右腕を切り飛ばされたギグリブーツが背中の4枚羽根を羽ばたかせ、這々の体で逃げ出していく。しかし、そちらへ注意を向けている余裕などはなかった。
未だ残る炎の照り返しで豪奢な鬣を輝かせながら、そいつはゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
身の丈は2メートルを越える。シュリヒテよりも頭二つ分くらいでかい。猫科肉食獣が直立した、そんな印象を抱かせるのは必ずしも顔のせいばかりではない。猫背気味で、強靱さと敏捷さを同時に存在させる、しなやかと言う表現がぴったり来る細身の体型にも、その理由は求められた。そして、一番の理由はもちろん人と異なるその顔。鬣をたたえたそれは、百獣の王ライオン。
構える武器は、三日月型の刃を持つ赤い長柄の斧。+1か2か、あたりまえのように、淡く赤い魔法の燐光を帯びている。全体的に細身の体型の中で、武器を携える両腕だけは不自然なくらいに太く、でたらめな力を持っていることを容易く想像させる。その腕力で振るわれる武器がどれくらいの威力を持つのか。我が身で確認したいと思う者はいないだろう。
こんな魔神は知らない。
だが、見ただけで分かる。
「……魔神将」
サシカイアは口の中でその意味を確かめるように小さく呟き、つばを飲み込もうとして、口の中がからからに乾いていることに気が付く。
こいつは強い。それも、途方もなく。
全身に、じっとりと嫌な感じに汗が浮かんでくる。
思えば、これまでの戦いも楽勝とは行かなかった。しかし、その原因は全て中身のへっぽこさに求められた。脆弱な自分たちの精神が、戦いを恐怖し、躊躇し、その結果、要らぬピンチを招き、ダメダメでぐだぐだな戦いを繰り返す羽目になった。
そう、ダメダメでぐだぐだ。
そんな酷い戦い。
それでもなお、自分たちが生き残り、勝ち続けてきたのは肉体のスペックが高かったせい。ほとんどチートとも言える能力。10レベルという、人としては限界近くにまで鍛えられていたこの能力。
結果、敵は常に格下となり、多少のミスは簡単に取り返しが付いた。ぶっちゃければ、本来無傷で楽勝となっても不思議でもない相手ばかりだったのだ。
それが故に、中身がとことんへっぽこでも勝利することができた。
しかし、今。
こちらに向かう魔神将。これは、間違いなく格上の相手だった。
張り付く髪の毛が鬱陶しく、額を手の甲で拭う。そこは自分でも吃驚する程に汗にまみれていた。
これまではぐだぐだでも何とかなってきた。
しかし、今回ばかりはそうはいかない。
自分たちの全力を出して──それでもなお、はたして勝ち目があるのか疑問。
魔神将とはそう言う相手なのだ。
ロードス島電鉄
23 ライオンキング
逃げるか?
