ゴミ溜まりも千五百年続けば立派に議会政治が成り立つところに結局のところ群れで暮らす動物である人類の悲哀めいたものが感じられるかもしれないが、今そこに座り込むマチにとっては何ら感慨をもたらすものではなかった。
せめてもの救いとして空だけは抜けるように青い、なんてことはもちろん無い。今日も舞い上がる埃のせいで視界は灰色めいている。
実のところマチにはそんなところで座り込んでいる余裕は全くなかった。この先にある廃墟での仲間との待ち合わせがあったのだが、既に一時間は遅れている。
だというのに彼女は実に一時間半もの間わずかな身じろぎもできずにいるのである。その理由は、マチの両腕の中にあった。
赤ん坊が抱かれていたのだ。自らを抱く少女の気も知らずにその赤子は穏やかに眠り込んでいる。
マチという名のその少女は、自分が日々行き来する道端に赤子が捨てられていても無視できると自分で思っているし、実際にそうしたこともある。どうせ誰かが拾って届けるのだし、たとえそれが間に合わなくても彼女のしったことではない。
では何故こんなことになってしまったかというと、冗談でも何でもなく、上から降ってきたのである。
恐らくはゴミ山の上かその向こう側あたりから放りなげられたのだろう、上方からの気配に気づき咄嗟に念を込めた右腕で振り払おうとしたところ、それが赤子だと気づいた時にはぞっとした。
心中でみっともなく叫びながら慌てて手刀にブレーキをかけるとわずかに赤子の頬に触れるか触れないかといったところで止めることに成功する。まだ重力に引かれて落ちていく赤子を両腕でキャッチして、ひとまずほっと一息ついた。
だがトラブルはそこで終わらなかったのだ。
腕の中の赤子に視線を落としたマチはあることに気づいて久方ぶりに泣きそうになってしまった。やはり念を込めた自分の手刀が当ってしまっていたらしい。全身の精孔が見事に開いて赤子はオーラを勢い良く噴出していた。
あああああ、と口から無意味な文字列が漏れてくるのを聞きながらも、何所か冷静なもう一人の自分が、「私もまだ赤子の頭を破裂させるような真似はできないのかー」などと感慨めいたものを覚えていた。
そして僅かに十分、それがパニックに固まったマチの腕の中で赤ん坊が纏を覚えるのに要した時間である。マチの方が一体何分間思考停止していたのかは分からないが、彼女が気づいた時には赤ん坊は気絶したまま見事に纏をこなしていた。
そのことに気づいた瞬間完全に全身の力が抜けてマチは座り込んでしまう。
それから一時間以上が経過してもマチは動けていない。ベストな方法はもちろん分かっている。彼女は道端の捨て子なら心一つ動かすことなく無視できるし、そうしてきたのだ。
なのに、なのにである、十三歳の少女は自らの腕の中から道端に、あるいは脇のゴミ山の中に、赤子を放り出すという行為に踏み切れずにいた。
ノブナガという彼女の仲間に今の彼女の様子を見られたら、また、「これだから女は」などと馬鹿にされてしまうかもしれない。母性本能うんぬんを理由に殺しに向いてないなどと言われた時、そうではないと認めさせるのに念能力者の死体を幾つか積み重ねてみせなければならなかった。
もっとも、彼が言いたかったのは「危ないことは俺達に任せておけ」ということだというのは分かっている。だがこんなゴミ溜めでただ待っているだけなどとてもじゃないが我慢できないのだ。
だから、彼女は流星街から外へ向かうために、欲しいと思うもののことごとくを手に入れるために身軽でなければならない。この赤子はここで棄てる以外の選択肢などは無いのだ。
――じゃあ何で私はこんなにも動けないんだ
どうしようもなくなって初めて、彼女はもう一つの選択肢に気づいた。無論拾って育てるなんてものではない。棄てることができないのは、認めたくはないが既に腕の中の赤子に情が移っているからだ。
嫌でも伝わる体温と一緒に流れ込んでくるひどく卑怯なそれのせいだ。棄てた後どうなってしまうのかが心配で自分は身動きができない。
ならばいっそ殺してしまってはどうだろうか? 後味はそれなりに悪いだろうが、それで自分は動ける。ここから立ち上がれる。
――そうだ、それがいい。殺してしまおう
