よう、アイリーンだ。前世の名前は封印する。今の姿には似合わんしな。 月日が流れるのは早いもので、俺はもうすぐ3才の誕生日を迎えようとしていた。 これがまた母親のマリエルそっくりで、ころころと小さく可愛い美幼女に育っていた。が、中身は所詮成人男性の俺である。可愛さも半減しているだろうと鏡と睨めっこしていたら、マリエルに微笑ましそうに笑われた。 前世の忙しさから開放された俺は食っちゃ寝を繰り返すニート的赤ん坊生活を満喫しようとしていたのだが……いやはや、実に考えが甘かった。赤ん坊には赤ん坊の仕事があるということだ。 そう、まず俺は寝返りと立つ事を覚えなければならなかった。 自分のこの練習を覚えている人間は、俺のような特殊な例を除きほとんどいないだろう。 人間の記憶が赤ん坊の時あやふやなのは、この苦労を忘れる為だと今の俺には確信できた。なんせ、その苦労はリハビリの比ではない。リハビリは肉体的に衰えた身体を戻し、前の状態を思い出す物だが、この身体はそもそも覚えたことすらない。それを無理矢理鍛える苦労は、赤ん坊が泣きまくるのも無理はないというぐらいに壮絶だった。 おかげで、言葉はもう分かるというのに、立って歩くのに2歳までかかってしまった。遅すぎである。 ようやく歩けるようになっても、電池が切れるまで動き続ける子供達と違い、俺がそこまで身体を動かすのは実に辛い。故に、どうしても同年代と比べると身体能力は低かった。前世の身体の動かし方に関する経験値を入れても、やっとトントンと行った所だ。駆けっこなど相手にもならない。 クロエとマリエルに心配を掛けてしまっているのだけが心苦しい。 だが、知識だけは子供に負ける気はなかった。 言葉が通じていたので気付かなかったのだが、この世界の公用語は日本語じゃない。だが、翻訳魔法といった便利な物があるので会話が分かっただけなのである。 この魔法世界……ミッドチルダは、他の世界に行く技術を既に獲得している。当然、世界が違えば言葉が違う。それ故に開発された翻訳魔法だったが、それの応用で割合簡単に言葉を脳に刷り込むことが出来るらしいのだ。 当然、それは赤ん坊にも適用される。俺がいつのまにか、ミッドチルダ語を理解するだけじゃなく話せるようになったのも同様の理由だ。だから、地球に比べてまだ幼児の俺がぺらぺら喋っても、不気味には思われなかった。 さすがに早熟だったらしく、我が子は天才だと喜ばれたが。 しかし、文字は別だ。こっちは地球と同じく自力で覚えるしかない。 脳裏に染み付いた日本語との齟齬はかなり辛かったが、既に言葉は喋れているのが幸いしてかなりの習得スピードで覚えることが出来た。気付けば、家にある難解な魔法の専門書に眼を通してもなんとか理解出来るぐらいだ。 不思議なことに、魔法というのは科学におけるプログラミングにかなり近い。しっかりと構成を組んで、発動にたる量の魔力を突っ込めばきちんと走るのだ。地球で「進みすぎた科学は魔法と区別できない」みたいな言葉があったが、魔法もまた然りなのだろう。 で、前世がシステムエンジニアだった俺はこれにハマった。ハマりまくった。 ファンタジーちっくな魔法というのも憧れるが、理解するにはこちらの方が断然良い。呪文を唱えて何故か発動するシステムだったら、丸暗記ぐらいしか俺には出来ることがなかっただろう。 そんな訳で、幼児の俺は社会勉強もそこそこに、ひたすら宙に魔法陣を描いて魔法のプログラミングとテストランに励んでいるわけだ。幸い、変わった子供ではあるが、魔法が基盤の世界(ミッドチルダ)では優秀な子供と捉えられているらしく、クロエとマリエルに妨害されることはなかった。 まあ、マリエルの方は2才にして魔法オタクな娘に嘆いていたが。「アイ、アイー?」「人をサルのように呼ばないでよ、かーさん」「…なんでおサルさんなの?」