サシカイアの頭に真っ先に浮かんだ思いはコレ。
完全な状態でも荷が重すぎる相手。なのに、自分たちは既に戦いを経て、精神力が減少した状態。疲労だって馬鹿にならない。勝ち目のない戦いに向かう程、自分がヒーローではないことをサシカイアは知っている。そして、そんなモノになるつもりだってない。こういう化け物は、本物のヒーローに任せるべきだ。具体的にはベルドを筆頭とする六英雄とかに。ベルドあたりであればきっと、嬉々として一騎打ちもどきで下してくれるだろう。いや、ここは戦記にナの字も出なかった癖に伝説で主役を張ったナシェルに割を食った感のあるファーンに任せるべきか。ファーンにも、せめて一匹くらい魔神将を下して欲しかったと思った読者は少なくないだろう。少なくともサシカイアはそうだった。そう、ベルドやファーン達、原作登場人物達に花を持たせるためにも、ここは逃げるべき。オリキャラが出張ってボスクラスを倒すなんて最低SSだし。
借金?、そんなモノもこの際知った事じゃない。死んでしまっては何の意味もないのだから。
なのに。
「そうか、貴様がボスか」
すっ飛ばされて転がっていたシュリヒテが立ち上がり、敵を見つけたとばかりに魔神将に向けて言い放つ。逃げる、なんて選択肢はありません。そう言う顔だった。
「あの馬鹿」
相手が魔神将だと、自分より格上だとわかっているのかいないのか。否、コレはきっとわかっている。わかっていても、向かっていこうとしている。冷静でいられない、それはわからないでもないが、馬鹿という評価は訂正するつもりになれない。いや、むしろ上方修正、すごい馬鹿、これでも足りない。
「どうする?」
言外に見捨てるか、とブラドノックが問うてくる。
「……そんな後味の悪い真似ができるかっ!」
ああ、くそう、俺も馬鹿だ。
サシカイアは心の中で己を罵る。
利口なのは、沸騰してまともな状況判断のできない馬鹿を見捨てて逃げること。シュリヒテなら勝てないまでも、足止めくらいは期待できるだろう。その間に本気で逃げ出せば、逃げ切ることも夢ではなさそう。自分が生き残る。それ一点だけを考えるのであれば、これが一番冴えたやり方。非難があるのは百も承知。それでもなお、みんな仲良く全滅しましたよりはよっぽどマシな結末だろう。
だが、感情がそのやり方を否定する。
結局の所、これまで戦いを躊躇したあたりと一緒。甘いのだ。緩いのだ。現代日本人の感性? 本気で命のやりとりをする場面で、情なんてモノは酷くマイナスになる。生き残るためには冷静に、冷徹に最良の手段を選び実行すべき。勝てない相手は勝てないと素直に認めて逃げるべき。そんなことはわかっている。わかっているのだが、くだらない見栄や、仲間意識や、その他諸々の感情が、生き残るためのベストと思える方法を選ばせてくれない。
「……なんか返事するまでに間が空いてないか? 肌が黒くなりそうなこと考えてたんじゃないか?」
「とにかくっ」
鋭く声を出してブラドノックの突っ込みをスルー。黒い肌に付いてくる+4の精神抵抗値は魅力だが。とにかく、戦うと決めたからには、できうる限りの最善手を打っていく必要がある。ここでくだらない言い訳をしている余裕はない。そう、都合の悪いことを誤魔化しているわけではないのだ。
まず、何より先にしなければならないことは。
「アッバーム、弾もってこいっ!」
サシカイアは振り向き、そこにいた神官戦士達に命令する。
「回復役を何人か残して、他は俺たちにトランスファーを」
首をかしげる神官戦士達に、ブラドノックがすかさず通訳する。
魔神将の登場に、凍り付いたように動きを止めていた神官戦士達が慌て気味にやってくる。彼らも大分疲れているようだが、ここは乾電池として使い潰させてもらう。回復役、キュアウーンズを使う者を残しておく必要はあるが、それ以外では、精神力をサシカイアらに融通してもらった方が役に立つ。──と言うか、サシカイア達ですら、魔法が通じるかどうか、魔神将とはそう言うレベルの敵なのだ。神官戦士達のレベルでは、確実に抵抗されると考えていい。
「サシカイアばっかじゃなくて、こっちも」
