「こりゃあまたごつい景色だわなあ!」ゲクランのなんとも鷹揚な感想に古参の傭兵たちから失笑が漏れた。オスマンの先遣部隊四万が迫りつつある光景は確かに驚くべきものだが、それをごついと表現する人間はゲクラン以外にいないのではなかろうか?「シェフ殿のお顔ほどではありませんがね」古参兵の間で爆笑がわきあがる。広い額に張り出た頬骨、傷だらけでとうてい滑らかとは言えぬ肌、強面のその人相はまさにごついと呼ぶ表現に相応しい。「馬鹿野郎!オレのは厳めしいっていうんだ!風情ってもんがあるだろ?」「………どのつら下げて風情なんて言いますか」呆れたように副官が肩をすくめると再び爆笑の輪が広がった。もちろんその会話は意図的なものであり、ゲクランも幕僚もお互いが一芝居うっているという自覚はある。だが意図的に引き出された陽気な笑い声は名もない兵士たちの間に、水が大地に染みわたるように浸透していく。戦争という極限状態の中で笑う、という行為は意識するとしないとに関わらず少なからぬ勇気と力になる。ゲクランとその幕僚たちは経験的にそれを知っているのだった。ガリエル・パシャ率いる四万の兵団はゲクランの統率する方陣に対し、正面から突撃を開始した。雑兵ばかりで構成された第一陣の後方には正規兵の銃兵と砲兵さらにその後ろには督戦隊が満を持して控えている。人柱の役目を押し付けられた形の雑兵には悪夢というしかない陣形であった。戦意の有無にかかわらず、彼らには前進する以外に道はなかったのである。「死戦せよ!我らが忠勇なる兵士たちよ!ここでワラキアに勝利を収めれば恩賞は思いのままぞ!」往くも地獄退くも地獄………そんな状況に甘美な一滴がこぼされたことで、兵士たちは熱い奔流となってワラキア軍に襲いかかった。「擲弾兵!」一線に進み出たワラキアの誇る擲弾兵部隊が一斉に手りゅう弾を投擲する。棒の先にくくりつけられた陶器の形状から、ワラキアの鉄槌と呼ばれて敵軍から忌み嫌われている攻撃であった。炸裂音が響き雑兵たちの突進に一瞬の硬直が生まれた。「放てぇぇ!!」その一瞬の硬直を見逃すゲクランではない。一斉射撃によってさらにバタバタと倒れる兵士が続出する。前線の停滞により後続と前線の間で密度が飽和状態に達しようとしたその時、ワラキア砲兵による火力支援が開始された。巨大な運動エネルギーがオスマン歩兵たちに無慈悲な死を振りまいていく。さらに中には爆発とともに破片を振り撒く榴弾……焙烙玉といったほうがイメージは近いかもしれないが……があり兵士たちが身体の一部を欠損していく有様はとうてい高いものとはいえない雑兵の士気を阻喪させるに十分であった。両翼から迫る軽騎兵部隊もまた停滞を余儀なくされている。側面に回りこもうとした騎兵の鼻面に火炎瓶を投擲されたためであった。馬という生き物は臆病なものであり、よほど訓練を積んでいないかぎり炎に向けて突撃を続行できるものではない。損害こそ少ないものの、大量の火炎瓶による火勢は戦闘正面を極限することに成功していた。「………まったく噂には聞いていたが………」ガリエル・パシャはワラキア軍の異常なまでの火力の集中に戦慄を禁じえなかった。彼の知る戦場とは人と人の生身のぶつけ合いであり、士気と数が勝負を決めるものであったからだ。しかしワラキア軍の戦いはおよそ士気と鉄と火薬の量で勝負するものであるようあった。………だが結局戦いを左右するものが数であるという真実は変わらぬ。そう、オスマンが誇るものは何も戦闘員の数ばかりではない。火力の華たる大砲の数においても、決してワラキアに劣るものではないのだ。雑兵の犠牲を尻目に今度はオスマン軍による火力支援が始まった。ワラキア公国軍が誇る銃兵部隊は火縄のくびきから解き放たれたことにより、他国を遥かに凌駕する歩兵密度を保っているが、砲兵の弾幕を相手にするには逆にその密度が仇となる。一発の砲弾が時として三人四人のワラキア銃兵を撃ちぬき、各所で肉片を宙に巻上げていった。