「え、あー……こっちの話。それでかーさん。ご用件は?」 会話だけ聞いていると、どっちが子供だか分かりゃしない。マリエルはアイといった愛称が好きなようで、暇さえあればアイアイと連呼してくれる。正直、愛とかいかにも女の名前に聞こえるし(今は女なんだが)、まだアイリーンとフルネームのほうがマシだ。リーン、とかよくね? と常々思っているのだが、残念ながらそう呼んでくれた人はまだいない。 俺が用件を聞くと、マリエルはぷくーっと頬を膨らませ。「もう、12時にはご飯だって言ったでしょ。魔法の練習は一度やめて食べなさい」「はーい。マム」 相変わらずマリエルは若々しい…というか、子供にしか見えない。最近だと、母親というより世話好きの妹という感じがしているのだが、それを言うと拗ねそうなのでそっと心の中に仕舞っておいた。「はい、たくさん食べなさい」「いただきます」 マリエルのご飯は実を言うと、あまり美味しくない。本人が性格的にも物理的にも不器用なので、料理に向いていないのだ。しかし、女の手料理にケチなんぞ付けず、男は黙って食べる。染色体XXの身となった今でも実践することにしていた。 今日の昼食は、ペペロンチーノ風のパスタである。いや、ペペロンチーノはイタリア語で鷹の爪という意味で、この世界にその言葉はないんだろうが、それに非常に似たパスタだ。マリエルの得意料理……というか、レシピを見ないでも作れる数少ない料理なので、かなりの確率で昼食に登場するのだ。「どう、美味しい?」「お……美味しい、よ?」「アイ? どうして、そっぽを向いてるの?」「うん、夕日が眩しくて……」「まだお昼よ」 蕎麦のようにずるずる啜る俺を許して欲しい。あんまり噛んで食べたい物でもないし。 行儀が悪い、とマリエルにチョップを食らったのは不本意だったが。「帰ったぞー」「あ、おかえりなさい。とーさん」「おお、アイリーンは相変わらず可愛いなぁ」 クロエが帰ってきたのを見た俺は、チャンスだとばかりにペペロンチーノ風の何かを放り出して、大きな身体に飛びついた。相好をだらしなく崩したクロエは、俺の身体を抱き上げる。マリエルの方も食べる手を止めて立ち上がり「おかえりなさい、クロエさん」と微笑んだ。 なんでもいいけど、娘の頭越しにおかえりなさいのキスをするのはやめて欲しい。「そうそう。アイリーン。今日はお父さんから誕生日プレゼントだ」「とーさん、私の誕生日までまだ一週間あるけど」「その一丁前の口が中身を見てからも言えるかな?」 と、俺を下ろしたクロエは、脇に抱えていた大きな包みを押し付けてきた。かなりの大きさで、今の俺と同サイズぐらいある。マリエルの方も、このプレゼントは知らなかったのか不思議そうに首を傾げて荷物を覗き込んでいた。 開けてみろ、と顎で促された俺は荷物を包んでいる紙袋を剥がして行き……中から出てきたのは、予想外すぎる物体だった。「……デバイス!?」「どうだ、アイリーン。気に入ったか?」「すっごい気に入った! ありがとパパー!」 普段は使わない呼称でクロエの首筋にすがりつく。おまけとばかりに、頬に唇を押し当ててやると鼻の下が限界までゆるゆるに伸びた。 父親とはいえ、男のクロエにこんなことをするのは色んな意味で嫌過ぎたので滅多にしないんだが、それを振り切ってもいいぐらいに嬉しいプレゼントだった。 デバイスとは魔法を使用する際の補助機械だ。ファンタジーな言い方をしてしまえば、魔法の杖である。最初に見たのはクロエが使っているデバイスだったが、いかにも機械チックな杖に酷く驚いた覚えがある。魔法技術からの分岐らしいが、ミッドチルダの科学技術もかなり発展しているらしく、機械仕掛けの見た目や電子音声で動くそれはまるで地球製に見える。 補助をする機械といってもその精度は半端じゃなく、魔法を本格的に使用する人間の大半がこのデバイスを使っているそうだ。