エレナはキルアに手を払われて陥った一瞬の自失から立ち直ってすぐに、キルアを追った。そして一つ目のカドを曲がったその先の十字路の左手奥から、姿は見えないものの男の声が届く。
「いてーな。ったくガキがうろついてんじゃねえよ」
その声は、既にキルアと彼に殺されるはずの受験者が接触している事実を示していた。
しかし彼我の距離はもう十メートルも無い。このまま飛び込めば間に合うかもしれない。焦る気持ちのままにエレナは速度を振り絞ろうとする。
けれどもし間に合わなかったら?
十字路の向こうに広がる無残な光景を幻視して、エレナの足がわずかに竦んだ。その一瞬の躊躇いによって、彼女は決定的に間に合わなくなったことをその瞬間に悟ってしまう。そこからの数秒は彼女にとってこれまでに無いほど長い一時だった。だめだったという思いから、十字路を曲がるその手前で完全に足が止まってしまった。もうキルアの腕は受験者たちの身体を引き裂いてしまっているだろうか、それともまだその身体操作によって鋭くされた彼の爪がようやく届いたところか。
ここからエレナが一歩踏み出して十字路の左手を覗いたならば、見えるのは素手によって成されたとは思えないほどに鮮やかに切断されたバラバラ死体で、キルアは肝心なところで足を止めてしまった彼女を笑うだろうか?
それとも、彼の気配が完全に消え去るまで自分はここから一歩も動けないのかもしれない。
「痛ってえええええっ!!」
「――えっ?」
想像もしなかった悲鳴に、エレナの口からこぼれるように空気が漏れた。驚きのままに十字路に飛び込むと彼女の想像とは違った光景が目の前に広がる。腹の辺りを抉られたのだろう、キルアに近い側にいた男が座りこんで脇腹を押さえていた。抑えた手の下からはまだ血が流れ出ている。だが、致命傷ということは無さそうだ。
「大丈夫ですか? 早く医務室に」
顔色を変えて咄嗟に怪我をした男の傍にしゃがみ込もうとしたエレナを、その男自身が必死の形相で払った。彼の意思を理解したのだろう、相方の男が怒鳴る。
「さわんじゃねえよっ。こいつは俺が医務室に連れて行く。お前らはこれ以上近寄るなっ」
どうやらエレナは年齢から完全にキルアのお仲間だと思われて警戒されたらしい。仕方なく彼女が立ち尽くすと、無事だった男が言葉通り、同じくらいの体格の相方を重そうに抱き上げてその場を去った。そうしてようやくキルアがぼそりと呟く。
「お前ってさ、赤の他人が死ぬのがそんなに怖い?」
「……そりゃ普通は怖いでしょ」
「そっか、普通は――か。何か湿原の時お前が暗い顔してたのを思い出したんだよな」
キルアは視線を足元に落としていたため、エレナからは彼の表情はうかがい知れなかった。だが、彼にとっては禁忌でも何でもない殺人を踏みとどまってくれたのは確かだ。それも、キルアの言を信じるならばエレナのために、あるいはエレナのせいでそうしてくれようだった。
キルアからはそれ以上喋りだす様子は無い。かといってエレナの方はまだ思考がまとまりきっていなかった。殺さないでくれていて嬉しいという気持ちはあったが、それを「殺さないでくれてありがとう」と言葉にするのはどうにもおかしい気がする。
それはあまりにも当たり前のことだからだ。かといって通りすがりの人の腹を抉ったことを糾弾するような雰囲気もそこにはなかった。キルアは意気消沈しており、その様子は悲しげですらある。何か力づけてあげた方が良いだろうかと一瞬エレナは考えたが、ゲームに勝てずにむしゃくしゃした挙句、無関係の人間を傷つけておいて何だそれはという気持ちもあった。
上手い言葉が見つからずにエレナが黙っている間に、キルアの方は一つ勝手に結論を出したらしい。
「そうだな。人殺しを見るもの駄目なら……殺人鬼なんて余計無理に決まってるよな」
