「兄様!兄様!死なないでください!僕を一人にしないでください!」 耳元で泣き叫ぶ声が聞こえる。まだ幼い少年らしい声変わりの終わらぬ甲高い声にオレの意識がゆっくりとだが覚醒に向いつつあった。 …………うるさいな………… 全身を包む疲労感と虚脱感は隠すべくもない。まるで自分のものではないかのように身体の節々が重かった。 「どうか目を開けて……兄様!ヴラド兄様!」 ヴラドだと?不快な言葉の響きにこめかみのあたりの血管が収縮する。そういえばオレって……… 寝ぼけた頭に徐々にだが新鮮な血液が行き渡っていくような感覚とともに、先ほどまでの記憶が少しずつ蘇っていく。そうか、オレはヴラド・ドラクリヤ復活の生贄に………… 振り上げられた短剣今まさに心臓へと突き立てられようとした最後の記憶を思い出してオレは絶叫とともに覚醒した。 「うわあああああああああああ!!」 「ああっ!気がついたんですね!兄様!ヴラド兄様!」 「………………はい?」 夢から覚めてみればそこはまた夢の世界……なのだろうか?首っ玉に抱きついて離れない紅顔の美少年の嗚咽を聞きながら、オレはここが夢か現実かなかなか判断できずにいた。 どうやらこの自称弟である少年の名はラドゥと言うらしい。 「ヴラド兄様、やはり頭を打たれたのですか?」 などとオレを気遣い上目使いに見上げるさまは、少年の愛らしくも無垢な顔立ちと相まってその道の人にはたまらんものであるのかもしれないがオレはもはやそれどころではなくテンパっていた。 ラドゥにヴラドだと…………? オレにはその名に聞き覚えがある。むしろその名のために遠路はるばる日本からやってきたと言ってよい。 夢だ……これは悪い夢だ………というか夢じゃなきゃいやだ!! ブラド・ドラクリヤ……のちの串刺し公には諸国にも名高い美貌の弟がいたという……後の美男公ラドゥである。二人は幼くしてオスマントルコの人質となり、兄ヴラドがワラキアに帰還するとともにいつしか袂をわかったがかつては仲の良い兄弟であったと言われている。甘い蜂蜜色の金髪よく整った造形の顔に丸く大きな瞳がなんとも愛らしい確かにいけないおじさんに道を誤らせそうな美貌ではある。 …………ていうかオレ串刺し公 ヴラド・ドラクリヤ決定!? 「ああっ?!しっかりして下さい兄様!」 ラドゥの悲鳴が遠くに聞こえる。タスケテ死ぬ、死んでしまう、オレが死ぬ、もう死ぬすぐ死ぬ今死ぬ……と松本零士風のボケをかましている場合ではない。サイコ野郎に殺されかけて目覚めると………オレはドラキュラになっていた!。 ………再び目覚めるとラドゥの奴が心配そうな視線を向けていた。もう一度不貞寝して現実逃避しようとしたら全力で泣かれた。まったく泣く子には勝てねえよ…………。 「ひどいですよ兄様………僕本気で心配したのに………」 しかも僕っ子だ!ルーマニア語だからオレの妄想かもしれんけど! 現状を把握するとこういうことらしい。今日になって父ヴラド・ドラクルがトランシルヴァニア公フニャディ・ヤノーシュと組んでトルコに叛旗を翻したという報が宮廷に届いたのだ。となればトルコに人質として残された自分たちの命運は尽きたと考えるのが常識というものだろう。なにせそのための人質である。父に見捨てられた衝撃と、己の人生の不幸に絶望したオレは二階のバルコニーから身を投げたというわけだ。 …………普通二階から身を投げても人は死なないと思うのだが。 「スルタン様は寛大な御心で僕たちを許し、トルコのために生きるようおおせ下さいました。死ぬ必要はなくなったのです!」 目を輝かして不幸中の幸いを喜ぶ弟の姿が少し哀れだった。 ………たしかドラクル公が叛旗を翻したのは1445年だったか?つってもあと2年後には暗殺されちまうんだよな~その後釜ってのがオレなんだけどさ。