水の跳ねる音によって、エレナの意識は目覚めた。ひどく重いまぶたを持ち上げると、闇の中に岩でできたつららが幾筋も連なっているのが見えた。鍾乳洞が存在することからこの辺りは石灰岩地帯なのかとまだ覚醒しきらない頭で雑学を思い返していると、うっすらと明るい方、つまりは出口に近いところから声が掛けられる。
「気が付いたかい?」
「あ、マチさん」
手頃な大きさの岩の上に座っていたマチの姿を見つけて自分がひどくほっとしているのに驚いた。しかし、そもそも自分は何故こんなところで寝こけていたのだろうか? そう疑問に思った瞬間に思い出して、エレナは右手をバネのように使って飛び起きた。
(そうだっ、私ヒソカに襲われて右手を――って)
今確か何の違和感もなく右手を使って飛び起きなかっただろうかと、エレナは恐る恐る自分の目の前に右手を掲げて見た。
「あ、あるっ。って、うわっ何か綺麗に一本線が入ってるよ!? 怖いっこの縦線怖すぎる」
そこには確かにエレナの右腕があった。しかし彼女の言葉どおり、肘のやや上辺りに綺麗に縦の一本線が入っておりその尋常ならぬ様に彼女はぞっとした。
「二日は無茶な動かし方するんじゃないよ」
エレナの混乱の仕方が面白かったのだろうか、ほんの少しだけ口元を綻ばせてマチがそう言った。その言葉で、エレナはマチの念能力によって重要な神経や血管を"縫合"されたのだということにようやく気付く。
「ありがとうございますっ。マチさんですよね、治してくれたの」
「礼はいらないよ、お代ならヒソカにもらってるしね」
マチの発言にエレナは驚いた。いったいどうしてそんなことになっているのだろう。自分が気を失ってしまった後に何があったというのか――
「えっ、どうしてそんな流れというか、私が気を失った後どうなったんですか?」
「様子見に出た私が着いた時にはもうアンタを放り出したヒソカが移動しようとしてたからねえ。ま、何か興醒めしたらしいよ。後から楽しめるかもしれないから数千万で済むなら払うから治しといてってさ」
恐らくエレナが気絶したのは、ヒソカの差し出す彼女の右腕を残った左腕で掴んだ直後だろう。その感触だけはエレナは確かに今も覚えていた。ヒソカは右腕を贄とした水人形と戦いたかったのだろうから、いよいよというところで気を失ったエレナに拍子抜けしてしまったということは考えられる。
エレナは左腕で右腕の切られた辺りを掴んで震えた。彼女が狙われたのはヒソカの欲情を抑えるのに丁度良い、手頃な強さの念能力者だったからだ。ゴンのように成長を待って戦いたいほどの大器を感じさせず、しかしある程度の歯応えを持っていたエレナは今喰い散らかすのにまさに打ってつけだったからだ。
思っていたよりは面白く、なおかつ中途半端な終わり方をしたから五体満足で生かせるなら生かしておこう。出血多量か何かで死ぬなら死ぬで別にいい、という判断のもとにエレナは今鍾乳洞の暗がりの中に立っているのだった。
これほどの屈辱をエレナは知らない。最初から最後まで、ヒソカの手前勝手な判断基準で死を定められ、生を与えられた。そして何よりも悔しいのは、絶対に許さないと、復讐してやろうだなんて気持ちが微塵も湧いてこないことだ。もし次にあの男と正対することがあれば自分はただ恐怖に震えるだけだろうということが分かるのが何よりも悔しかった。
右腕を切り落とされた痛みの中で、「絶対に殺してやる」と喚いていた時の自分を取り戻したいという強い気持ちと、あのような変態ピエロに惑わされる必要は無く、今回のことは天災にあったとでも思って忘れるべきだと思う気持ちとでエレナの心は乱されていた。
「マチさん」
単純に興味が無いのか、黙ってエレナの葛藤の邪魔をしないでいてくれたのか、ずっと所定の場所で静かに座っていたマチに声をかける。
「なんだい?」
「少し時間はかかると思うんですが、この腕の代金私が自分で払います」
そう、自分の右腕がヒソカの金でくっついている、そんな事実はとてもじゃないが受け入れられない。細かい説明は無くともエレナの心情は伝わったようだ。
「そうかい、でも私は後日払いは嫌いなんだ。だからすぐ払えるもので払ってもらう」
