直接それを浴びていたのはきっと一瞬に過ぎなかったのだろう、しかしレオリオへの影響は多大だった。喉元が痙攣し呼吸が上手くできない。一度吐いたばかりだというのに何度も胃酸が逆流しそうになるのが分かる。無理やり息を通すかすれた音を聞きながら、心を落ち着けることにレオリオは集中した。
「アリスッ! でてきなさいっ!!」
彼のすぐ隣に座り込み、背中をさすってくれていたエレナがそう叫んだことで状況をつかむ。彼に何かをしたのがエレナの呼ぶアリスであり、今自分がこの程度で済んだのは咄嗟にエレナが彼を守ったからだろう。
視界の端では彼に駆け寄ろうとしたカフェの店員が何故か近づけずに座り込んでしまっているのが見えた。大事になってしまったことに心中で舌打ちしながら、レオリオは近づく気配に顔を上げる。
「こちらです。お嬢様」
ダークスーツ姿の女性がそこに現れていた。レオリオは胸と尻のボリュームが控えめなところ意外は完璧だと思った。
パーフェクトです胸と尻――特に胸以外は、そう思った。
「何この美人さん」
「……」
地面に伏せながら思わず発したその言葉にたいして、胡乱な目つきでエレナが睨んできたことで不味さに気づく。
「レオリオさん。今からあなたへの行為に対して追求しようってところで気が抜けるようなことを言わないで下さいよ。まあ確かにアリスは美人さんですけど」
本当に気が抜けたというように、エレナが目を閉じてため息を吐いてみせる。
一方、アリスと呼ばれた女性の方は、無理をしてまなじりを吊り上げたかのような顔をして床に座り込んだ体勢となったレオリオにつかつかと歩むよってきた。
そしてまだ背中に手を添えているエレナとは逆側に肩膝を立てた姿勢で腰を落とす。
「レオリオさん、でよろしいですか?」
「あ、ああ」
長い栗色の髪が肩からこぼれ落ちるのを、右手で背中に流す何気ない仕種もこれほどの美人がやるとやはり何処か違う気がする。
彼女が腰を落としてレオリオへと顔を近づけたことで妙にドキドキとしつつも己の中の違和感に気づいた。
(何か綺麗すぎてエロさが無えな)
そうなのである。乳を揉みたいという気にあまりならないのだ。
「どうかしましたか?」
「いや、何てーか綺麗すぎて最早嘘っぽいなと」
「そうですか、お褒め頂きありがとうございます。ですが――」
陶器人形めいた容姿と明らかに怒っていながらもそれを抑えた声音から落ち着いた美人さんだという印象を抱いていたレオリオだったが、よりいっそう顔を突きつけられ、胸倉を掴まれた次の瞬間には無残にもそのイメージは崩れ落ちていた。
「どうしてお嬢様とお友達になっては下さらないのですか? エレナ様は見た目通りとは言いませんがそれなりに可愛らしいお方です。確かに歳に不相応な言動を取られることが多くありますので同年代の方とは馬が合われないかもしれません。ですが、あなたの年齢であれば問題ないでしょう? それに普段の落ち着かれたご様子があればこそ、年齢相応の幼い振る舞いを見せた時にこうぐっと来るものがあるのです。一体何がダメなのですか? 初めてのお小遣いをジャポン製高級炊飯器に注ぎ込んでしまうような奇矯なところですか? 良いではないですかっ! この間などようやく届いたなどと言いながらとても幸せそうなお顔で鮭のフリカケをかけておいででした。私などその表情を拝見しただけでこう日々の疲れがぐわっと飛んでいくような心地になったものです。それに――」
これがまあ、レオリオの辞書のアリスの項に"エレナ命"との内容が刻まれるきっかけとなった発端である。
エレナと友達になる代わりに何やら妙な力を教わるという条件を蹴っただけであんな目に合わされたのかよと理不尽な思いが湧き上がるが、視界の端で正直すまんかったとばかりに手を合わせるエレナの姿に一つ息をついた。
まあ自分がちょいとばかし格好をつけようとしてこうなってしまったという一面もある。ひとまず誤解を解くべきだと判断して、まだ捲くし立てているアリスと呼ばれた女性の右手首、レオリオの胸倉を掴んでいるそれを左手でそっと掴んだ。
「アリスさん、でいいか? まあ軽い誤解だと思うからよ。とりあえず説明させてくれ?」
「アリスッ、とりあえず手を離しなさい」
レオリオの言葉に更に怒気を強めようとしていた女性は、続くエレナの言葉にわずかに表情を歪ますと無造作に胸倉を掴んでいた手を離した。