さらに百年戦争でフランス軍が使用したものと同じ構造の対地ロケットが幾百の火揃となってワラキア銃兵に殺到し少なくない数の銃兵を打ち倒すことに成功する。「ぬるいんだよ!その程度でワラキア公国軍が崩れるか!」オスマンの銃火に身をさらしながら、ゲクランとその幕僚たちはなお意気軒昂だった。フス派が使用したことでその語源ともなった榴弾(フス派の大砲)はいまだオスマンの砲兵部隊には普及していなかったために、オスマンの砲撃は砲弾そのものの直撃をさせないかぎり被害を与えられずにいたのである。また対地ロケットも火薬のほとんどを推力にとられてしまっているので実は見た目ほどの威力はない。瞬く間に混乱を収束したワラキア軍は肉薄する雑兵を一気に押し戻した。オスマンの雑兵が装備する武器はそのほとんどを湾曲刀が占める。対するワラキア銃兵は七十センチにならんとする長大な銃剣を装備しておりそのリーチの差は致命的であった。槍先を揃えた銃兵の突撃に雑兵たちはほとんど為す術なく串刺しにされ、第二列のワラキア銃兵に至近距離から斉射を受けると彼らのなけなしの勇気は完全に潰えた。悲鳴と怒号のなかにオスマン兵が本能のままに逃走を開始したそのとき。「………逃げるものは撃つ!」壊乱し後方を覗き込んだ彼らの見たものは、まさに自分たちに照準を合わせた味方の銃口であった。味方の銃口を逃れてもさらにその後には督戦隊がおり、またさらに後方からは新たな兵団四万が迫っている。退く先に待っているのは確実な死…………ならば、「アラーに栄光あれ!!」あえて狂気に身をゆだねて雑兵たちはまるで泣き声のような甲高い叫びとともに再びワラキア軍へと猛進した。 「槍先を揃えろ!どうせ長くは続かぬ!」ゲクランの読みどおり、無秩序な突進はワラキア兵を一時的に押し戻すことに成功したものの、目だった被害を与えるわけでもなく体力の限界とともに停止し二度と立ち上がることはなかった。狂気は一時的に身体の力を引き出しはするが、その制御の及ばぬ働きは結果的に兵士から立ち直る余力すら奪ってしまうことを、歴戦のゲクランが知らぬはずもなかったのだ。第二波の兵団もガリエルと同様の経過を辿っていた。ワラキア公国軍の方陣の備えは堅く数にものを言わせた雑兵の突撃はいまだ大きな効果を挙げられずにいたのである。しかし目に見えないところで彼らは着実な戦果を成し遂げていた。「全く叩いても叩いても湧いてきやがる………!」ゲクランの巧みな指揮により最小限に抑えられていたものの、ワラキア公国軍の消費した弾薬量は莫大なものであり莫大な消費を維持し続けられるほどにワラキア公国軍の備蓄は多いものではなかったのである。「あとどれほどだ?」「銃兵は予備の在庫があと百斉射ほど、手榴弾は手持ちが最後です」「思ったより早いな………早すぎる」まさに予想を超える消費量というべきであった。もとより前方二列を射撃させ、後方に下がることでところてん式に射撃を継続するスウェーデンマスケット式の射撃法が、弾薬消費量を飛躍的に増大させることは予想されていた。しかし督戦による無秩序な突撃の継続はワラキア軍に予想を上回る補給上の負担を強いていたのだ。既にワラキア銃兵は二つの兵団との戦闘で二百を超える斉射を行っており、このまま戦況が推移するならスルタンとともにあるイェニチェリ軍団との戦闘の前に弾薬が尽きる計算になる。手榴弾がほぼ底を尽きかけた今、銃兵の負担は増えこそすれ決して減るはずがないにもかかわらずだ。戦端が開かれてから四時間以上が経過し、銃兵部隊にも疲労の色が見えはじめていた。 「こりゃあ、やっぱり奥の手が必要になるかな………?」ゲクランはわずかに首をひねって後方の本陣にいるはずの主を見やった。敵にも味方にも想定に大きな齟齬が生じている。特に督戦の効果を甘く見ていたツケは大きい。だが問題はその齟齬をどこまで許容できる戦略を立てていたかということと、どこまで速やかに修正ができるかということなのだ。その決断は尊敬すべき主君の胸ひとつにかかっていた。「オスマンの銃兵が接近します」雑兵の排除が終わったと思っていたらその間隙に銃兵が距離を詰めてきていたらしい。