エレナの発言から今すぐ動かせるお金は無いことはマチも理解しているだろう。では何を払えと言っているのか? エレナは少し考えても分からなかった。無理もないことだが、彼女はすっかり今が四次試験の真っ最中だということを頭から飛ばしていたのである。
「アンタ何だよね。私のターゲット」
「……あー、そういえば今試験中でしたっけ、分かりました。あれは初日に隠してあるんでそれが無事ならお渡しします。って今何日目ですかね?」
初日にターゲットを倒して獲得したプレートと合わせ、エレナのプレートはとある岩壁の中に隠していた。それは入り口が丁度プレートの幅くらいしかない穴の中であり、エレナは具現化した円の効果を持つ水流で中を探査した上で常人では絶対に届かない七・八メートルは奥の場所にプレートを配置している。動物や虫への対策として上に重さ数キロの石も乗せているのでまず大丈夫だろう。
しかし自分のプレートを渡してしまえばエレナの持ち点は3点のみ、期日までにもう3点集めなければならなくなるのだ。
「まだ三日目の朝だね。ま、日は昇ったしもう少ししたらプレートの場所に案内してもらうよ。あと、もう遅いかもしれないけど、これはサービスだ」
マチが投げてよこした布製の袋を開く、そこに入っていた生理用品一式をみて歓声をあげた。そういえば自分が生理だったと思い出すと、途端に股の間が気持ち悪くなってくる。何の対処もしてないジーパンの下はえらいことになっているだろう。
「ありがとうございます」
「使い方は分かる?」
初潮ではないかと思っているのだろう、実際今のエレナの体ではその通りなのだが、彼女にはそれ以前の経験があった。
「はい、大丈夫です」
そう答えるとマチが怪訝そうな顔をした。初めてでないのであれば自身で用意しておくべき物なのだから当然だろう。しかしマチは常の無表情を取り戻すとそれ以上踏み入った質問はしてこない。
「それじゃプレートのところまで行きましょうか、あんまりマチさんにご面倒かけるのもあれですから」
「まあそう急ぐこともないさ。お釣りとして食べものと水くらいなら提供できるよ」
まだ立ち上がる必要は無いだろうと、マチは腰を岩の上に落としたままそう言った。ずっと気を失っていたのだから当然だが、一日何も食べていないことに気付いてエレナは空腹を自覚した。
「すみません、いただきます」
「了解」
その後、二人は適当に腹ごしらえを済ませてプレートの隠し場所に向かった。無事隠し場所に存在した二枚のプレートのうち、エレナのナンバー「406」が記されているものをマチに渡す。するとマチが「千万だ」などと言いながら彼女の荷物の中から「362」と記されたナンバープレートを取り出してきた。後日払いは嫌いだと言っていたマチだが、頭金として五百万をまず払うことで残りの五百については構わないという条件を呑んでくれたため、エレナは「362」のプレートを手にすることに成功した。
「それじゃ私は行くよ。さっきも言ったけど二日くらいは無茶な使い方するんじゃないよ」
「はい、ありがとうございました。気をつけます」
ナプキンを投げてよこした時のあなたは女神のようでしたよ、という言葉は下品かもしれないと胸に呑み込み、エレナはマチを見送った。彼女の気配が去って数分の後、エレナは川を目指して行動を開始する。体調は無論ベストには程遠いが、昨日ほどに悪いということもない。
迷うこともなく川原に到着したエレナは、プレートの隠し場所の近くに隠していたリュックからブカブカのTシャツを取り出し、昨日から来ていたピチッと身体にフィットするタイプのTシャツの上からかぶった。そして靴とジーパンを脱ぐと遠慮なく川の中へと足を踏み込む。
そう進むこともなく膝下くらいの深さとなったところで躊躇なく下着を脱ぐとそのまま流れの中に座り込んだ。べったりと血のついた跡を確認したあと水の中で適当に手洗いする。そうしているうちに込み上げてきたのは、涙とそして笑いの衝動だった。目尻から涙を流しながら、くふっ、くふっと笑いの衝動を堪える自分の姿は、周りから見たらさぞかし不気味だろうなと考えてしまったところでもう駄目だった。