オレの次はラドゥだ。結局トルコの傀儡に相応しい貴重な駒だってことだから許されただけなんでスルタンに感謝するいわれはないんだけどな。 それでも少年らしい純粋さでスルタンへの感謝に浸っているラドゥを見るとあるいはそのほうが幸せなのかもしれん、という気もする。 美男公ラドゥはスルタンの寵愛を受け、終始トルコよりの政策を貫くことでその生涯を全うした。反トルコの旗を掲げて、結局は人生の大半を戦争と虜囚生活に費やしてしまったヴラドとは大違いだが、もしかするとラドゥがトルコ寄りの政策をとり続けたのは単に政治的な立ち位置ばかりではなく、今日スルタンに命を救われたという思いが原点であるのかもしれない。 それにしてもオレの死亡フラグをブレイクするのは至難のわざだ。二年後には親父が暗殺されてオレがワラキア公に就任するわけだが、ワラキアに対するトルコの影響を嫌ったヤノーシュの軍勢に即位たった二ケ月で逃亡するはめとなる。たった二ケ月でどないせえっちゅうねん! この時代のワラキア公国は西をハンガリー王国東をオスマントルコ帝国に挟まれた小国で生き延びるためにはどちらかの大国の支援が必要だった。まだ今は東ローマ帝国が健在だがあと十年もしないうちに滅亡しオスマントルコの脅威は最終的にウィーン攻囲戦で絶頂に達する。トルコのほうが国力に勝るのは間違いないのだが……だからといってトルコ寄りでいれば安泰かと思うとそうではないのが問題なのだ。なんといってもワラキアはキリスト教国なのである。トルコに対する国民の不信はぬぐい難いし、異教徒に頭を下げる君主はどうしても国民の支持を失ってしまう。わけても貴族連中などは君主への忠誠心など無きに等しいから、その時々の気分でトルコに舐められてはいかん、とか戦争に疲弊するよりはトルコと融和すべきだとか明らかに統一性のないことを言い出して、最悪の場合は暗殺されてしまうのだ。今はまだ存命の親父と兄貴のように。 とりとめのない夢想に浸っているとラドゥが呼んだらしい侍医がやってきて、なんの断りもなくメリメリッとオレの瞼を押し広げやがった。 「いたいいたいいたいいたい………!」 泣くぞ、ど畜生! 「ふむ……どうやら意識はハッキリしておるようですな」 瞳孔を見るまでもなくわかるだろう!普通!? 涙目のオレを一顧だにすることなく侍医はラドゥを振り返って優しく笑いかけた。 「もう心配はいらないでしょう。お心お健やかになさいませ、ラドゥ様」 ………てめえ、オレとラドゥではえらく態度が違うじゃねえか! 「ありがとうございます!メムノン様!」 メムノンと呼ばれた侍医の男は優しくラドゥの頭をひと撫ですると、オレには一言もなくあっさり退出していった。なんでやねん!! 「おい、ラドゥ!誰だ?あの無礼な奴は!」 ラドゥのつぶらな瞳がいぶかしげに曇った。 「兄様……やはり頭を打たれたのがいけなかったのでしょうか?僕たちの教師であり宮廷医でもあるメムノン様ではありませんか!……もっとも兄様はあまりお好きではなかったようでしたけれども………」 なるほど家庭教師というわけか。宮廷医も兼任しているとなるとスルタンにも伝手があるかもしれん。そんな奴と敵対しているとは……なんばしよっとか!以前のオレ! ………ってかそこで枕を抱きながらモジモジしている君は何者かね?ラドゥ君 「兄様………今日は久しぶりに一緒に寝てもいいですか……?」 オレがショタ属性のないことを今日ほどうれしく思ったことはないぞ、ラドゥ。なるほどこりゃショタ好きスルタンなどひとたまりもあるまいて………。 ノーマルのオレですら赤面を免れることのできない会心の一撃だった。それにしてもここまで無垢な信頼を寄せる弟といずれは敵対するとは……未来を知っているというのも善し悪しだな…………。