その声は恐らくエレナに聞かせることを目的としていないほどに小さかった。しかし、かろうじて耳が拾ったその言葉に彼女は何とも言えない表情を浮かべる。怯えているのは自分も同じだというのに何だか虐めているみたいだ。確か、目の前の少年は確か普通に友達を作って普通に遊んだりしてみたいという願いを持っていたはずだったと思い出す。
平気で人を殺せるような人間がこんなにも脆いのはちょっとズルいなと思いながら、エレナは現状を打開する言の葉を紡ぐ。同情したからだとは思いたくは無い、ただ彼と仲違いするのは今後の展開からすると間違いなく損だからだ。
「誰が殺人鬼なのかは知らないけどさ……さっきは急に驚かせてごめんなさい。ただ、イライラしてたみたいだったからさ。何なら今からでもラウンジで何か飲む?」
きょとんとした顔をして見せたキルアのその表情に、くすりと柔らかく微笑んで手を伸ばした。今のキルアになら、決して人を殺さないという約束をさせることもできるかもしれない。しかし、エレナはそんなことをしようとは露ほどにも思わなかった。
この世界には殺すべき時や人がどうしようもなく存在するようだ。その時キルアがそれを実行できないのはエレナとしては困る。彼女にはまだ人を殺めてでも前に進むような気概は無かった。
本当に――弁解のしようもなく卑怯な思考の流れに、キルアに向けていたはずの微笑みが自身への自嘲に転じてしまうような感覚があった。彼から見てエレナが醜く映っていなければいいなと願うばかりだが、こんな体たらくではキルアの殺人履歴を責められまい。
「あ、ああ」
キルアはぎこちなく頷いた。そして、彼女の手を取るためだろう、おずおずと右腕を持ち上げようとする。残念、そちらは外れだと右腕を差し出していたエレナは心中で嘯いた。手を繋いで並んで進むのなら左腕が正解だからだ。
だからエレナは、キルアに一歩近づいて彼の左手を彼女の右手で掴んだ。
「さ、一番近いラウンジはどっちだね?」
「知らねー」
また視線を床に落としてそう呟くキルアの様子に、もう少し愛想ってものは無いかねえと思いながら、エレナは少年の手を引く。一番近いかどうかは知らないが、マツリカと話をしたラウンジへ行こうと足を向けた。
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エレナとキルアが後にしたトレーニングルームでは、ようやくゲームが終わろうとしていた。何時の間にか、目的がボールの奪取から片手片足の使用を自ら制限しているネテロにその制限を解かせてみせることにすりかわってしまっていたゴンが、その目的を達成すると同時に勝手な勝利宣言をして力尽きる。
コンマ何秒の速さで眠りへと落ちていったゴンもさすがだが、それと同時にマツリカにだけ分かるように闘気を叩きつけてきたネテロ会長は本当に喰えない人だなあと彼女は思う。
「念能力の使用は禁止と伝えたはずじゃがのう」
ぞくりと背中が総毛立つ感覚にマツリカは思わず身悶えした。ネテロの視線は彼女が広げているクロッキー帳に注がれている。まあさすがにバレるよなあと思いながら、マツリカは彼女の念でもって具現化されているクロッキー帳をそっと閉じた。
「それはゲームに参加するなら、という条件なんじゃなかったんですか?」
目上の人に敬語、いちおうそれくらいの常識はマツリカにも残っている。無論、ネテロに詭弁が通じるはずもない。
「それはそうじゃがな――。お主のスケッチ、発動条件の一部じゃろ?」
クロッキー帳が具現化物だと気付いたのであればそれは当然の思考であり、マツリカの念能力「ファンメイド(二次創作)」はそれほど捻くれた能力でもないため、今ネテロが言ったことは真実である。彼はマツリカの能力はクロッキー帳にスケッチされた対象に何かを行うことだと考えているだろう。それもまた真実ではあるがゆえに、無防備に彼女にスケッチされ続けたことがネテロの神経を多少とはいえ逆撫でしていたのだろう。
だが彼はやろうと思えばゴンを即座に昏倒させてマツリカを静止できたはずである。
「会長がゴンと遊ぶことを選んだんじゃないですか」