ゲラゲラと馬鹿みたいに笑いながら流れる水面を左手でバンバンと叩いて飛沫を上げる。可笑しくて可笑しくて仕方が無かった。つい最近マツリカに語った言葉を思い浮かべる。確か――この世界で生きているという確信が持てない、何時までもふわふわと夢を見ているような気がするといったことを自分が言っていたなとエレナは思い出して、また衝動のままに彼女は笑った。
何をバカなことを自分は言っていたのだろうと思わずにはいられなかった。今ここに生きているという強い実感が彼女を支配していたのだ。昨日死んだと思った、しかし今日まだ生きている。エレナは水の中に倒れこんだ、そして両腕でぎゅっと自分自身の体を抱くと、水の冷たさからか体が僅かに震えた。震える命の宿っている自分の体がいとおしくて仕方が無かった。
仰向けでも水面より上に顔を出せる高さの適当な岩を見つけ、それを枕のようにして体勢を固定する。そして右手に掴んでいた下着を改めて両腕で天に突き上げた。ココア色とでも言うべきだろうか、そこには赤黒い染みが残ってしまっている。それを見てエレナはぐふふと笑った。
(生めちゃうんだもんなあ――。生きてるよなあ、私)
誰かが証明してくれたわけではない、自分の中で納得できる理屈が組みあがったわけでもなかった。しかし――、子供が生めてしまうのだという事実が、何よりも強く今ここでエレナが生きているということを感じさせていたのだ。
私はエレナ・マグチなんだぞと、ほとんど大声で叫びそうだった。ここに生きているんだと世界中の皆に聞いてもらいたい何て考えてすぐに、大抵の人はそんなことに興味は無いだろうなと思うとまた笑いの衝動が襲ってきた。
これが、エレナがエレナであることを完全に受け入れた瞬間である。彼女は、このことを絶対に許すことのできない人物がいることなど知るはずもなかった。
そうやって、しばらく水の中で一人戯れていたエレナは心が落ち着くのを待って立ち上がった。彼女は途中から自分を観察する視線に気付いてはいたが、自分の気持ちのままに振舞うことを優先して後回しにしていたのである。開けた川原で狂人めいた行動を公開していたのは彼女自身だが、やはり乙女の秘め事を覗き見というのはいけないに決まっているのだ。
「キルアー、出てきなさいよ」
水を含んで身体に纏わりつくTシャツを気にしながらエレナは林の中に向かってそう声を張った。下ははいていないものの、膝上までTシャツがきているし、身体の線は丸見えだがエレナの価値基準からすると尻も胸もまだ薄すぎて性的に問題があるとは思っていなかった。
「何時からバレてた」
だが同年代の少年には多少の刺激になっているらしい、目の前に現れた少年の顔が真っ赤なのを見て、ついついエレナは下品な笑みを浮かべてしまう。
「ん、ワリと前からかな。ちょっと自分のことで精一杯でさ、放っておいたんだよ。ゴメンね。あとそこのリュックにタオル入ってるから取ってくれない」
キルアにタオルを取ってもらい礼を言ったところで、このままキルアの前で着替えるわけにもいかないことに気付く。ひとまず髪を拭きながら川原に上がると、キルアが何故かまじまじと彼女を見つめていて目が合ってしまう。
「どしたの?」
「いや、髪どうしたんだよ」
「あ、あーー、そういや鏡も見てないや。んー、ちょっと待ってね着替えてから説明するから」
今の今まで自分で切ったことすら忘れていたことに気付いて、着替えの下着やデニムのショートパンツの他に手鏡も取り出す。この場で髪の処置ができるわけでもないが、どういう結果になっているのかを確認したかった。
「じゃ、先にシャワー浴びてくるね」
「おうっ、……ってええっ!?」
口から出任せの冗談にキルアが反応するのを背で聞きながら、エレナはすぐ近くの茂みで体を拭いてから着替えた。実のところ、受験者一人一人に付いているらしいハンター試験の観察官など、まだ周囲に潜んでいる者もいるのだがいちいちそれらの視線にまで気をつけていられない。その辺は各自の良識に期待したいところだ。
着替えて戻るとキルアが川原の岩に腰掛けて待っていた。脚が乾いたのを見て足裏を適当に叩き、黒のニーソックスを取り出してはく。若干の寒さがまだ残ったので上から薄めのスウェットシャツを羽織ってからキルアの隣に座った。
「髪はね、ちょっとターゲットとの小競り合いの最中にミスっちゃったんだ」
「ふーん、じゃあもう6点揃ったのか」
