我が子は天才だ。 彼女、マリエル・コッペルの考えは親だということを抜きにしても正しい評価だろう。 専業主婦をこなしている彼女には3才の娘がいる。名前はアイリーン・コッペル。母親と良く似た外見を持つ娘のそれはもうコロコロとしていて可愛らしい。特に娘の頬など天使のほっぺたといわんばかりに柔らかく、一日中突付いていても飽きないほどだ。実際マリエルが一日中突付いていたら拗ねてしまい、それ以来頬に手を伸ばすと尻尾を巻くってぴゅーっと逃げてしまうのが彼女のちょっとした悩みだった。 しかし、そんな可愛い悩みなどと比べ物にならない真剣な苦悩が彼女にはあった。 アイリーンは1才になるかならないかの年齢で、歩くことを覚えるより先に喋ることを覚えた。それも「パパ」「ママ」レベルの話ではなく、はっきりと知性を感じさせる会話を、だ。さすがに口が回らないのか舌っ足らずの口調ではあったが、それはそれで可愛かったので問題なしである。 彼女と夫であるクロエがお医者様に相談した所、アイリーンの身体に問題がある訳ではなく、脳の異常発達に身体が着いて来ていないのだろうと推測を述べた。一種の天才児に極稀に見られる傾向だという。天才児、の前に異常なと医者は付け加えたがそれは両親の鋭い視線の前に訂正した。 2才になる頃、ようやく歩くことに成功したアイリーンに、マリエルは安堵の溜息を漏らした物だ。娘が天才であるのはもちろん喜ばしい事だが、親としては健康に育ってくれた方がよほど良い。多少変わっていても、そう月並みだが健やかにさえ育ってくれれば。 という悩みが別の悩みに取って変わられたのは最近の事だった。「ねぇ、アイ。楽しい?」「うん」「お母さんと話すより?」「かーさん、その言い方はずるい」 拗ねたように口を尖らすアイリーンの姿は目に入れても痛くないほど可愛らしい。しかし、その手元には大人でも難解な魔法の構成式が広がっており、元魔導師のマリエルでも眩暈がしそうだった。 早熟な頭脳は喋ることに留まらず、はっきりとその才能を開花していた。魔法に関して並々ならぬ興味を娘は示していたが、いつの間にか書斎にある夫クロエの魔法教本を引っ張り出してきて自分で行使するようになってしまったのだ。いや、行使するだけだったらここまで悩むことはなかったかもしれない。感覚で魔法を扱う天才児はマリエルもまま聞いた事があったが、娘アイリーンの場合は一から構造を理解して知識で構成を編んでしまっている。天才、いや鬼才と呼べるものだった。 子供とは視野が狭くなりがちだけれど、アイリーンは魔法しか見えていないようだった。どこからか一般常識は覚えているようだったが、少なくともマリエルが見ている範囲では魔法のことばかり覚えようとしているように思える。いくら天才児とは言っても、いや、天才児だからこそこれは良くない。このまま学校に通うようになれば、確実に異端とされて一人ぼっちになってしまうだろう。「ねえ、アイ」「何、かーさん?」「お腹空かない? ご飯作ってあげようか」「……す、空いてないよ?」「ダメ、食べないと大きくなれないんだから」「意見聞いてた筈なのに、結局強制!?」 食べることがあまり好きじゃないのか、マリエルが言い出さないといつまで経ってもアイリーンはご飯を食べようとしない。しかも最近はさり気なく食事を誤魔化そうとすらし始めた。ピーマンを食べずに隠すぐらいなら可愛い物だが、まるまる食べないなんて言うまでもなく身体に良くない。なのでマリエルは今日も、半ば強制的にご飯を食べさせるのだった。 得意料理のパスタを作ってあげるとアイリーンの眉が少しだけ真ん中に寄った。大方ご飯を食べるより魔法を勉強したいとでも思っているのだろうと踏んでいるが、席に着くと大人しく食べ始める。やはりお腹は空いていたのだ。「美味しい?」「……うん、いつも通り」「そう、良かった」「あ、はは……」 ちゅるちゅる、とパスタを一本ずつすするアイリーンは食が細い。