だからマツリカはそこを指摘した。
「何じゃ、ワシと遊びたいのならそう言えば良いじゃろうが」
元々マツリカに気を叩きつけたその時から悪ふざけだったのだろう、飄々とした雰囲気をたちまち取り戻したネテロがそうのたまう。
「ボール遊びならお断りですよ。私がやりたいのは延々と自分の能力を実演する会長とスケッチする私――みたいな遊びです」
「まあ、十年後に期待というとこじゃな」
会長の視線がマツリカの身体のラインを撫でたのを見て呆れ顔を作って見せておく。若い頃に山に篭ったりするから今頃色ボケるんだと言ってやりたいところだがマツリカはぐっと我慢した。今日はもう彼女が収穫すべき実りは期待できなさそうなので、マツリカは退散することにする。ゴンが粘りに粘ったせいで、時刻も深夜というよりも早朝に近い。二、三日であれば寝ずとも平気ではあるが、やはりまだ数時間寝れるのならば寝ておきたいところだ。
「それじゃ、会長さん。私はこれで失礼しますね」
「おう、機長にはゆっくり飛ぶよう伝えておくから休むとよいぞ」
「ありがとうございます。それでは」
軽くネテロに一礼をし、その場で少し考えてやはりゴンも連れて行くことにする。体重のほぼ変わらないであろう相手をマツリカは軽々と抱えてそのトレーニングルームを後にした。
凝、と呼ばれる念の技術がある。体の一部にオーラを集中させるその技は、目に集めれば他の能力者が隠して発動しているオーラや能力を見破ることもできる。しかし、今マツリカがそれを行っているのは隠された何かを見つけようとしているわけではない。
彼女は、飛行船の船内をゆっくりと歩みながら、己の視界の中で少年のつま先からツンツン頭の先までが漫画絵的に表現されていることに満足して頷いた。窓に面した廊下を通ると、そこはもう明るくなり始めている。
この飛行船はじきに第三次試験の会場へと到着するだろう。そこはトリックタワーと呼ばれる塔の頂上であり、下まで降りてくることが三次試験である。ゴン、キルア、クラピカ、レオリオの主人公組は五人一組で通らなければならない多数決の道を降りていくことになっている。
スケッチの機会を逃さないためにも、原作ではトンバと呼ばれる中年の男性が務める五人目の枠をマツリカは手に入れないといけなかった。だから彼女は、マチへのお願いと、エレナへの理由付けを考えなければならない。
支障の無い程度に念能力を説明すれば納得してくれるだろうと、一人頷きながら、マツリカは体を休める適当なスペースを求めて船内表示に視線を飛ばした。
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エレナは滅法朝には強いほうだと自分では思っている。彼女は、目覚ましをセットしたならばその目覚ましが鳴る数分前に何故か目が覚めてしまうという不思議な体質を持っていた。何度かそのことを自慢してみたのだが、「だから何?」という微妙な空気が流れるのがパターンだったのでその話は今ではしないようにしている。
三次試験の日の朝、真っ先に目を覚ましたエレナはまず時計を確認した。七時半を回っていたことからもう起きていた方が良かろうと判断して身を起こす。左隣で並ぶレオリオとクラピカ、すぐ右のキルアはまだ寝ていた。
寝顔は皆それなりに可愛い感じだなという感想とともに、エレナは彼らに背を向けてお手洗いへと向かおうとする。そこでまだ昨日から着替えてないことを思い出した彼女は、イカナゴのタッパーなどが入ったリュックから替えのTシャツと下着とビニール袋を取り出して手に持った。下のジーンズと羽織っていた上着は今日も同じでいいだろう。というよりもそんなに服は持って来ていないのだからそうするしか無い。
気に入ったブランドの服で勝負するんだと言い張っていたレオリオが、今も着ているスーツの上下にチラリと目をやる。確実にダメージを負っているだろうそれに溜息をついた。彼の経済事情からすると決して安い服ではないのだ。