キルアの中でエレナの実力を彼より上と見積もっているのか下と見てとっているのかは分からないが、恐らくそこそこに高い評価は得ているはずである。髪は切られているものの、エレナが負けたとは考えていないことが伝わってきた。
「いやそれがさ、マチさんのターゲットが私だったもんで、敵わないし……譲っちゃった。その代わり一枚マチさんが要らなかったやつ貰ったから今4点だね」
「あーあの人な。完全にヒソカ並だしなー。まあマツリカもだけどさ――まいったよ、ウチの家族連中以外にはそうそう負けないと思ってたのにさ。ま、それは今はいいや。話は変わるんだけど、ゴンとかあとレオリオとか間が抜けてそうだし必要かなと思って……」
不自然なところで口を閉じてしまったキルアにエレナが首を傾げて見せると彼は妙に狼狽して言葉が続いてこないようだ。なお、原作ではレオリオの名前をなかなか覚えなかったキルアがすんなり彼の正しい名を口にしているのには無論理由がある。
その原因であるエレナが口を挟まずにのんびり待っていると、意を決したのかキルアがごそごそとポケットから2枚のプレートを出してきた。
「何か三兄弟なやつらいただろ、俺のターゲットその中の一人だったから全部貰ってきたんだ」
要するに余ったプレートを点数の足りていない仲間に分けようと考えたということらしい。エレナは、キルアが言い渋ったのは実力でクリアしたいと考えている相手ならプライドを傷つけられるかもしれないと配慮したのかなと思った。
「あー、いたいた。ちなみに私はくれるものは有り難ーく頂きますよ。でもまあ後顧の憂いは絶った方が良くない?」
キルアを追跡し、今も監視している受験者の存在についてエレナはほのめかした。彼ならば恐らく二者のうちの片方には気付いているはずだ。
「だなー。最初は三兄弟だけかと思ってたんだけど、そいつらいなくなったらもう一人いたんだよね」
「強そうだし、戦うの面倒だから三人で一枚狩る方針でいい?」
「ん、任せる」
やはりキルアは念能力者ではない方の尾行には気付いていたようだ。任せるという言質を得たエレナは腰を下ろしていた岩から立ち上がると、森に向けて声を張った。
「というわけでハンゾーさーん。交渉しませんかー」
そう言って数秒待つと、林の中からエレナたちの立つ川原へと忍装束の男が降りたった。尾行がバれていることはともかくとして、正体まで見破られているとは思っていなかったのだろう、その表情には素直な驚きが現れていた。今のエレナでは念抜きでは絶対に勝ち目のない存在のその男に、エレナは「ゴメンナサイ」と呟きながら飛び掛る。
ハンゾーは一瞬驚きながらも、エレナの左足のローキックに対して冷静に距離を取って対処しようとした。飛び出てきた林の方へと跳躍し、エレナと正対しようとするハンゾーをエレナは追わなかった。その後方では思わぬ展開にキルアが驚きながらも、こうなっては戦うしかないとタイミングを窺っている。
だがキルアの出る幕はないことをエレナは知っていた。先ほど茂みの影で着替えていた時、丁度スッポンポンになっていたエレナの前に姿を現したマツリカが今度はエレナに注意を向けているハンゾーの真後ろに現れたのだ。
直前まで絶を使って待機していたマツリカは、そのままハンゾーに反応することすら許さず彼の意識を絶った。地面へと崩れ落ちるハンゾーの体を支えてゆっくりと横たわらせると、その懐を漁って「294」のナンバープレートを取り出す。それがマツリカのターゲットナンバーなのである。
エレナは後ろで唖然としていたキルアに振返って笑顔を向けた。
「それでキルア、その余ったやつはもらえるの? それとも見せびらかしに来ただけかな?」
「んなわけねーだろ、やるよやるやる」
「ありがとう。お礼はまた今度するから期待しててね。あ、ちょっとマツリカ、手足しばるとか何かしようよ」
マツリカは気絶したハンゾーからすでに興味をなくしたらしくこちらに来ようとしていたので、エレナは彼女にそう言葉をかけて自らも手伝おうと近づいていった。忍である彼にどの程度効果があるのかは分からないが、手足を動かせないようにしばって地面に転がして一息つく。
どこと無く不貞腐れた様子のキルアが2枚のプレートを投げてよこしたのをキャッチしてエレナはそれをショートパンツの後ろのポケットにしまった。
