そこはマグチ家の邸宅の一角につくられた屋内プールだった。
レオリオを帰して手早く夕食を済ませたエレナが25メートルプールの中ほどで仰向けに体を浮かせながら漂っている。
娯楽として楽しんでいるというわけではなく、念の修行の一環であった。エレナは水を具現化する念能力者であり、そのためには自身の中に確固とした水のイメージが無ければならない。
7歳になりかけという時期に己が具現化系だと知った時から、彼女はこうやって水と戯れることを自身に課してきた。ひどい時は寝る時も体を水に漬けていたものだ。もっとも、水の具現化に成功して以来過ごす時間については徐々に減らしてきている。
「お嬢様、ただいま戻りました」
プールサイドに一つの影がすっと現れた。レオリオを近くの駅まで送りに行っていたアリスだ。
「大丈夫だった?」
「はい、特別何もありませんでした。なお、念のためにレオリオさんにはお嬢様の能力について口止めさせて頂きました」
分かったと一つ頷いて、水の中で体を起こす。
「晩御飯まだだよね、親子丼でいい?」
そう言ってプールの縁へと体を寄せてプールサイドに上がる。
「は、はい」
従者の方が食事を用意してもらうというのは極めて異例だが、ここでは既に通常のこととして受け入れられている。
元々はエレナが時間の有効活用の一環として料理を始めたのだが、誰がその料理の結果物を処理するのかという問題があったためなのだ。エレナ自身は両親の希望もあり家族と一緒に雇っている料理人の料理を食さなければならないのである。
そこで白羽の矢が立ったのがアリスだったというわけだ。それ以来、長期に渡って餌付けが施された結果アリスは主に料理を作ってもらうことについて葛藤を余り感じなくなっている。
最も今日のように遅くなった場合は別だが、「作る」という前提でエレナがテキパキと動き出したため遠慮するタイミングを失ったようだ。エレナは"元々"そこそこ料理ができたから味だったり栄養だったりには特別問題は無かった。
エレナが料理をしているのは屋敷の調理場では無く、エレナの部屋だ。部屋というよりも彼女が居住するブロックと表現した方がいいかもしれない。
プール横に隣接されたその部分だけで生活が完結するようにと、風呂もキッチンもあるその様子を知ったら、レオリオあたりは「これだからブルジョワは」などと嘆くだろう。
適当に水気を飛ばした水着姿のままで調理する彼女の後ろで、アリスがテーブルに座って待機していた。もう少し姿勢を崩してもいいのにと思わないでも無いが、背後でびしっと気をつけしていた頃からすればまだましと言えるだろう。
「アリスはレオリオのこと嫌い?」
「まだ良く分かりません。ですが初めにお嬢様を助けようとしたところを見ていなければ嫌いと答えたのではないかと思います」
「そ、師匠としていたぶる分には自由だから仲良くやってね」
「はあ」
鶏肉に火が通った頃合を見計らって、溶いた卵をフライパンに投入しながら、エレナは口を閉じて待った。だが、アリスの方から何かを言う気配は無いようだ。
「単なる気まぐれよ」とレオリオと関係を持った言い訳をきっちりばっちり用意しているというのにと心中でぼやきつつ、二個目の溶き卵を投入する。
そこで少し待って火を止め、三つ葉を散らした。後は丼御飯の上に移して完成である。
「お待ちどうさま、そんじゃ私はもうちょっと泳いでくんね」
「はい、ありがとうございます。頂きます」
何時も通りに、何とも幸せそうな顔で一口目を口に運ぶアリスの表情を少し眺めて、エレナはプールへと身を翻す。二つほどドアを潜り抜け、プールサイドから勢いよくエレナが水中へと飛び込んだ。
その次の瞬間からおよそ20秒ほどの間に起きた変化を、見ている人間は一人もいなかったが、例えばレオリオがその様子を視界に収めていても何も気がつかなかっただろう。
エレナの小さい体が飛び込んだだけにも関わらず、そのプールの水かさが1センチほども増していたのである。
ゆらりと、水面から直径20センチほどの水の球が一つ、エレナの傍から浮き上がった。その球は少しずつ上へ上へと持ち上がっていき、4メートルほど先の天井まであと50センチといったところでふっと消えた。
集中して息を止めていたエレナが大きく深呼吸を二、三度繰り返す。
「やっぱ具現化したものを体から離して操作ってのは私にはまだきっついな」
ただのオーラなら天井までは余裕で届くんだけどなと溜息をつく。年齢からすれば優秀どころでは無いとアリスは褒めてくれるが、こんなものではまだまだ足りないのだ。
エレナはこの世界に傷をつけないといけない、なるべく小さくて目立つやつ、そんな矛盾を成り立たせなければ自身が危うい。
しかし今日、偶然にもきっかけを手に入れた。そのことを考えてやや面長の男性の顔を思い浮かべる。彼と、レオリオと並び立ってハンター試験の会場に姿を現すだけでいい、そこにアイツが居るならば必ず気がつくだろう。