射撃戦ではワラキアが優位にあるとはいえ、憂鬱な相手であった。「第一列、第二列斉射後突撃する。オレがいいと言うまで止まるな!一気に蹴散らしてくれる!」オスマン軍も銃兵を増やし、銃剣も装備しつつあるようだがそれだけでは足りない。各個射撃ではなく統一された斉射、ファランクス並みに統一された突撃、その運用があって初めて銃兵は軍の主力足りうるのだ。そこまでの理解が及ばなかったのかあるいは時間が足りなかったのか、ゲクランの見るところオスマンの銃兵には未熟さが目立つ。ヴラドがどのような決断を下すにしろ、ゲクランは戦術指揮官として最善を尽くす以外にない。今は余計なことは考えず目の前の敵に集中することにしてゲクランは部下とともに突撃に加わった。海岸陣地の救援と再構築のために予定していた野戦陣地での迎撃という戦略が崩壊し、兵団を分散配置していたことで兵力の逐次投入という戦術的な瑕疵がある以上ワラキア優位の戦局は折込済みであるはずだった。いささかスルタンの気負い過ぎのきらいはあるものの、メムノンとしても出戦に否やはなかった。噂に聞くワラキアの工兵部隊の能力をもってすれば、時間を与えてしまうと恐るべき防御陣地を構築してしまう可能性があったからだ。だがしかし……………「何なのだ?この損害は?」このわずか半日足らずの戦闘で失われた人命はメムノンの予想を大きく上回っていた。いかに激しい戦場とはいえここまで容易く人は死ぬものであったろうか?失われた二つの兵団の死傷率はほぼ三割に達しようとしている。これは組織運営上全滅に等しいものだ。兵団が再び軍事組織としての能力を取り戻すためには指揮系統の再編作業が絶対に必要であった。それのない残存兵はただの烏合の衆にすぎない。稀にこういった烏合の衆を一瞬にしてまとめてしまう英雄が現れることがあるが、現在のところそうしたカリスマ的英雄はオスマンの軍中には存在しないのである。「………厄介なことになる、な…………」あまりにも大きすぎる損害はオスマンの覇権を数年先延ばしにしてしまうかもしれない。しかしヴラドの首はそれを補って余りあるものだ。先ほどから手榴弾の炸裂音がないことにメムノンは気づいていた。計画は大筋で順調に推移している。それにオスマンにはワラキア軍にない切り札が存在するのだ。メムノンの見るところ切り札の投入時期はそれほど遠くないはずであった。メフメト二世はメムノンほどに淡白ではいられなかった。彼の内心には抑えがたい偉業への渇望がある。この戦いでワラキアとコンスタンティノポリスの双方に勝利を収め、やがては欧州とアジアの支配者たることこそメフメト二世の尽きせぬ野望であった。戦の得手とはいえぬメフメト二世の目にもワラキア軍が着実に敗北へと近づいているのは確実だった。第三の兵団の投入時からワラキア軍は戦線を一キロ以上に渡って押し戻されている。それでもどうにか戦線を維持していられるのは、あのゲクランとかいう前線指揮官の手腕と、ワラキア公の右腕といわれるベルドの予備兵力の支援があればこそであった。このまま戦闘を継続しても勝利は疑いないだろうが、メフメト二世には一抹の不安がある。太陽が西に傾き始めていたのだ。この時代に夜間追撃を正確に行える能力はまだない。北方の山岳までそれほどの距離もなく、そんな場所でワラキア軍を追撃するようなことになればなまじ大軍であることが仇となってしまうだろう。とはいえ、せっかくここまで消耗させたワラキア軍に休息を与えてしまうのは、軍事的にもメフメト二世の心理的にも許容できることではなかった。「そろそろ決着の時だとは思わないかね?先生(ラーラ)よ」 メムノンは莞爾として頷いた。「スルタンの御心のままに」さあ、ヴラドよ、堪能してくれ。私が手塩にかけ、生涯の知識の全てをつぎ込んだ恍惚の兵士たちを!元来より学者であったメムノンの調合した麻薬によって恐怖と痛覚を限りなく麻痺させられた漆黒の兵士たちは、猛りもなく、喜びもなく、ただ沈黙とともにワラキア公国軍へと進軍を開始した。