念にはゆっくり起こす方法と速攻で叩き起こす方法の二通りがある。
前者がレオリオが行っているそれであり、後者はエレナがそういった手法が存在するということについてレオリオに教えないよう秘匿していた。
口止めしていたのはアリスだけでなく、マグチファミリーの念能力者による戦闘集団の教官や、念能力の修行場で顔を合わせる可能性のある訓練生にまで及ぶ。
だが彼女はそれで大丈夫だとは決して思ってはいなかった。
「なあ、レオリオさんだっけ?」
そう言って一人で瞑想していたレオリオに話しかけてきたのは恐らく同年代か少々年下と思われる男だった。
まだまだ少年といった感じの細面に、マフィアの構成員とは思い難い人懐っこい笑顔を浮かべている。
「ああ、そうだが」
それに答えるレオリオの表情は渋い。
彼はもうこのところずっと念の修行の前後は機嫌が良いとは言い難かった。もう既に自身の内にあるオーラを感じ取るための修行を始めて一年ほどが経っていたのだ。
彼は十八になり、高等部を卒業していた。家族にはハンターになるのだという意思を半ば無理やりな形で通し、ここのところはほぼ毎日エレナの屋敷の修行場に詰めている。
だというのに念の修行に関しては何も進歩したという手ごたえは無かった。発狂するかと思ったというエレナの気持ちを十分に理解していたが彼自身はそこまでは追い詰められてはいない。
アリスやエレナとの手合わせや体力作りなどにより体術や持久力には大幅な向上が実感できていたからである。
「おっと、修行中に声かけてすみません。俺はヨキノイって言います。ちょっと聞きたいことがあるんですよ」
レオリオの不機嫌を察したのだろう、ヨキノイというその少年は申し訳無さそうにそう言った。
「分かった。何をだ?」
レオリオがそう返すとヨキノイは明らかにほっとした表情をした。
「ええ、アリスさんの誕生日とか好きな物とか知らないですかね? いえ、別に僕が特別知りたいというわけでなく修行場の皆がですね……」
なるほど、そういうわけかと一人納得したレオリオがうんうんと頷く。
エレナの家の裏のやたら広い敷地はマグチファミリーお抱えの念能力者の修行場になっているらしく男も女もそこそこの人数を見かけている。
大抵レオリオはアリスやエレナと一緒であるため彼らとの交流は無かったが、アリスの容姿からして手を出すべく狙っている男連中がいることは容易く想像できた。
「残念ながら俺も知らねーなぁ。気があるんなら直接聞けばいいんじゃねーか? お前らの中にもそういうの得意なのいるだろ?」
少し冷たいかしらん? などと思いながらレオリオはそう言った。
大体彼が不機嫌なのは当のアリスがよりによってハンター試験を受けに行っていて不在であることが大きな原因になっているのだ。今その名前はあまり聞きたくはなかった。
「うーん、レオリオさん。あんた勘違いしてるな」
ヨキノイが苦笑いして目を細める。
「そうか? アリスがもてもてって話だとしか思えねーがな」
「まあそう思うのも仕方ないかな。でも実際のところ念能力者が彼女を好きになるのは難しいんですよ。俺達の動機は好きですと伝えるわけではなく、どちらかといえば"嫌いではありません"と伝えるって感じかな」
正直レオリオには意味が分からない。
ただ一つ分かるのは念能力者であればきっとヨキノイの言い分を理解できるのだろうということだ。それがいっそう彼を苛立たせた。
「ったく念能力者なら念能力者ならってうるせーなぁもう。機会があれば聞いといてやるよ。それでいいだろ」
だからどっかいけよという言葉が無くともヨキノイには通じただろう。だから彼はやはりひどく困ったような顔で笑った。
「そうイライラしない方がいいよ。レオリオさんは大事にされてるさ」
最後にそれだけ言ってヨキノイはその場から去っていった。