そうあるべき光景に混入した異物に意識を向けるはずだ。そう考えると少しだけ気持ちが楽になった。だがレオリオを彼女の都合の良いように利用するのだということに思い至って浮かび上がった気持ちが再び沈む。
レオリオはエレナが彼に見た打算を知りようもなく、彼自身が望むハンター試験の受験会場に共に足を運ぶことによってエレナが得る利益のことなど気にもしないだろう。
だが、だからといって今エレナの胸中に広がる苦味が無くなるわけではなかった。
(いかん。微妙にテンション下がってきた)
いかんいかんと仰向けに浮いた姿勢のまま首だけを振る。自分のことだけを考えろと心の中で強く念じた。そう、他人を慮る余裕などエレナには無いのだ。
――ぐっと強く口を噛み締めたせいで、頬の辺りの肉がわずかに引き攣った。
△
▼
時刻は夕方、レオリオが学校から帰ってきてしばらく経った頃だった。
レオリオが非通知でかかってきた携帯を取ったところ、相手は先日知り合ったばかりのエレナだという。住所はもちろんうっかり電話番号すら伝え忘れていたのに何故かかってくるというのか。
しかも、あと5分もすればレオリオの家に着くとのこと。もしかしたら自分が今確実に家に居ることすら承知の上で訪ねてきているのかもしれない。
そのことにぞっとしつつしばし待つとインターフォンが鳴った。
「やほっ」
五分で着くの宣言どおりに、ドアを開けるとアリスを後ろに控えさせてエレナが立っていた。
「よう、何か個人情報がダダ漏れしてるようなんだが」
「うん、まずはそれを謝りに来たのだよ。レオリオ君、これを見てくれたまえ」
そう言ってバサバサと紙の資料を手渡された。そこにはレオリオの氏名・住所・電話番号は勿論のこと、小等部の卒業文集にレオリオが書いた将来の夢についての作文まで含まれていた。
「ちょっ、おまっっ……こんなとこまで調べたのかよ」
「ごめんなさい。何か父さんの耳に入ってたみたいでさ……何時の間にか調べちゃってて」
レオリオに調査資料を渡した時の軽さをすっかり隠して、エレナが腰を深く折り曲げて謝罪する。後ろで主同様に謝罪の礼をするアリスの姿も含めて、通りに面した一軒家の玄関口では他所の目が気になった。
ひとまず家に上がってもらうことにし、居間に通しておいてレオリオは飲み物を用意に台所との間を往復する。
「ほらよっ。ただの麦茶だけどな」
「ありがとー」
「ありがとうございます」
それぞれお茶を受け取ったのを確認し、レオリオは二人と対面したソファーに身を沈めた。
「で、俺は簀巻きにでもされんのか?」
「故郷の海に沈むってのもロマンだよね」
「コンクリ詰めじゃなければな、ってかとりあえず否定から入ってくれや」
冗談で言っているのは分かるが、マフィアの親分にマークされたという事実は一般市民を自負するレオリオとしては耐え難いプレッシャーである。
「まあレオリオに何か危険がってのは無い無い。ちゃんとそのへんは怒っといたから」
彼女にとっては父親が余計な手を出したというだけなのだろう。片手に麦茶のコップを持ちながら気軽に答えてみせる。しかし親馬鹿なところを感じさせる父親の行動からして、エレナが怒っては逆効果では無かろうか。そう言うとエレナがにんまりと笑った。
「そうだねえ。じゃあ今から家に戻って"私の大切な人に手を出さないでー"ってやってこようか?」
「馬鹿やめろって、で、アリスはどう思うよ実際のところ」
エレナは頼りにならないと判断してアリスへと話を向けた。彼女は最初はエレナがもたれるソファーの後ろに立っていたのだが、今は主の隣に座らされている。
「そうですね、お嬢様の言われる通り問題は無いでしょう。何より念の修行をするのであれば昨日の場所を使うことになりますので、屋敷の内外でお会いになる機会もあるはずです。その際びくびくしていたりすると印象が悪いのではないかと思います」
要はきっと顔合わせしちゃうんでその時は平気な顔してなきゃダメだよということらしい。当然そんなのは無理に決まっている。
彼女らにとっては身内の話なのできっと感覚が麻痺しているに違いない。レオリオはその場で自身の苦悩を受け取ってくれる相手がいないことに溜息をついた。
「ま、その件はもういいよ。用件はそれだけか」
「ん、三日経ったからね、そろそろ落ち着いて考えた上でやるのかやらないのか決まったかなと思ってさ」
何をとは言わない。レオリオの方も問題なく理解していた。念の修行をやるのかやらないのかという問いであり、マフィアの娘と関わるのか関わらないのかという問いでもあった。
きっとエレナは父親が連れ込んだ男の事を調べると分かっていて放置したのではないかという考えがレオリオの頭をよぎる。彼女と関わる怖さを感じさせた上でなお自分のいる方を選べと言っているのではないだろうか?
