その少女を心から愛していたかと問われれば、正直首をかしげてしまう。
あのときの自分は、完全にテンパっていた。
生まれて初めての殺し合い。これまで平和に暮らしてきた自分には、あたりまえに初めての経験。
己に叩き付けられる殺意。相手に突き返した敵意。死が死を呼び、血で血を洗うような凄惨な戦闘。
その時には、戦の歌の効果。そして、とにかく必死だったせいで深く考えることもなく戦うことができた。
だが、戦いが終わり、戦の歌の効果が切れた後はもういけない。
腕に残る、剣で肉を切り裂く感触。盾を叩き付け肉を潰し、骨を砕いた感触。飛び散り我が身を濡らす敵の血潮。身体を掠めた攻撃。僅か数センチ先を通り過ぎた死の気配。背筋が冷え、心に刻み込まれた恐れ。
その全てが、深甚な恐怖を伴って思い起こされる。
心身共に疲れ果て、とにかく眠りたいのにそれもなしえず。僅かに睡眠を取っては、恐怖を伴う夢にたたき起こされるという一夜を過ごし。
朝が来たら来たで、日の光の元、くっきりはっきりと視界に映し出される惨劇の傷跡。物言わぬ死骸となった村人や冒険者たち。己が殺した魔神やその眷属の死体。
余裕なんて持ちようもなく、ただ青い顔をして震えるだけ。押しつぶされそうな程の後悔。自分がどうしようもなく間違ってしまったという恐怖。理不尽な現状に対するいらだち。
とにかく、テンパりまくり。周りの目など気にせず、喚いて嘆いて泣き叫びたくなるような、しかしそれもなしえない程の深い絶望。
そんな時に、その少女は声をかけてきた。
助けたことに対するお礼。そして、自分に対して好意を持っているとの告白。
自分がその少女に対して好意を持っているか、と問われれば、正直微妙。
とにかく、出会ってからの時間が短すぎる。ただでさえ、昨日からの驚きの連続。まじめに好きとか嫌いとか考える余裕もなかった。ただ、見栄えはよい少女だったから、好きと言われれば悪い気はしないのは確か。
あくまでその程度のこと。
何より自分は異邦人だし、本気でつきあえるかと問われれば、首をかしげてしまう。
だけれど。
だけれど、このすさんだ心理状態。
それを僅かでも払拭するのに、初めてのセックスという奴は、逃避先としてかなり優秀なように思えた。
ただ、それだけのことだった。
ロードス島電鉄
021 ベルセルク
その少女は、うつろな表情でシュリヒテの前に立っていた。
割合、感情が表に出やすい少女だった。
サシカイアに対抗してシュリヒテにべたべたした時などはそれが顕著に現れていた。必死な表情をして胸を押しつけ。サシカイアが、シュリヒテを狙うライバル視されている事に気が付き力尽きた後には、安堵と、そして優越感に満ちた表情をはっきりと表に浮かべていた。それ以外の場面でも、喜怒哀楽が正直に表情に出ていた様に思う。そしてそれは、少女の大きな魅力でもあった。
しかし、今の少女からは、生き生きとした表情の全てが、完膚無きまでに失われていた。
快活さを振りまいていた大きな瞳は暗く濁り、曇ったガラス玉の如く何も映してはいない。まるで痴呆の様に力無く、だらしなく小さく開いた口元。生気を感じさせない作り物じみた土気色の顔。お洒落には気を使っていたはずなのに、今では艶を、水気を失い乱れるままとなった頭髪。肩を落とし、両手を重力のかかるままに下へ向かって投げ出し、足を引きずるようにしてシュリヒテの方へのそのそとした動きで向かってくる。
生気を感じさせない。それはあたりまえ。この少女は既に死んでいるのだから。
大きくえぐられた左の胸元。ごまかしようが無く致命傷。完膚無きまでに死んでいる。死んで、怪しげな魔力か、あるいは邪神の奇跡かで動かされている、動く死体。ゾンビに、この少女は成り果てていた。
「──! ──!」
後ろの方で、見知った女の声が、何事かを叫んでいるのが聞こえてくる。