なので食べやすいパスタはそれなりに好物なようで、喋るのもそこそこに黙々と食べている。いつもは大人のマリエルが思わず怯んでしまうほど的確な返し(ツッコミ)をしてくるのだが、このパスタを食べている時だけはそちらに意識が集中してしまうらしい。マリエルは思わず頬を緩ませた。 と、黙々と食べていたアイリーンがけぷっと可愛らしいゲップをした。「量が多かったら残していいのよ?」「……一皿だけは、なんとか」 お腹がいっぱいだろうにまだ食べたいらしい。限界を知らず食べ過ぎてしまってお腹を壊す可能性はあるが、残りはもう少しなので大丈夫だろうとマリエルは判断した。いつもは寂しいぐらいに手のかからない娘なので、こういう姿を見ると安心する。 そんな娘の様子を頬杖を突いて観察しながら、マリエルはふとアイリーンがテーブルの上に置いたウサギ型の金属に目をやった。これこそ現在のマリエルの悩みを悪化させた原因である。「ねえ、アイ」「ん? ひゃに?」「飲み込んでからでいいのよ。お返事は」「んぅ……何、かーさん」「まだアイにはデバイス早いんじゃないかな?」「かーさん。もう技術的にはソーセキを使わないと辛い所まで来てるし、そんな風に言っても手放さないよ」「も~……アイったら。もうちょっと女の子らしいこと覚えても良いんじゃない?」「今バリアジャケット作ってる最中。ほら、服のことを考えてるしオンナノコっぽい」「魔法じゃない」 夫クロエがアイリーンに買い与えたインテリジェントデバイス『ソーセキ』。魔法にばっかり興味を示していたアイリーンは、ソーセキを手にしたその日から暇さえあれば魔法を弄っているという変わった子供になってしまった。その前まではテレビを見たり、本を読んだりともう少し周りに目を向けてくれる子だったのに、今では魔法一色だ。 マリエルは溜息を吐くしかない。仮にも誕生日プレゼントに渡した物を取り上げてしまったら親子の絆にそれはもう修復不能な傷を残すだろう。それにゲームと違い、一応魔法の”勉強”だ。頭ごなしに叱る事も出来ない。 マリエルはつい最近知り合った、同じ子供を持つ友人にその悩みを相談した。すると、『子供が興味を持ってる物を一緒にやってあげたら?』とアドバイスを頂いたのだが……。その友人からしてみれば、上の子供に魔法を教えているので実感の篭った堅実なアドバイスのつもりだったのだろう。マリエルは元魔導師で、かなりの腕前を誇っていたので一緒にやることは出来る。出来るだろうが……。「(なんでこんなに複雑なのっ!?)」 娘の組んでいる魔法構成が分からない、とは親のプライドに掛けて言えない。言い出せない。しかも天才児にありがちな独特なセンスをしているようで、見たこともない構成の組み方をしている。それなりに魔法の構成というものを勉強してきたマリエルにも、それを読み解くことが出来なかった。我が子はやはり天才だ、と脱帽の気分だった。(※ アイリーン本人が聞けば『分かりやすく書いてるつもりなのに』と逆にショックを受けただろう。要脱スパゲッティコード) 実践になればマリエルにも教える事が出来るだろう。アイリーンがやっているのは全て理論であって、実際の魔法使用とは別だ。しかし、魔法使用は危険がどうしても伴うのでこんな年からやって欲しくない。ジレンマである。「ねえ、アイ」「なに、かーさん」「もうちょっと違う事して遊ばない?」「あー……うん、一段落着いたらね」「この前もそう言ってたじゃない」 という訳で、マリエルに出来ることといえば、こうやって度々口に出して注意するぐらいしかなかったのだ。 強制も出来ず、叱る事も出来ず、さりとて理解する事も出来ず……自分はなんて不甲斐ない親なんだろうとマリエルは嘆いた。さしあたって、夫が帰って来たら文句をぶつけてやろうと決心する。考え無しにデバイスを娘に与えなかったらここまで悪化する事はなかったのだから。「ねえ、アイ」「かーさん……言いたい事はいっぺんに言ってよ」 まあ、それも一つの親子の付き合い方なのかもしれない。