(考えすぎか? でもまあもう友達になるとは言っちまってるし、ハンターになって金儲けの近道にもなるしな)
まあ明日死ぬというわけでもあるまいと、レオリオは自分に言い聞かせて気分を切り換える。先生役らしき人物も美人だしなとアリスをちらりと見てエレナに視線を戻した。
「やるぜ、念の修行。ってか今更だが誰にでも覚えられるようなもんなのか?」
「覚えるだけなら大丈夫だよ。ただ才能ってか上達の早さは人それぞれだけどね。今からだとハンター試験までにものになるかならないかってくらいかな。私の場合六歳から初めて今で三年ちょいだね」
そうしてエレナは参考になるだろうと念というものの概念と、彼女が念を覚えていった過程を合わせて話し出した。
話を聞く前はエレナのような少女がすでに使いこなしているのだから、意外と早いうちに自分も使えるようになるのかもしれないとレオリオは考えていたのだが、そうでは無いということを思い知らされる。
エレナは自身のオーラを感じ、それを肉体に纏わせる"纏(テン)"という技術を身につけるのに一年はかかったと言った。
「半年を越えた辺りでイライラしちゃって頭のネジが外れたみたいに哲学書読んだり呼吸法とかヨガとか変な方向に走ってたなー」
などと笑顔で話してはいたが、その当時の心境はどうだったのだろうか。十ヶ月を過ぎた辺りで開き直り、淡々と瞑想を繰り返して丁度一年という辺りで纏をものにしたのだと彼女は笑った。
「本来であれば一年は早い方だと言えるのですが、当時のお嬢様を抑えるのは大変でした」
そう口を挟んだアリスの口ぶりに改めて念を覚えるのは並大抵のことでは無いのだと感じる。一年でも早い方ということはレオリオの場合高校卒業してからハンター試験までの期間が勝負だということだ。
「今も大変そうだけどな」
思わずそう口にするとアリスが苦笑いで応える。
「私の我侭に振り回されるのはアリスだけの特権なのだよ、レオリオ君」
「お前が何故いばる」
そんなやり取りをしながらも念についての説明は続いた。念の基本として四大行というのがあり、四大行とはオーラを肉体にとどめる纏(てん)、自分の体から発散されるオーラを絶つ絶(ぜつ)、通常以上のオーラを引き出す練(れん)、自分のオーラを自在に操りそれぞれ固有の能力を駆使する発(はつ)のことであるらしい。
「んで、私の発がこの前見せたやつ」
「なるほどなー。そんじゃ俺が念覚えたからってあれができるわけじゃねーんだな?」
水の流れを纏うエレナの姿を思い浮かべながら確認する。
「そうだね。無理やりそういう能力を覚えることも可能かもしれないけど、自分の適性と合っていなかったらすごく中途半端なものになるから」
「なるほど、じゃあアリスの能力は……ってこういうのは聞かない方がいいんだっけか?」
単純な好奇心から、アリスの能力は何なのだろうと疑問に思ったが、絶対にエレナの能力については口外してくれるなと念を押してきたアリスのことを思い出して語尾があやふやになった。
そのことが滑稽に映ったのだろうか、アリスが口元をほんの少し笑みの形に歪めながら首を振ってみせる。
「本来であればそうなのですが、私の場合はあまり大きな問題にはなりません。単純な肉体の強化が主になりますので」
「要するにパンチやキックがすんごい威力になって肉体の防御力がやたら上がるってわけ」
エレナがパンチを繰り出す身振りとともにそう補足した。思わずアリスの二の腕に目をやる。残念ながらスーツの上着に隠されたそれはどう見ても華奢であるが、この腕と顔で繰り出すパンチがコンクリートをぶち抜いたりしたら俺は泣いてしまうかもしれんとレオリオは思った。