「ふう、何かもう今日はろくな目に合わねーなおい。友達になることを蹴ったわけじゃねえよ。単に交換条件で友達になるってのを断っただけだ」
「ああ、なるほど」
どうやら納得の言ったらしいエレナをよそにアリスは目を白黒とさせている。
「どういうことです?」
「アリスが後ちょっと我慢してれば多分何も問題なかったってこと」
「ええっ」
レオリオ女人鑑定団の歴史上において、空前の高値を付けた顔にはっきりと"ガガーーン"という擬音語が張り付いたのを観たレオリオは何やら崩してはならないものを崩してしまったような気がするのと同時に、背筋がぞくぞくするような快感を得た。
「交換条件で友達ってのも味気ないからな。友達になるのは問題ないから他に条件出せって話をしようと思ったんだよったく」
そう言いながらジト目をアリスに向ける。
彼の横でエレナも同じことをしているわけだが、無論アリスをとがめているわけではない。救いを求めるようにエレナとレオリオへと交互に視線をやるアリスの反応を楽しんでいるだけである。
「でもレオリオさん。友達になってもいいって思ったのは私の連れにゲロを吐かされる前の話ですよね?」
エレナが澄ました顔でレオリオを見上げてそう言った。黒髪の少女のえげつなさに一瞬動揺を覚えたが、確かにゲロを吐かされたのも事実だ。
「ああ、まあそうだな。確かにゲロを吐かされる前のっっとぉ」
アリスが両腕でレオリオの右手にすがってきたことでレオリオは慌てた。およそ百七十センチほどと思えるアリスがそうすると驚くほど顔が近くなる。
「そのっ、レオリオさん。私がいたらないばかりに不快な思いをさせてしまいまして申し訳ありません。その責めは私が負いますから、ここは一つ断崖絶壁から飛び降りる覚悟でお嬢様のお友達となって頂けませんでしょうか」
何やら彼女のご主人へのものの言い様には少々妙に思うところが無いではないが、その時のレオリオは全く頭が回らなかった。
右腕に伝わるアリスの体温と、これがフェロモンというやつかーーっといった感じの甘い匂いに頭が痺れて動かなくなっていたのである。
「あっ、ああ」
思わずこぼした肯定の言葉にアリスの瞳が輝くのを見てまあいいかと思う。どちらにせよその件については断るつもりは無く、ただ目の前の女性をからかっていただけなのだ。
「本当ですかっ!? ありがとうございます」
「あっ、ああ」
レオリオから両腕を離し、アリスがお辞儀をした。離れた身体を残念に思いながら、オウムのように同じ言葉を繰り返す自分の姿は滑稽に見えているのだろうなと思う。
ほとんど彼女がイメージした通りに事が進んだのだろう、床に座り込んでテーブルの縁をぎゅっと掴みながら笑いをこらえているエレナに目を向けるとぷっと笑いつつ顔をそらされた。
頭をはたいてやろうかと思ったが随分と年下の女の子だということを考慮して止めておく。
「とりあえず場所を変えよっか、アリス、車の手配をお願い」
「はい」
確かにこのまま何食わぬ顔で店内に居座ることは難しい。場所を移動するのはレオリオも賛成だが、車を手配とはなかなかのお嬢様っぷりである。
やはりというべきか、アリスが携帯を操作して数分後、黒塗りの高級車がお出ましになった。一体これ一台で幾らなのかと考えてしまう自分を浅ましいとは思うが一般人としては仕方無いだろう。
ましてやレオリオは人一倍金銭への執着が強い方であった。先に乗り込んだエレナに向ける視線に羨望の色などが混じっていやしないかと不安になって首を振る。
「どうかした?」
「いや、何でもねえ」
アリスが最後に乗り込むため、レオリオの位置は後部座席の真ん中だ。左を向くと目のあったアリスが柔らかく微笑んだのでにへらっと笑い返しておいた。
右側ではレオリオの舞い上がる様にエレナがニヤニヤしている。
「ところでこれ何処に向かってるんだ?」
場所を移すことには同意したが良く考えると何所にとは聞いていない。
「んー、私ん家だよ。広いから念を見せるのにも丁度いいし」
友達になるという点で同意を得たと思っているのだろう、先ほどからエレナはレオリオに対して敬語を使っていない。
「念?」
聞きなれない単語に思わず問い返す。
「超能力のことね」
「なるほど」
どうやら超能力とは何かについて教えてくれるということらしい。
「そういやその教えてくれる条件ってのはどうするんだ?」
「そりゃあほら、友達だから無料ってことで」