馬鹿みたいに眠りこけている今がチャンスだ。軽く地面に叩きつけてやるだけで終わる。何て無力な存在だろう。自分もこんなだったのだろうかと考えてしまって慌てて首を振る。迷うな、何も考えてはいけない。三つだ、三つ数えてこいつを殺る。
その時だった。赤子がわずかに身じろぎしたかと思うと、あっと思う間もなく目を覚ます。そしてマチを見上げて笑ったように見えた。
「このっ、笑うなっ! 笑うなーーーーっ!!」
何所か滑稽だと思いながら全力で赤子に鬼気を叩きつける。今度は一転して泣き喚く赤子を見下ろして、泣きたいのはこっちだぞとつぶやく。
あーもうどうしようと天を仰いで、すぐそばに近づく気配に気づいた。
「あら、随分可愛いもの抱えてるわね」
気配の持ち主はパクノダという名の女性で、マチの二つ年上の仲間だった。
「パク、これは……違うんだ」
「ええ、分かってるわ。道端に落ちてたわけじゃないんでしょ」
マチの葛藤も何もかもお見通しのその落ち着いた瞳に、彼女は心底安堵して、卑怯だと思いつつその先を彼女に任せた。パクノダの口から出てくる言葉が自分を楽にすると知っていてそこに身を委ねたのだ。
「で、名前は決まったの? それとももうついてた?」
これから私達が赤ん坊を何と呼ぶのかと、パクノダはマチに尋ねた。今この場で赤子を棄てる、あるいは殺すという選択肢を無いものとしてくれた。
「さあ、男か女かも分からないし……」
「じゃあ確かめてみましょう」
「何でそんなに楽しそうなのパク」
手を伸ばしたパクノダに赤子を手渡すと、彼女は嬉々として毛布をはがしにかかる。どうやらついてるかついてないかが相当気になるらしい。
「さてさて、あら、ついてないから――女の子よね?」
「まあ後から生えるんじゃなければね」
一人じゃなくなったマチがようやく冗談を言うとおかしそうにパクノダが笑ってくれる。
「じゃ、考えといてね。女の子の名前」
「わ、私がか?」
「当然! マチがお母さん何だから。ねーあなたもそれがいいよね」
パクノダの意見に同意でもするかのように、彼女の腕の中できゃっきゃと赤ん坊が声をあげた。ほらねとこちらに笑いかけるパクノダの顔が今は恨めしい。
彼女の腕から赤ん坊をひったくるとマチは思いっきり顔をつき合わせて言ってやった。
「アンタ、最初に来たのがパクで良かったわね。男連中が来たら私が殺してたんだから」
言葉はもちろん分からないだろうが、気持ちはどうやら伝わったようで、ピタリと押し黙った赤子の様子にいい気味だとマチは思った。ポカリとパクノダに叩かれたのは計算のうちなので気にしない。
これで自分も脳細胞にダメージを負ったので心理面でダメージを受けたこの赤子と痛み分けである。
この時の赤ん坊は、数日してマツリカと名付けられた。その名前は、彼女の仲間であるノブナガとウボォーギンが十も二十も名前の候補を考えては押しかけてくるのを実力で排除しつつ、結局マチが名付けた。
お母さんと呼ばれて、齢十五になった少女が膝をつくのはそう遠い日のことではない。
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マツリカの視界はここ流星街では基本的にのっぺりしている。彼女のこの世界での記憶は一人の少女の顔を基点として始まった。
その顔を見た時内心ひどく驚いたことをマツリカは確かに覚えている。何と確かに自分を抱える腕には立体の確かさを感じるというのに、こちらを見下ろす少女の顔はどう見ても漫画絵だったのだ。
更に言うならば、明らかにジャンプで絶賛休載中のハンター×ハンターの冨樫絵だった。
実際のところ、まさしくその世界はハンターの世界観そのままで、彼女を小一時間抱きかかえた挙げくにもう殺しちゃってもいいよねという結論に傾きかけた少女は作中の主要人物の一人だったのだ。
彼女は、つまりはマツリカのマチねえは漫画絵でもうっとりするような美人に育ったが、三次元で見てもこれがまたはっとするような女性でマツリカ的には二度楽しめて非常においしかった。
そう、彼女は常人のように三次元でこの世界を捉えることもできる。こうして二次元的に視界が切り替わるのはマツリカの念能力の一部だ。彼女が冨樫絵風のタッチで描いたもの及び、それに強く付随するものは、そのクオリティ次第で念能力発動中のマツリカの視界の中では二次元的に映るようになる。