しかし、そんなモノはシュリヒテの脳裏で意味をなす言葉にならない。ただ左耳から右耳へ、脳みそを完全にスルーして虚しく通りすぎていくのみ。
シュリヒテは、ただ目の前の少女に視線を固定したまま立ちつくす。
少女が、右腕を振り上げる。そして、それを振り下ろす。
自分に向けて叩き付けられてくる少女の右腕を、シュリヒテはぼんやりと見送り、避けることなく受けた。
右の肩口、鎧の肩当てに、少女の腕が叩き付けられる。
が、シュリヒテは微動だにしない。
素性の良い優れた鎧、魔力のこもったそれが、少女の一撃を軽く受け止める。鎧下がその衝撃をあっさりと分散してしまう。シュリヒテは全く痛痒を感じない。
逆に壊れたのは少女の腕の方。鍛えていない少女の腕は、自らの攻撃によって傷つき、壊れてしまう。躊躇のない全力、素手で鎧を叩く、そんな真似をした少女の右腕は、皮が破れ、肉が崩れ、骨が砕けてしまう。大きく開いた傷口を空気にさらしながらも、少女はまるで気にしていない。普通ならば痛みに悶絶するところを、欠片も気にする事無く、今度は左腕での攻撃。同様の末路をたどる左腕。そして更に傷ついた右腕をぶつけ──と、まるで壊れた機械のように左右の腕で交互に攻撃を繰り返し、その度毎に少女の腕は壊れていく。
繰り返す内、一撃が頭に命中。それはさすがにシュリヒテをよろめかせる。
己が傷つくことも、痛みも、躊躇もなく振るわれるゾンビの腕。それが繰り出す力は、シュリヒテの頭から兜をすっ飛ばすことに成功していた。
その結果に喜ぶこともなく、これまでと同じように、少女は壊れた腕を振り上げる。
このまま、殺されてやるのもいいかも知れない。
そんな思いがちらとシュリヒテの頭を掠める。
少女の顔は、耳まで真っ赤になっていた。
両手はスカートをきつく握りしめ、口を開きかけては躊躇い、再び開きかけては躊躇いした後、思い切ったようにその言葉を口にした。
「す、好きです! わ、わた、わた、私とつきあってくださいっ!」
そして、これ以上赤くなりようがないだろうと思っていた顔を、更に赤く染め上げた。
少女の腕が、自分めがけて振り下ろされてくる。
さすがに、アレをまともに頭に食らえば、確実にどうにかなってしまうだろう。
先の頭への一撃も、結構効いた。兜をすっ飛ばされたときに傷めたのか、左のこめかみ辺りを流れていく血の感触。
「──ヒテ! シュリヒテ! この糞馬鹿、また死ぬ気か?」
先刻から後ろで叫んでいる女の声が、ようやく意味をなした。
サシカイアが、シュリヒテの名前を呼んでいるのだ。しかし、それもどうでも良いことだった。
ただ、シュリヒテは振り下ろされる少女の腕を見つめる。
腕の中で、少女は笑った。
痛いのだろう。それも相当に。
男なのでよくわからないがそう言うモノらしいし。
目尻には涙が浮かび。
それでも、少女は笑った。
とてもぎこちない笑顔。
なのに、少女はすばらしく幸せそうに笑った。
満ち足りた表情で笑った。
こちらも嬉しくなるような、そんな笑顔だった。
ぎりりと、噛み締めた奥歯が鳴った。
シュリヒテは踏み込み、少女の腕をかいくぐると、横殴りに剣を振るう。
未だに慣れることのない肉を切り裂き、骨を断つ不快な感触。
そんな感触だけをシュリヒテの腕に残して、少女の身体が腰斬されていた。上半身と下半身が逆の方向へ回転しながら、重力に引かれて地面に落ちて転がる。
それでもすぐに腕を使って上半身を起こそうとする少女。僅かでも動ける限りはオーダーに従い、生あるモノを殺し尽くそうとする。この程度のことで行動を止めることはない。
その胸の中央に、シュリヒテは剣を突き込む。
あっさりと剣は背中にまで抜ける。