なんだかサシカイアの方にみんな集まってきて、誰が行くか牽制しあっていたようだが、ブラドノックに文句を言われて、ようやく神官戦士達がばらける。
「失礼します」
一言断ってから、神官戦士がサシカイアの肩に手を乗せる。トラスファー・メンタルパワーは対象に接触──触れる必要があるのだ。ひょっとしてそれで牽制しあってたのか?、とサシカイアは頬を引きつらせる。神官戦士は男ばかり。そしてこちらは超絶美形エルフ娘であるからわからないでもないが。何というか、こいつら、意外と余裕があるのでは?、なんて考えてしまう。
「いいから急いで」
とにかく突っ込みや、お触りはいくらと請求するのは後回し、今は急いで貰わなければならない。
この魔神将は見た目、魔法を使うよりも肉弾戦と言うタイプと思える。だが、それで安心できるわけではない。同じく肉弾戦特化型と見える魔神将ゲルダムでも、暗黒魔法をレベル9で使える。魔神将となれば、あたりまえに魔法を使える、そう考えておいて間違いない。この魔神は肉弾戦向きみたいだから魔法は使えないだろう、なんて考えるようでは、無能を通り越して害悪ですらある。
そして、魔法を使われたら間違いなく酷いことになる。基礎魔力が高いから低レベルの魔法だって洒落にならない威力になるし、高レベル魔法となれば阿鼻叫喚の地獄絵図になるだろう。先のサシカイアのファイアーストーム連打。ああいう攻撃をされると非常に困る。そうなると生命力の低いサシカイアは間違いなく死ねるから。そりゃあもう、簡単に死ねる。
だから、とにかくサシカイアの仕事は精霊魔法で敵の魔法を封じること。
トランスファーで精神力を融通して貰う間が空いた分、敵の先手を許すことになる。なるが、今の精神力で魔法を使っても、よほどうまく行かないと通じない。いわゆる会心の一撃レベルが必要。そんな幸運、低い確率にすがるくらいならば、一撃喰らう覚悟でここは精神力の回復、その後の全力による魔力拡大で成功確率を高めてミュートを使い、魔神将の魔法を封じる。
その前に攻撃魔法を喰らって一撃死することだけは回避したいと、サシカイアは気合いを入れて精神的な集中の準備。魔神将に魔法攻撃の様子が見えたら、抵抗専念で何とか堪えたい。──それでも、うまくいってようやく死にかけでとどまる事ができる。そんな感じのサシカイアの生命力だが。
視線の先で魔神将は。
その獅子の顔、口の両端を大きく持ち上げた。
笑っている?
サシカイアがそう思った直後、魔神将は大声で吠えた。
「GAOOOOOOOOOO!」
ふう、ちょっとほえてみた。なんてレベルではない、大音量の咆哮。空気が震えるどころか、咆哮を浴びせられたサシカイアらの皮膚や、服の表面までもがびりびりと震える程の咆哮。ほとんど物理的な圧迫。これだけで後ろにすっ飛ばされてしまいそうな迫力があった。
──なのに。
その咆哮が徐々に小さくなっていくようにサシカイアは感じた。鼓膜に痛い程の大音量が、奇妙に遠い。そこかしこで燃え残る炎のおかげで、不自由しない程に明るい周りの様子が、目の前に薄い幕でも下りてきたみたいに暗くなっていく。奇妙な浮遊観。足下が不確かになり、何か、どこかへ落ちていくような──
「──くっ!」
コレはヤバイ。
足下にぽっかりと空いた暗くて深い穴。落ちていく先は奈落。そこに救いなど無い。
我に返り、何とか踏みとどまる。
ずしんと重力が全身にかかってくる。倒れかけのおかしな格好になっていたせいで踏みとどまるのに酷く苦労した。鉛でも飲んだよう。身体が重い。全身に嫌な感じで冷たい汗が浮く。心臓が鼓動を止めかけているような心配がして、右手で拳を作り、胸を叩く。直後、心臓がその存在を大きく主張し始める。こめかみの血管が痛い程に脈動している。頭がくらくらする。全身に酸素が足りない。あえぐように呼吸をする。寒気まで感じ、震える己の両肩を抱きしめる。
「くそっ」
罵る。
持って行かれた。
この疲労、この倦怠感。
今の咆哮は間違いなく、精神力にダメージを与えるたぐいの効果を持つ。