実際のところ、彼女が本気を出せばコンクリートをぶち抜くという程度では済まないことを彼が知る日はそれほど遠くはない。
「大丈夫、アリスの二の腕はちゃんと柔らかいよ」
レオリオの視線の意味まで、どうやら見抜かれていたらしい。エレナがにたにたと笑いながらそう言ってきた。
「おっ、応」
そうか柔らかいのかと、レオリオは割りと本心から安堵しつつそう返したが、怖いのでアリスの方は見ないようにする。どうせこの男はどうしようも無いなといった目で見ているに違いない。
言葉に出してくれればいかに自身が健全にエロいかということを力説することだって出来るのだがと拳を握り締めた。
「で、何時からやるんだ? 念の修行はよ。ここまでの説明は大体分かったぜ」
あ、こいつ話を逸らしやがったといった具合にエレナが目を細めたので、何だよワリーかよと視線で訴えておく。
「じゃ念の修行はやるんだね。まあハンター試験受かったらハンター協会から念を教える先生が押しかけてくるようになってるから早いか遅いかなんだけどね」
「なるほどなー」
ハンターにとってはどうやら念という能力は必須技能のようだ。ここまでのエレナやアリスの言動からしても、どうやら念能力者というのはそこそこに数が多いらしい。
「で、何時から始めるんだ? 卒業までは基本的に夕方からしか無理だけどよ。何なら今日からでも構わないぜ」
自分はきっと修得が早いはずだなどという根拠のない自信はレオリオには無かった。早くても一年というのならなるべく急がなくてはならない。何せハンター試験まではおよそ二年といったところなのだ。
「念の修行ということなら既に始まっているとも言えますね。念の存在を心から信じるというのが第一段階ですから。もっとも、自身の内に眠るオーラを探るうちに疑心暗鬼になると思いますが」
先生役であるらしきアリスが淡々とそう言った。確かにこれから恐らく何ヶ月も何の進歩も感じられないという状況に身を置かなければならないのだ。好きとはとても言いがたい勉学ですらそれに比べれば遥かに容易く達成感を得られるだろう。
「でもまあそういうもんなんだろう?」
「……ええ」
アリスの肯定までの間にほんの僅かに間が空いたが、レオリオは別段不思議にも思わなかった。
「んじゃ今日はレオリオのお母さんへの挨拶があるから明日からだね」
「いや挨拶の必要はねーだろ」
「ありますとも。別に念のことは話さないけどレオリオの家族とも顔を通しておいた方が色々と便利だからね」
分かってないなーと講釈をたれるエレナはてこでも動きそうにない。上手いこと説明してくれよと思いながらレオリオは一つ溜息を吐いた。彼の母親はそろそろパートから帰ってくる頃合である。エレナは最初から顔合わせすることを予定して訪れたに違いない。
「お前なあ、ごめんなさいとか言いながら調査資料すみまで目を通してるだろ」
「私ではなく私の好奇心がいけないのだよレオリオ君」
レオリオの言い分を否定することをせず、エレナは得意気に胸を張った。習慣になりそうだなという確信とともに軽く掌で彼女の頭をはたいてやる。
その後やはり三十分もしないうちに帰宅したレオリオの母親と、それから少し間を空けて帰宅してきたレオリオの姉も交えて夕食を皆で取ることとなった。
先日誘拐されそうになったところを助けられたお礼に来たのだと説明したエレナをどうやらレオリオの母親は気に入ったようで食事の間やたらと話しかけている姿が見られた。
姉の方は最初はアリスと一緒になってレオリオをからかう魂胆だったようだが、アリスの反応があまり芳しくなく、アリス自身をからかう方に大きく舵を切った。こちらの方ではどうやら満足したようだ。
レオリオ自体はというと対自分の女性連合が形成されないことだけをただひたすらに祈っていたという。