(ま、合格したらプレゼントだとでも言って贈るかな)
自分からではレオリオが固辞するかもしれないが、アリスからということにすれば問題ないだろう。何にせよ合格しなければ話にならない。彼女は着替えを手に持ち、改めてお手洗いへと向かった。
その後、起きてきたレオリオたちとともにビュッフェスタイルの朝食をとっていると、別のところで寝ていたらしいマツリカがエレナの元へとやってきた。そして彼女だけに伝えたいことがあると言うので連れ立ってなるべく人気の少ないところで向かい合う。
「それで、私にどうして欲しいのマツリカ?」
エレナの方からそう切り出すと、マツリカが茶目っ気たっぷりに笑った。大体こんな時は彼女から何かお願いがあるのだ。
「お、話が早くていいねぇ」
新しい呼び方に慣れるため、意識的に"マツリカ"と呼ぶ回数を増やしているエレナと違って、マツリカは彼女のことを余り"エレナ"とは呼んでくれない。きっと以前の名と間違えるのではないかと気にしているのだろう。エレナはそう思っていた。
「話ってのは今日の三次試験のことなんだけど、できれば私をゴンたちと一緒に行かせてくれないかな。理由もちゃんと説明するからさ」
ふむと一つ頷き、視線でうながすとマツリカが説明を始める。それは彼女の念能力と関わりがあった。マツリカの念能力「ファンメイド(二次創作)」は対象をスケッチして彼女の中で二次元的に捉えることができるようにした上で、改めてクロッキー帳に漫画調の絵を描くことでその絵の表現に沿って世界に影響を与える、という念能力であるらしい。
つまり、既に幾度もスケッチされたゴンなどは念能力の発動条件を満たしているため、彼が傷を負った時にマツリカがその傷が治るような絵を描いたならば現実においてもゴンの傷が癒されるという具合である。実際には、傷の程度やマツリカの籠めるオーラの量などの要素が様々に影響し合うので必ず絵に描いたことが実現されるというわけではないようだ。
「つまり――。ゴンたちにマツリカの能力が強く効くようにしたいってこと?」
「そゆこと、多分ゴンはもう大丈夫だと思うけど他の皆はまだそれほど強くフォローできる状態じゃないからさ」
駄目かなと笑顔を向けるマツリカに、そういうことであればとエレナは快く了承した。五人でしか行けない道なのだから結局どちらかは余ることになる。ならばそれが自分でも問題はあるまいという判断だ。
「よかった。ありがとう。エレナのことはマチに頼んどいたから合格は大丈夫だよ」
話が通じて嬉しかったのだろう、マツリカが爽やかな笑顔とともにそう言った。だがエレナとしては素直にありがとうとは言いづらい。一次試験での並走もあり、愛想は全く無いものの話の通じる人物であることは分っているが、マチは特一級の危険人物である。
しかしここは娘? の友達ポジションである今のうちにある程度交流しておくべきだろうか? 今後主人公組がヨークシンでマチの所属する幻影旅団と敵対した時に何か役に立つかもしれない。彼女自身がその時ヨークシンにいるかどうかはまだ決めていないが、携帯の番号でも教えてもらえれば遠隔地からでも事態の把握やその好転のための一手が打てるようになるかもしれなかった。
「あー、うん。ありがとう」
「どういたしまして」
エレナの返事の調子が、やや詰まり気味だったことに気付くことなくマツリカがうんと一つ頷く。以前から人の心の機微を見るのは不得意だったなあとエレナはふと思い出して口元を綻ばせた。マツリカの配慮は的外れだったりありがた迷惑だったりすることも多いが、大抵が彼女なりの優しさからきている。時にはそのために自分自身の望みや欲を犠牲にしていることもあった。
あくまでマツリカが考えるエレナにとっての良いことなので、たまに笑えない押し付けもある。あるのだが、たいていはエレナが笑顔で了承するのが二人の常だった。
エレナはまだ、彼女のためを思うマツリカが一体何をしようとしているのかを知る由も無かった。