この元々疲労した状態でこれはきつい。今のでごっそりと精神力を持って行かれた。これでは魔力の拡大、最大強度で魔法を使うどころか、普通に使うことですら厳しい。下手したら、意識まで持って行かれていた。
そのサシカイアの背中に、何かがぶつかってきた。
何か。
それは、サシカイアにトランスファーをしようとしていた神官戦士。
「おぉ?」
体重を預けられ、もとより体力筋力のないサシカイアでは支えられず、蹈鞴を踏み、体を捌いて逃れる。
よりかかる者の無くなった神官戦士は、そのまま、棒が倒れるみたいにあっけなく地面に転がる。昨今の子供を馬鹿にできない、手を出して支えることも受け身も何もない、逆に見事なくらいな倒れ方だった。
「おい?」
と声をかけ、直後、サシカイアは喉の奥で悲鳴を上げた。
精霊使いの感覚が知らせてくる。
倒れた神官戦士の身体から、急速に消え失せていく生命の精霊の気配。感情の精霊の気配。生き物があたりまえに持っている、各種の精霊の気配。
何事が生じたか。
簡単なこと。この神官戦士は死んでいるのだ。
意識を持って行かれる?、そんな優しいモノじゃなかった。
精神力にダメージを与えるたぐいの攻撃を喰らった場合、限界を超えると普通は気絶する。だが、気絶を通り越して、酷くあっさりと死んでしまうたぐいの攻撃もある。生命力がゼロになった場合には生死判定という一つの段階を経ることになるが、この種の精神力への攻撃の場合はそれがない。ゼロ、即座に死亡と言った具合になる。この種の攻撃はイリーナを殺したアンデッドナイトの攻撃のように、アンデッド系のモンスターの持つ特殊能力に多いが、この魔神将の咆哮もまた、同じような効果を持つらしい。
サシカイアは倒れた神官戦士を呆然と見下ろす。
さっきまで生きて動いていた者が、一つの外傷もなく死んでいると言うのは、酷く納得しがたい。酷く、恐怖を伴った。危うく自分もこうなりかけた。そのこともまた、恐怖を増幅する。
「──くっ」
呻きながら、慌て気味に周囲を見回す。
ブラドノックは青い顔であえぎ、膝を付いているがなんとか無事。こちらも相当に精神力を持って行かれた様子。生きてはいても、これ以上何かできるかというのは疑問。できないと見た方がいい。
酷いのは神官戦士達。半分近くが地面に崩れ、残りもブラドノック同様に地面に膝を付いている。
幸いなのは咆哮の魔力の効果範囲はそう広いモノではないらしい。少し離れてゾンビと戦っている冒険者や村人達の方には悪影響は出ていない。これで聞こえる限り、なんて効果範囲だったら、あっさり逆転、全滅してしまいそう。これは本当に幸いだった。
……この魔神将が暴れ出せば、この程度の幸い、簡単にひっくり返してしまいそうだが。
とにかく、今は、彼らは普通に戦えている。
逆にこちら、至近では、まだ両足で立っているサシカイアが一番マシ、そんな風に思えるくらいの総崩れ。
──否。
「おぉおおおお!」
雄叫びとともに、シュリヒテが長剣を魔神将に向かって振り下ろす。
どうやらこちらはぴんぴんしている。精神抵抗値はサシカイアと同じだが、シュリヒテの方は見事に咆哮に耐えきったらしい。
そして、このことから示唆される事実。それは。
「抵抗、効果消滅か?」
咆哮の魔力に耐えきれば、精神力を持って行かれることはない。これは酷く幸いだ。効果軽減であった場合、魔神将くらいの高レベルになると、抵抗に成功しても、基礎魔力だけで洒落にならないダメージがくるのだ。
シュリヒテの剣と魔神将の赤いポールアックスがかみ合い、魔法の火花を散らす。
とは言え、こちらが不利になったのは間違いない。乾電池は役立たずに、サシカイア、ブラドノックに精神力の余裕はなく、やっぱり役立たず。まともに戦えるのはシュリヒテのみ。
「……圧倒的に不利じゃないか」
サシカイアは呆然と呟く。
圧倒的に不利──それですら高評価だろう。ぶっちゃけてしまえば、勝ち目など皆無。シュリヒテは強い。強いが、魔神将を相手に一騎打ちで勝てると考える程、脳天気ではいられない。魔神将は、そんな優しい相手ではないのだ。
「くそっ」
己を罵ることしかできず、サシカイアはシュリヒテと魔神将の一騎打ちを、食い入るように見つめた。