ゲクランは目の前のオスマン軍が退却にかかっていくのを軽い驚きとともに見つめていた。押されていたとはいえ、第三の兵団はいまだ余力を残していたはずであり、組織的な退却が許されるとも思えなかったのだ。…………なにかあるわな、こりゃあ…………はたして入れ替わるように前進を開始した兵団をゲクランの瞳が捉えた。一瞬意外な光景にゲクランほどのものが虚を衝かれた。進み出た兵団とは、漆黒の鎧に漆黒の旗を携えた、悪名高い督戦隊であったのである。「例の物は準備できているか?」オレの目にも督戦隊が進んでくるのが映っていた。心に錐を穿たれたような痛みを覚えずにはいられないのが、オレの甘さなのだろうか?この期に及んでまだラドゥと戦いたくないとは…………。「ゲクラン殿があの丘の下まで退いてくればいつなりと」「……残る火炎瓶をありったけ投擲しろ!あの死神どもを押し戻して一気にゲクランを退かせるのだ」オレが作戦の指示を出すのとラドゥ率いる督戦隊の突撃は奇しくも同時であった。その数五千に満たないとはいえ、漆黒の兵士がしわぶきひとつ立てぬままに突撃する様は、見るものに不吉な予感を与えずにはおかなかった。火炎瓶の投擲により前方には少なからぬ炎の結界が張られた。行動の自由を失った彼らの停滞を狙い打つというゲクランの目論見は軍事的にいって全く妥当なものだ。だが、督戦隊の者たちはゲクランの想像を遥かに超えたところにいた。「アラーに栄光あれ!」炎に向っていささかも歩調を緩めることなく突撃した彼らにさすがのゲクランも目を疑った。炎に対する恐怖心は生理的なものであり、いかに士気の高い軍隊であっても炎に生身で飛び込むような真似はできない。もしできるものがあるとすればそれは真っ当な人間ではありえなかった。「撃て!」有効射程ぎりぎりだが構っている余裕はない。敵の中には生きながら蝋燭のように炎を纏ったままで突撃してくるものもいる。近接されるまでに出来うる限り漸減しなければ………いや、あのような者たちを銃撃などで本当に漸減できるものなのか?そもそも銃撃の命中率は低い。ライフリングが実用化されていない現在は特にそうだ。にもかかわらず銃撃が戦場で決定的な抑止力たる理由は、その轟音と確率可能性にあるのだった。仮に銃撃の命中率を三%と仮定しても十回の斉射を受ければその中に自分が含まれる可能性は激増する。次は自分に命中するのではないか?次の次こそは命中するかもしれない。そんな可能性を待つ時間にこそ人は恐怖する。訓練とはその恐怖に耐えうる限界の底上げに他ならないのだ。そんな練度の高い部隊にしても限界を超える恐怖にさらされれば壊乱は免れない。もしも恐怖を完全に拭いさることが出来たならそれは銃兵にとって最悪の相性であるはずだった。「畜生!なんなんだよお前ら!」炎に包まれ、銃弾に貫かれながらも前進をやめない兵士たちの異常性が逆にワラキア軍兵士を恐慌に陥れた。「頭だ!頭を狙え!」ゲクランの必死の指揮も一度起きた混乱を収集するにはいたらない。遂にワラキア公国軍は常備軍設立以来初めて中央突破を許したのだった。………………やられたこの時点でオレは敗北を覚悟した。オレの用意した奥の手は敵と一時的に距離をおくことを前提としている。ここまで接近されてはその手はつかえない。督戦隊の投入がもう少し遅ければ間に合ったのかもしれないが戦場では先手を取ったものが優位に立つのは当たり前のことだった。遅れた自分が悪いのだ。「すまんがヘレナを………」ヘレナだけでも脱出させようとしたそのときだった。「ネイ!ゲクラン殿を左右の両翼から至急退くように合図しろ!本陣の榴弾をありったけ叩き込んだら私が近衛二千で突撃をかけるから後は手筈どおりに頼む」ベルドが会話に割り込んできた。いや、それどころかオレの意思を無視して全軍の指揮を執ろうとしていた。「近衛の指揮官は私だ。役どころが違うぞ、ベルド」「近衛が守らずして誰が殿下を守るのだ?