その言葉にレオリオは確信する、いや、もうとっくに気づいていたことだった。「まあ気軽にやんなよ」「レオリオなら大丈夫だって」そう言ってエレナがレオリオを励ます時などにアリスの表情が時折曇るのを見ればすぐに分かることである。
間違いなく念の修得方は別にもある。恐らくはより早くより危険のあるものがだ。
エレナは無難に演技をこなしつつも恐らくはレオリオが気づいていることを察しているだろうと彼は思う。あの少女は時々恐ろしくなるほど世界を客観的に見ていることがある。
まるでこの世界の外に自分がいるかのようにだ。
そんな事を考えていたから――
「やほっ、今日も元気に不機嫌ですかな」
唐突に出現した下から見上げる黒い瞳とその声に驚いた。
「うおっ、お前その唐突な出現の仕方は心臓に悪いって言ってるだろうが」
ここは見晴らしのよい更地で、近づく影があれば普通は数十メートルの距離でまず気がつく。
だがこの少女はわざわざレオリオを驚かすためだけに絶と呼ばれる念の技術を用いて気配を絶って近づいていたのである。
ここでもまた念だ。
エレナはレオリオをからかうついでに様子を見に来たのだろうが、彼はもう崖っぷちにいたのだ。
お前が最後に一押ししたのだからお前のせいだからなと、彼女が聞いたら苦笑しそうな思いとともに、レオリオの正直一年踏ん張ったのが信じられないほど脆い堪忍袋の緒が切れた。
「おーい、どしたの?」
体を震わせる彼の様子を不振に思ったのだろう、エレナがそう声をかけた瞬間、がばっとレオリオが顔を起こした。
それに驚いたのかエレナが大きな瞳をさらに丸くする。
「あーもう、やめだやめやめ! もう我慢ならねえっ。おいっエレナ、もっとずばっと纏とやらを覚える方法はあるんだろう?」
両手を広げてエレナを見下ろして訴える。彼女は視線を合わせるように見上げ、表情を消してぼそりと呟いた。
「リスクがある。叩き起こす方法は念能力者から一定以上のオーラの衝撃を受け、全身の精孔を無理やり開くってやり方で、害意の無い相手からではそう高い確率ではないけど、手足が動かなくなったりとか」
「なるほどな、だけどよ俺より後に念を知って俺より先に纏を覚えてるやつの中にいるよな? そっちで覚えたやつ」
そう、レオリオは他の訓練者とはほとんど交流が無いものの、ちらほらとそういう者がいるのは何となく掴んでいた。つまりリスクのある念修得方法についてのノウハウがあるはずなのだ。必ず成功するそれではなく、できるかぎり失敗の確率を減らすノウハウがだ。
「そっちで覚えた人がいるというのはちょっと違うかな。基本的にマフィアの戦闘員としての念修得者の育成はリスキーな方でしかやらないから。ダメだったら手当てを渡すだけみたい」
「使い捨てってわけかやっぱマフィアはやる事がちげーな」
考えたら当然のことだ。エレナの言うように成功率がそう低くないのならば三人を犠牲にして七人の念使いをただちに生み出すという手法の方が年単位で教育した上で十人の念使いをものにするよりも効率的だろう。
ただそこで切り捨てられる者のことを考えてレオリオの心が怯えた。そしてそれを見せたくない虚勢がゆえに目の前の者を攻撃してしまう。
「そうかもね」
そう言ってエレナはレオリオの皮肉に笑った。
彼の心がその顔をみてすっと冷える。彼女がマフィアという巨大なシステムをどうこうできるわけではないと知っている以上、責めるような言い方はフェアではない。
「あー、今のナシな。俺が言いたいのはだ。リスクは覚悟するからそっちでやってくれってこと」
自分ならば大丈夫という確信があるわけではない。だが、早く、とにかく早くという焦りがあった。
エレナの纏う水の衣を見るたびにあれを手に入れたいと内から滲み出る欲があった。子供のころに夢想したような自分だけの必殺技だ。
彼女が操る水の流れはこの一年で見違えるように力強くなっている。そして純粋な体術でもまだまだ劣っているのだ。これ以上引き離されたくはないというのが情けなくもレオリオの本音だった。