「ほら、三人で一枚狩るってのは何もウソじゃなかったじゃない?」
「うっせーよ」
「あはは、ごめんって。さっきも言ったけどちゃんとお礼はするからさ」
だから機嫌を直してねと顔を覗きこもうとしたエレナだったが、ついとキルアに顔を逸らされてしまった。あらまあとマツリカに顔を向けると何故だかこちらもあまり景気が良さそうではない。
「何かエレナ上機嫌だね」
「うん、何ていうかこう、私はエレナ・マグチ何だぞーーって気分で一杯でさ」
キルアにはきっと分からない。マツリカだけに向けた言葉をエレナは告げた。この世界で、エレナ・マグチとして歩んでいくことをやっと真正面から受け入れることができたことを彼女に知ってもらいたかった。以前の世界で積み上げたもの全てを忘れたわけではないけれど、この世界で地に足をつけてやっていくんだと思えるようになったことを褒めてもらいたかったのだ。
「だからさ、私のことはこれからちゃんとエレナって呼んで……えっ?」
エレナは言葉を最後まで結ぶことができなかった。突如としてマツリカを中心にオーラが吹き荒れたのだ。今のエレナでは到底生み出すことのできないほどの量と密度を持ったマツリカのオーラがその激情を表すかのように噴出していた。
すぐ後ろで何かが倒れたような音がして、振返ったエレナの目にキルアが倒れている様が映った。
「キルアッ!」
慌ててかけより自らのオーラで包むようにしてみたものの、これでマツリカのオーラの影響から十分に守っていることになるのかは分からない。
「マツリカッ! どうしたの、早くオーラを収めて!?」
状況から言って自分の言葉が現状を引き起こしていることは間違いない。しかし何故こうなってしまっているのかという理由はエレナには全く見当がつかなかった。この世界でエレナとして生きていく決心がついたという報告をしただけなのだ。エレナの中では前向きに出した喜ばしいはずのその決意が、マツリカにとって受け入れられないことだったというのだろうか。
「――さない。絶対に許さないっ!?」
マツリカから伝わるのが純粋に言葉だけだったならば、エレナは「何言ってるんだろうこの子」となって終わりだったかもしれない。しかし今にもエレナのオーラのガードを超えて突き刺さってきそうなほどに勢いを増したマツリカの威勢を前にエレナは動くことができなかった。
頭を働かせようとしても、目の前のマツリカの鬼気は本能的な恐怖を呼び起こすほどであり、何かを考えるというよりは目の前の彼女の一挙一動に合わせて逃げるもしくは抗う準備に自然と集中してしまって上手く考えることができない。
どれほどの時間キルアを抱えた低い姿勢のまま、マツリカを見上げていたのかは分からなかった。突然ふっとオーラを鎮めたマツリカは、黙り込んだままゆっくりと歩いて林の中へ去ってしまう。マツリカが背を向ける最後の瞬間まで、彼女の表情を観察していたエレナはほんの僅かな一瞬、マツリカがひどく寂しそうな表情をするのをはっきりと見た。
「まいったねこりゃ」
ひとまず去った危機に、キルアが楽になるよう姿勢を整えながらエレナがそう呟く。協力してくれないという事態はともかく、敵対される可能性は全くもって想定していなかった。
また、キルアは彼を地に伏せたオーラのプレッシャーの正体を知りたいと思うだろう。そしてゴンにも昨日エレナが念能力を使うところを見られてしまっている。彼らの何としても知りたいという欲求が自分に向かってくるのは正直勘弁してもらいたいところだ。
無性にアリスかレオリオの顔が見たくなって、キルアが目を覚ましたらレオリオとの合流を試みようと心に決める。そして膝の上に乗せたキルアの表情を確認しようと視線を落としたそこには――
目を限界まで見開いたキルアの驚愕の表情があった。
彼の視線はエレナの頭を通り越したその先に向けられていたのだが、エレナにはそのことに気付くだけの時間は与えられなかった。
「えっ?」
次の瞬間エレナのこめかみのやや上辺りから侵入した一本の針が、頭蓋をやすやすと貫いて脳へと届いたのだ。気を失ったエレナの眼球がぐるんと裏返り、続いて彼女は座りこんだ姿勢から地面へと崩れ落ちた。
エレナの一回目のハンター試験はこうして幕を閉じることとなる。