それに私には古い知人との約束があるのだ、それは貴官には譲れぬ類のものだ」ネイはベルドを翻意させることができないことを卒然として悟らざるを得なかった。こうしている間にも敵は接近し続けており、一刻の猶予もない。「………武勲を祈る、友よ」「殿下を頼む、友よ」「お前たちオレを無視して何を勝手なことを言ってやがる!?」すでにして二人の考えていることはわかっていた。ベルドは死ぬ気だ。近衛兵二千とともに敵を足止めして死ぬ気なのだ。………そんなことは認められない。たとえ身びいきが過ぎようとも年来の友をこんな形で失うことなど…………。「そなたの忠誠に感謝を、ベルド」「さらばです、公妃殿下」ヘレナ?!愛すべき伴侶の言葉に思わずオレは言葉を失った。どうしてベルドの死をそんな簡単に許容してしまえるのだ?ヘレナもベルドとは仲良く信をおいていたのではなかったのか?「我が君………臣下には臣下の、主君には主君の務めがある。汝は主君なのだ、それを忘れてはならぬ」奥歯が軋み、手のひらに爪がくいこんで鮮血が指先を伝って大地に吸い込まれた。畜生!こんな思いをするためにオレは君主になったわけじゃないのに!「ゲクランの収容を急げ、点火したら一気に退くぞ」ベルドに背を向けてオレは歩き出した。泣くわけにはいかない、この決断を下した責任として泣いて楽になることなど決して許されるはずがないのだから。ベルドが率いる近衛兵二千名の機動は選び抜かれた精鋭の名に恥じぬものだった。一糸乱れぬ統率を保ちながら督戦隊に向けて銃口を向ける。ただの銃ではない。口径が短く大きなそれは後代の大鉄砲に分類されるものだ。いかに痛覚が麻痺していようとも、即死ダメージを受ければ死を免れることはできない。さすがの督戦隊の兵士たちも、榴弾砲や大鉄砲の射撃に耐えることはできないのだった。…………ラドゥ殿下はどこにおわす?洗脳されたものと忠誠をちかったもの、互いに心を鎧ったもの同士が血で血を洗う激戦を繰り広げる中、ベルドはただラドゥの姿を捜し求めていた。誰にも話していないことだったが、かつてアドリアノーポリでの虜囚から解放されたときにベルドはラドゥから頼まれたことがひとつあるのだった。「…………私が兄様の障害になるときは殺してください」一人アドリアノーポリに残るラドゥには、漠然と今日の事態を予感していたのかもしれない。年が近かったこともあって、ラドゥとベルドは少年時代のもっとも大切な時期を共有した記憶があった。だからこそラドゥも別れ際にベルドにそんな依頼をしたのかもしれなかった。互いに心を鎧ったもの同士なら訓練と才能に勝る近衛兵が勝つのは当然である。無敵を信じていた督戦隊が押される様子にメムノンは激昂した。「死に損ないを叩き潰せ!一人たりとも生かして帰すな!」わずか二千名の近衛兵に数万の軍勢が殺到した。だが、督戦隊の異形たちと全力で交戦する彼らに対応する余力はない。「一人でも多く倒せ!一歩でも前に進め!銃がなくなれば剣を抜き、剣がなくなれば牙を剥け!死の瞬間まで戦いを諦めるな!」くしの歯が欠けるように一人また一人と精鋭が失われていく。いつの間にかベルドに付き従う兵は百人を割っていた。だが、すでに目的は達せられている。オスマンの兵を釘付けにし、ゲクランの撤退を完遂させた以上、残るは幼い日の約束を果たすのみ!最後の突撃に力を振り絞った近衛兵は遂に約束の地への扉をこじ開けることに成功した。「………約束を果たしにきてくれたのかい?ベルド」美しく成長しながら幼い日の面影を残すその姿を見紛うはずもない。ベルドの探し求めたラドゥの姿がそこにいた。期待と不安の色を浮かべたラドゥの瞳は、それでも幼い日の約束の履行を求めているかのようにベルドには感じられた。……………だがそこまでだ。もうベルドには立ち上がる力も残されてはいない。腹部には剣が突きたち、胸には数発の銃弾を浴びている。瞳に写るラドゥの顔すらおぼろげな有様だった。一筋の涙がベルドの瞳から流れて落ちた。………………ごめんよ、ラドゥ。