両手を指先で軽く合わせながら、そう言ってにこやかに笑うエレナは至極単純に愛らしい。
だが出会った時からの彼女の言動からすると油断ならない気もした。
「お前のタダって妙に怖い気がするのは気のせいか?」
「ほほーーっ、レオリオ君はなかなか言いますなー。まあさっきからのアリスほどじゃないけど」
右手をアゴに添えて目をつむりつつ、うんうんとわざとらしくエレナが頷いてみせる。
一方アリスの方はどうやら分かってないらしい、自分が何かしただろうかと不安に思ったようでエレナとレオリオの間で視線をさまよわせていた。
レオリオは胸中ですまんと手を合わせる。
「私と友達になるのに断崖絶壁から飛び降りる覚悟でってのはともかくっ!? ジャポン製の炊飯器はやはり違いますねーとか言いながらカツ丼食べてた口から、お小遣いで炊飯器買うなんて頭がおかしいとしか思えないとかいう言葉が飛び出るなんてエレナさん大ショックですよ」
「お、お嬢様、あれはですね言葉のアヤと言いますかその場の勢いといいますか――とにかくお嬢様がお気になさるようなことでは……」
「言い訳は聞きたくありませーーーん。これだから短粒米の偉大さについて無知蒙昧な輩は困るんだよね。大体お米には全世界で一千ほどの種類があることを知ってる? 粒の大きさ長さや――」
おろおろと対応するアリスに対して、エレナは米の薀蓄や短粒米の偉大さについて語りだした。神妙な面持ちで主の言葉を受けているアリスには悪いものの変な光景だとしか思えない。
自分には全く関係ないが、レオリオを間に挟んでいるため完全に無視するのも難しい。そんな状態で三分ほど時は過ぎたが、突然レオリオも会話に巻き込まれることとなった。
「ま、お米の偉大さとそれを引き出す炊飯器の性能の重要性については冷汁あたりから叩き込むとして、とりあえずは罰が必要ねっ」
「ど、どのようなものでしょうか?」
おずおずと尋ねたアリスに対して、エレナが目を一度レオリオへとやってからニヤリと笑った。
「レオリオッ! アリスの乳首の色教えたげるから耳貸して」
「「なっ!!」」
左隣で完全に固まったアリスに対し、右隣ではエレナが笑いながら早く身体をこっちに傾けて耳を貸せと手招きしている。
「おいおい、その辺でやめといてやれよ」
レオリオは頬が紅潮していなければいいがと思いつつそう口に出した。先ほどはエロさを感じないと思ったアリスだが、意外にもくるくると変わる表情を見てしまうと無機質な印象が取れて随分と魅力的に見えてくる。
「まあまあ、後は仕上げの一言だけだからさ」
「お、お嬢様」
「大丈夫、色じゃないから。私が言いたいのは今レオリオの頭の中でアリスが裸になったよね? ってことだから」
そう言ってエレナは楽しそうにレオリオとアリスを見やる。自分には被害は及ばないと考えていたのはどうやら非常に甘かったようだ。
「おっ、おめーなー」
残念ながら否定できないところが悲しい。
だがしかし一番問題なのは左隣の女性の対応である。顔をレオリオとは逆側の窓へと逸らすのはともかく胸元を隠すように自身の両腕でぎゅっと覆うのはいただけない。
その姿を見ていてはいけないような気がしてレオリオが逆側を注視すると、そこではエレナが口元を右手で覆いつつ、「うわーっ、やっぱ反則的な可愛さだわ」などと呟いているのが聞こえた。
今度こそ構うまいと両頬を紅潮させているその人物の頭を軽くはたいてやる。
「まあまあ、性質の悪い冗談だよ。我慢我慢」
「できるかっ!」
痛くは無いだろう額を押さえながら冗談を言うエレナに溜息を一つ吐いた。確かに断崖絶壁から飛び降りる覚悟が必要だったかもしれんと今更ながらに思う。
しかし、アリスの言う断崖絶壁から飛び降りる覚悟というのは、エレナの人柄についてとはまるで関係が無かったのである。
「ねえレオリオ」
「何だ?」
真面目な顔でレオリオを見上げたエレナに、嫌な予感を覚えつつ先を促す。
「私はちゃーーんとフルネームを名乗りましたからね」
そう言ってぎゅっと手をつないだエレナの心情はレオリオにはさっぱり分からなかった。別に無理に振りほどくことも無いとそのままにしておく。
まさか逃がさないための用心でエレナがそうしたのだとは彼女の屋敷を目にするまで全く分からなかった。
彼女のファミリーネームはマグチ、マグチファミリーと言えば十老頭とまではいかぬものの、世界でもなかなかに高名なマフィアである。