「レオリオの体だからレオリオが好きにしていいってわけじゃない。それに私はゆっくり起こす方がいいと思ってる」
「……俺はもう叩き起こす方でやるって決めたんでな。ここでダメだってんなら他を当たる」
「うわー、それって脅迫だよ」
自分でもこれはないなと思った台詞にエレナがわざとらしく腕を曲げたバンザイのポーズをとってみせる。だがこの言い方しか思いつかなかったのだ。最早このまま言い切るしかあるまい。
「うるせー、どっかで俺が変な叩き起こされ方されんのに文句があるならお前がやってくれよ」
どうよ最高にみっともないだろと心中で涙を流しながら胸を張る。
「この恩知らず」
「応」
「卑怯者」
「応」
「意地っ張り」
「応」
「やっぱり落ちは寂しげにバカって言うべき?」
「すまんが良く分からん」
何かのネタだったのだろう、エレナがやれやれと首を振った。そして元の位置に戻った顔にひどく真剣な表情が浮かぶ。
「ねえレオリオ、私は友達としてどこまで許される? 私の主観でそうすべきでは無いと思うことに手を出そうとするあなたを止めるためにどこまでやっていいと思う?」
やられた――レオリオは強くそう思った。
きっとエレナの意思を振り切って叩き起こす方法をやってもらうことは可能だろう。だが例えその方法で問題なく念を修得したとしても失われるものどうやらあったようである。
彼を見上げる黒い瞳の中で自分が格下げされるのを我慢できるか――だがそもそも何故エレナは俺にゆっくり起こさせようとする?
「なあ、何でだ? 何で俺がゆっくり起こすことにそんなに拘る?」
疑問をそのまま口に出してエレナの反応をうかがった。彼女は本当に珍しく罰の悪い表情を見せ、まいったなという具合に苦笑してみせる。
「もしかしたら私やレオリオのお母さんの思い違いかもしれないし、んーレオリオ自身もこっぱずかしいかもしれないけど……聞いとく?」
「……何でオカンが出てくるのかさっぱり分からんがここまで聞いといて引けねーしな」
「そ、んじゃ一言一句再現してご覧にいれましょう」
エレナが握りこぶしを口元にあてて、ウホンッウホンッと喉の調子を整えるマネをし始めるにあたって、レオリオは相当にこっぱずかしい事が彼女の口から飛び出てくるのを覚悟する。
彼女には好きだとか嫌いだとか、思いやりだとか労わりといった感情を言葉にして伝えるのを極端に恥ずかしがる一面があるのをレオリオはこの一年で実感していた。
からかいながら心配し、小馬鹿にしながら手伝うようなところがあるのだ。
彼女の口から出てくる言葉は確かに母親の言葉のコピーなのだろう。しかしそうでもしないと言葉にできない目の前の華奢な少女の気持ちまで乗ってくるのだと思うと正直すでに気恥ずかしかった。
「"あの子は馬鹿な子でね。夢を諦められるほど賢くないんだよ。――だから今はちょっと脇に置いてるみたいだけど、きっとあの子は医者になろうとする。優しい子だからきっと良い医者になると思うよ……"だってさ、なんてーか親ばかだよね。それでほら、何てーかな研究者タイプのお医者さんならともかく手術の数こなすぜって医者の場合手足が不自由とか片目見えませんなんて論外じゃないかなってさ。……まあレオリオが完全に違うところを目指してるってんなら余計なおせっかいだし、そもそも赤の他人の将来を勝手に想定してるのはおこがましいかもしれないけどさっ」
言い切ったぞ、どうだ文句あっかと黒い瞳が見上げてくる。
レオリオはというと、事前に予期した通りに彼女の言葉の前半部分の恥ずかしさに顔を抑え、そして後半部分に妙に苛立っていた。だから何時もどおりにポカリと彼女の頭をはたく。
「ぬおっ、ぶったね! アリスにもぶたれたことあるのに!!」
「えっ、まじでかそいつは驚きだな」