また君を残していく私を許してくれ…………「………………ベルド…………眠ったの?」ワラキア公の腹心として草創期から辣腕を振るってきたベルドの命はベシクタスの原野で永久に停止した。ワラキア公国軍の前面から恐ろしいほどの勢いで黒煙が噴きあがったのはそのときだった。幅数キロになんなんとする長大な距離にわたって、まるで原油火災のような密度の濃い黒煙が発生していた。実際にこの火災には原油の成分もふんだんに使われている。見たことのない黒煙にしばしオスマン軍は驚愕とともに停止を余儀なくされたのだった。後世の歴史家は指弾する。まさにこのときオスマン軍は黒煙に向かって突入するべきであったと。しかし現実問題として油脂が充満し目を開けてなどいられない環境で万余の軍が突撃すればどうなるか、それは素人でもわかることだった。まして火災の炎と地雷すら設置されたなかに迂闊に飛び込めばやはり追撃どころの騒ぎではなかったであろう。オスマン軍の視界を遮る密度の濃い黒煙の正体はワラキア軍が戦史上初めて実戦に投入した煙幕であった。約二時間後、ようやく煙が晴れたとき、ワラキア軍の姿は影も形も見当たらず、西の空にはすでに夕闇が迫ろうとしていた。「…………逃げおった………」メムノンもメフメト二世もヴラドの逃亡には失望を隠せなかった。ワラキア軍が撃退されたと知れればコンスタンティノポリスは手もなく落ちる。コンスタンティノポリスが落ちればヴラドの命運も尽きるはずであった。ならば最後の最後まで死力を尽くして戦い、潔く雌雄を決するのが英雄たるの勤めではないのか?ただ滅亡する時間を先延ばしにしていったい誰の感銘が呼べるだろう。艦隊がボスフォラス海峡の出口でかなりこっぴどく叩かれたという報告はメムノンたちの耳にも届いていた。おそらくはどこかの入江で海路脱出を図るに違いない。追撃しようにもワラキア軍の逃走経路がわからないなかで夜間行軍させるのは危険が大き過ぎた。「所詮それまでの男か………」メフメト二世は嘆息とともにヴラドの追撃を諦めた。もはやヴラドの不敗の神話は破られた。あとは出来うるかぎり惨めな最後を遂げさせてやることで溜飲を下げるほかあるまい。「鬨を挙げよ!」余こそはワラキア公を最初に破った男である。そして明日にはコンスタンティノポリスの支配者となるべき男なのだ。ワラキアの到着前に落城寸前であったコンスタンティノポリスがワラキア軍の敗北を目にして抵抗できるはずがない。仮に抵抗したとしても守りきる戦力がないのは明白だった。スルタンにしてローマ皇帝でもあるという史上空前の偉業を前にメフメト二世は笑みのこぼれるのを抑えることが出来なかった。翌朝早々に軍使がコンスタンティノポリスを訪れていた。皇帝の譲位とコンスタンティノポリスの明け渡しという降伏条件は皇帝に一顧だにされず一蹴された。不思議なことにいまだコンスタンティノポロスの士気は軒昂だった。使者の言葉を聞いたメフメト二世は深くうなづくとともに攻城戦の開始を下令した。…………せめて滅びを美しく飾ってやることも王者の勤めというものか皇帝コンスタンティノスもことここにいたって生きながらえるつもりはないのだろう。仮に自分がその立場だとしたら、やはり勇壮に戦って果てることを選ぶはずだった。そんなメフメト二世の夢想はオスマン軍の鼻面に打ち込まれた砲撃によって破られることになる。榴弾の爆発が立て続けに発生していた。人海戦術を多用するオスマン軍にとってその効果は予想以上に大きいおかしい、先日までの攻城戦でこんな武器はなかったはずだが…………。さらに手榴弾が城壁から投擲されるに及んでさすがのメムノンもメフメト二世もコンスタンティノポリスに何が起こったのかを悟らずにはいられなかった。「オレが来たからには十年経っても落とさせやしないぜ、スルタンさんよお」ひび割れたガラガラ声で不敵に嘯く男がテオドシウスの城壁からオスマン軍を見下ろしていた。マルマラ海の西から補給物資とともにやってきたヤン・イスクラ率いる傭兵部隊四千名がすでに満を持して待ち構えていたのである。