初のイベントの一つだ。それを自分は台無しにしてしまったのではないだろうか?
そんな事を考えて、エレナは何故か自然と原作に沿おうとしている自分に気づいて愕然とした。もっと、もっと自分は検討を重ねるべきだったかもしれない。
ゴンとクラピカに深く関わると命のやり取りの中へとレオリオと自分は引き込まれていってしまうのだ。今からでも遅くはないかもしれないと、談笑するレオリオとクラピカを見上げる。
だがしかし、彼女は結末を知らない。もしかすると世界的な危機からの救済には三人の絆が必要とされるのかもしれなかった。自分が答えの出ない思考の迷宮に囚われているのに気づいて、エレナは薄く笑った。
今はこれ以上考えても仕方がない、彼女はこの船に乗ってしまったのだ。
「私は寝るっ!」
そう宣言すると、傍らのレオリオとクラピカが驚いて彼女を見た。
「おっ、おう」
レオリオの返事を聞き流し、彼らには顔も向けずに自身に割り当てられたハンモックへと移る。
無事真ん中に鎮座していたイカナゴの保存容器を抱え込んで目を閉じた。胸にかかる重みに、ふとこの世界と、彼女の元いた世界、時の流れはどういった関係になっているのだろうかと疑問が浮かぶ。
向こうでは幾度瀬戸内に春が訪れて、イカナゴがスーパーの店頭に並んでいるのだろう――。
エレナが胸に抱えたくじら島のおばちゃんのイカナゴは、彼女の母が炊いたものとはやはり少しだけ味が異なった。