お嬢様命のあのアリスが彼女を叩くところなどレオリオにはとてもじゃないが想像し難い。
「うん。その平坦なキャンバスこの私が盛り上げて見せようって責めたててた時に」
「ok、まずはその話を詳しく……じゃなくてだなっ! 男女間で真の友情が成立するかって長年の命題はともかくとして俺とお前はダチなわけだ。それをお前、どこまでなら許されるとかおこがましいとかいちいち面倒なこと考えんなよ」
心配をかけていた自分が言う台詞では無いかもしれないが、レオリオにとっての彼女はまさしく年の離れた悪友である。
遠慮などする必要はないとこちらに向けられている瞳と視線を向き合わせると、エレナの方が先に目を逸らした。
そして、よし勝ったと思っていたところに再び戻ってきたあちらさんの視線は妙ににやけている。
「じゃあ言わせてもらうけど、ボスの娘ってことでゆっくり起こす方しか許してもらえなかったのにレオリオだけ手っ取り早く済まそう何てダメだかんねっ!」
「おまっ、それが本音か!」
「おうともよっ」
何時もの通りに、ボケと突っ込みのやり取りをしながらレオリオは心中で苦笑いだ。
そんなことを本音だということにされては心配してくれて有難うとは言えなくなってしまう。
「ま、何かいい具合に気も抜けちまったし、またしばらくのんびりやるか」
「そかそか、それじゃご飯にしようよ」
「お、今日は何だ?」
レオリオは高校を卒業して以来、頻繁に夕食の世話をエレナにされているためやり取りに淀みはない。
「今日は餃子ね。後は焼くだけだからそんなにかからないよ」
しかし一点だけ疑問があった。たいしたことではないが、常ならばエレナはアリスとレオリオの前に料理の皿を並べて家族との夕食に顔を出しに行くのである。
しかし、エレナがアリスをハンター試験に半ば強制的に行かせて以降、何故かレオリオと一緒に食事をとっていたのだ。
「そういや最近俺と食ってるが家族と食うんじゃなかったのか?」
「んー、その後家族とも食べてるよ。アリスがいない間に太らないとねー」
「お前間食も割りと摂ってるだろうが、ぜってえここの間で肉ついてるぞ」
実際のところ、多少肉がつくのはむしろ良いことだとレオリオは思う。
正直心配なほどエレナは肉付きが悪いのだ。であった頃からすると十センチばかり縦に伸びたというのに、体重に関しては増加してないのではないかというほど細い手足にドキリとしたものである。
「はっはっはっ、何せ3キロ太れたからね。目指せ後3キロって感じかな」
「ま、そんくらい太って普通かもしれんが行き過ぎるなよ」
「そういや今思い出したけど、お姉さんが"泣きついてきたら金くらい用意してやるのに"って言ってたよ」
「その手の話はもう勘弁してくれ、ってかそれって姉ちゃんの結婚資金だろ? 後が怖すぎるぜ」
そんなやり取りをしながら二人はエレナ邸への帰り道をたどっていく。
この時レオリオは気づけなかった。アリスがいない間に3キロ太れたという言葉の意味について考える機会をエレナの軽口に奪われたのだ。
だがどちらにしろ彼はすぐ気づくことになる。
一目見れば分かることなのだ。
「ねえレオリオはアリスのこと好き?」
「何だ突然? まあ嫌いじゃねーが俺としてはあれだな、もう少し上半身に救いのある女性の方が好みだな」
「でも無いわけじゃないよ?」
「おまえなー、手で形をつくるのはやめろ! 生々しいんだよっ」
時刻は夕方、雲がかかっているせいで綺麗な茜色とはいかないが、これからご飯を食べようというには少しばかり早い時間帯である。
しかし二連ちゃんで夕食を制そうというエレナにとっては丁度いいのだろう。鼻歌混じりで少し前を進む少女の後頭部を眺めながらレオリオは考える。
まずはハンターだ。医者になることを考えるのはそれからでも遅くはないだろう。
それが――憔悴しきったアリスが帰還する一週間前、そしてレオリオがようやく纏を覚える二週間前の出来事であった。