明らかに特質系に属するその能力に、決定的に気がついたのはシャルナークという男性の存在が大きかった。赤ん坊のころマツリカが纏をすると、マチもパクノダもノブナガもウヴォーギンも冨樫絵チックになるのに対して、一番年の近い彼だけが三次元のままだったのである。
そうして年月が経ち、マツリカの物心がついてシャルナークを絵で書いてみると今度は彼まで冨樫絵になってしまった。そしてシャルナークの二次元化に伴って二割ほど三次元部分が残っていた近所の風景もほぼ全てが二次元化した。
彼女が元の世界で同人絵を描いた部分はもれなく最初から二次元的に見えていたというのがマツリカの出した結論であり、元世界での行動が影響を与えているという事実が"繋がっている"という希望をもたらすことになる。
その後、彼女は視界を二次元に切り換えた時に、何となく気になる三次元が残った部分をスケッチしては潰すという作業に没頭するようになり、そうやってしばらく過ごしたときに天啓のように気づいたのだ。
何故そう思ったのかと聞かれても理論的な説明は何もできない。しかし、自分の能力はこうなのだという確信にマツリカは震えた。思わず左手をぎゅっと握り締めて額に当てて強く祈った。
そもそもの始まりは、それこそ冗談のような話だった。いい年こいたOLで、そこそこの同人画家だった自分が、友達を家に呼んでおきながら自分はハンター×ハンターを読み漁るという暴挙を決行していた時だったのだ。
戯れに、
「あーあー、とうとうこの年になっても漫画の世界には行けなかったなー」
などと呟いて、呼び出された挙句放置されてるというのに何とご飯まで作ってくれていた友人の冷たい視線に耐えつつ、ごろごろと転がりながらその友人に近づいていったところで事は起こった。
とはいっても、覚えているのは突然開いた暗い穴に強烈な力で吸い込まれていったというだけである。その時、友人が自分の左手を掴んでくれていた力が、今でも時折まだ手首の辺りに残っているような気がすることがあった。
マツリカの友人は間違いなくこちらに来ている。
そして、自分が必ず元の世界に彼女を帰してみせるとマツリカは誓っていた。マツリカの能力は二次元化した世界への干渉だ。
使用するオーラの量や干渉する物体の大小や性質によってどこまで干渉可能かが左右される。そんな能力だ。
だがそれだけではないと彼女は本能的に悟っていた。彼女の認識するこの世界の全てを二次元に塗り替えた時、きっと上位次元への穴が開く。それは、それだけの念能力に育て上げてみせるという誓いでもあった。
可能な限りに早く、その努力を彼女は様々な形で自らに課してきた。例えば、念能力には制約と誓約といって、自身で条件付けをし、それを誓うことで能力を向上させるという技術がある。
麻雀やポーカーで条件が難しいほど高い点数がつくのと似たようなものだ。マツリカにもただ一つだけ誓約したことがあった。
自分自身は決して元の世界には戻らない、それを破れば命を失うというのが彼女の誓いだ。
「こんなところにいた」
ガラクタ山の頂での物思いを破ったのは耳に馴染んだちょっとだけ低めの女性の声である。
「あ、お母さん」
「……今度それ言ったら一生口きかないって言わなかったっけ?」
「うん、お母さんがそれでいいならいいよ」
マチが苛立ちとともに黙り込んだので思わずマツリカは微笑んだ。こうやって甘えてしまうのは、もういよいよとなってしまったから。
物語が動き出してしまうからだ。
パクノダとウヴォーギンは死ぬ、そして彼女はそれを描く。そうやって少しずつ近づいていくのだ。
「全く、今日出発するって言ったのはマツリカだろう」
「うん。じゃあいこっか、ハンター試験」
いるはずの無いマチの隣に立ついるはずの無い自分、ハンター試験会場にマツリカの友達が来るのならきっとすぐに気づいてくれる。
会ったら一発くらい殴られてやろう、そんでもってオムライスを作ってもらうのだ。
彼女に我侭を言うのはマツリカの特権なのだ。
男になっているなんて確率も、もしかするともしかしてしまうのだろうか?