まあ、魔法の構成がプログラミングのように理屈で組んでいるのだから、機械の方が得意なのは当然だ。 魔法を習う最初期こそ自分で魔法を構築するものの、基本を学べばそのプログラミングと制御の大半をデバイスに任せてしまうらしい。人間は中枢部分の制御と、魔力の流し込みといった発電機のような役目になっていくそうだ。 まあ、人間の処理能力に限界がある以上、機械で性能を拡張するのは当然の成り行きかもしれない。 中にはデバイスを使わないで機械以上の処理能力を発揮する天才もいるらしいが。 とにもかくにも、俺は初めてパソコンを買い与えられた時の様に飛び上がって喜んだ。 デバイスさえあれば、今まで能力不足で出来なかったアレもソレもチャレンジし放題だ。 手に取ったのは、金属製の真っ白な杖。杖の先には青色の宝石が光っていて、そこがデバイスの本体。パソコンでいうCPUやメモリの詰まった部分だ。「クロエさん……アイにデバイスなんて、まだ早すぎます」「そんなこといってもなぁ…もう完全に初等教育の魔法は終わっちゃってるだろう? このままデバイスなしで先に進む方が危険だと思って……」「だからって……」 両親が何やら揉めているようだが、俺の興味は既にデバイス以外になかった。説明書を探して箱を漁るのだがそれらしき物は見当たらない。地球と違って説明書はないのか? と、デバイスを弄くり回していると、『set up.【起動します】』 合成音声と共に、宝石が光り輝いた。掌から魔力と呼ばれるエネルギーがデバイスに流れ込んで行き、まさに生命が吹き込まれたように脈動するのを感じた。俺が感動で言葉を失っていると、青の宝石に灯った光が瞬いた。『Good morning my master. Please teach your name.【おはようございます、マイマスター。貴方の名前を教えてくださいますか?】』「……インテリジェントデバイス?」『Yes my master.【その通りです。マイマスター】』「手に入れるのに苦労したんだぞー。ちょっとばかりコネを通して、管理局の精鋭が作り上げた特注品だ。きっとアイリーンの役にたってくれ……」「クロエさん。ちょっとお話が」「え、あ、な? ど、どうせアイリーンにデバイスを持たせるなら、ストレージなんかじゃなくてインテリジェントの方がいいだろ?」「アイちゃん。ちょっとお父さんとお話してくるから」「あ、うん……行ってらっしゃい」 中学生にしか見えないマリエルが、大男のクロエを引きずっていくのを呆然と見送り……手の中のデバイスに視線を落とした。「ああ、えーと……私の名前はアイリーン。アイリーン・コッペル。貴方の名前は?」『I have not had the name yet.Master Eyelean. You must name it.【名前はまだありません。マスターアイリーン、貴方が付けて下さい】』「あー、うん。そっか」 開発名というか、いわゆる機種名はあるのかもしれないが、固有名は未登録状態なのだろう。 なんだか、パソコンを貰った時とは違う……そう、言うならば魔法の存在を知った時に似た感情が湧き上がってくる。胸が高鳴るような、好奇心が満ち溢れてくるような。そんな感覚が。「それじゃあ、貴方の名前は……」 それが始まり。 転生した時ではなく。 これから一生付き合っていく事になる、純白のデバイスに名前を付けたこの瞬間こそが。 ”俺”の、そして私の……第二の人生の幕開けだった。■■後書き■■次回からワクワク血の踊るような魔法戦闘シーン!には死んでもなりません。まったりのったり進みます。そういう物に忌避感を覚える方はブラウザの戻るボタンで戻って下さい。ちなみに作者は英語が壊滅状態です。助けてエキサイト翻訳。