まるで展翅された蝶のように地面に貼り付けにされた少女は、それでもなお、腕を伸ばしてシュリヒテを捕まえようとする。しかし、壊れた両腕ではそれはなしえない。凝固した血と、何かヨクワカラナイモノで腕当てを汚すのみ。そうしている内に、少女の動きはどんどん緩慢になっていき、ついには動きを止めると地面に力無く腕が落ちる。
シュリヒテの持つ魔法剣。その魔力が、少女の死体を動かしていた魔力と干渉、そして駆逐した。そんな理屈はどうでも良かった。
トリスという名の少女は死んだ。
たとえ、既に死んでいたとしても、少女を殺したのは自分、シュリヒテ・シュタインヘイガー。他の誰かがそれは違うと指摘しても意味はない。シュリヒテにとっては、それが真実だったから。
喉の奥から酸っぱいモノがこみ上げてきて。堪えきれずに、シュリヒテは顔を少女から背けると、胃の中身を全て吐きだした。
どうしようもなく涙がこぼれてきた。
胃からこみ上げてくるモノをまき散らしながら。
チャンスと見たのか、横合いから襲いかかってくるカボチャ頭を一撃で切り捨てる。返す刀で、近くにいたゾンビも開きにする。
再びの嘔吐。こみ上げてくるモノをぶちまける。
更に向かってくる敵を切り捨てる。
己の心臓の鼓動がうるさい。胃のうずきが止まらない。
しかし、シュリヒテは止まらない。
否、止まれない。
こみ上げてくるモノは、胃の中身だけではなかった。
身体の奥底から、心の奥底から、どうしようもなくこみ上げてくるどろどろとした、昏くて熱いモノ。
それを、吐き出さずにはいられない。敵に叩き付けずにはいられない。
このまま、それを身体の内に留め置くなんて事はできない。そんなことをしたら最後、内圧が高まりすぎて身体が内から弾けてしまいそう。今すぐにそれを、余すことなく敵に叩き付けてやりたい。やらなければならない。やらずにはいられない。
「うぉおおおおおおおおおおおおお!」
自然に、口から絶叫があふれ出していく。たとえ僅かなりとも、身体の中に生まれた熱いモノをはき出そうとしているように。
そして、己の心が命じるままに、シュリヒテは敵中に躍り込んだ。
その戦う様は、まるで暴風。
蹂躙としか言いようのない勢いで、シュリヒテが敵を倒していく。容赦なく、慈悲無く、躊躇無く、あれほど嫌なゾンビを、他のアンデッドを、魔神を、己の前に一瞬以上立つことすら許さず、切り伏せていく。
「ふぅ」
と、それを見たサシカイアは安堵の息を零した。
無防備に、ゾンビの前に立ちつくすシュリヒテを見たときは肝が冷えた。あの、廃棄砦の一件がまざまざと思い返された。
思わず叫んで駆け出しかけたサシカイアだったが、シュリヒテは致命的な一撃を受ける寸前に動き出し、少女のゾンビを切り捨てた。
その行動に、どれほどの思い切りが必要だったのか、それはシュリヒテにのみわかること。傍観者であるサシカイアにはわかる事はないだろう。それでもとにかく結果オーライ。シュリヒテには悪いが、サシカイアにとって、少女とシュリヒテの命では比べものにならないのだから。
そして、直後に別種の心配。
シュリヒテの周りに感じられた、怒りの精霊ヒューリーの気配。それに取り込まれてしまえば、それもまた、酷いことになる。原作、戦記のオルソンの様に、我が身を省みることなく破壊をばらまくバーサーカーになって貰っても非常に困る。
しかし、シュリヒテは寸前で踏みとどまった模様。
怒りに支配され。しかし、支配され尽くすことはなく、崖っぷち、ぎりぎりの所でバーサーカーになるのを免れたようだ。その証拠というべきか、シュリヒテの叫びは「URYYYYYYY!」ではなかった。叫び声の種類が不安を完全に払拭させ、サシカイアを安堵させた。
ともかく、今のシュリヒテは強かった。
10レベルファイター。チートとしか言いようのない自分たちの能力。しかし、これまでは中身の弱さから真実発揮されることの無かったその力を完全に──否、それ以上に奮い、敵を下していく。
そして、シュリヒテは、サシカイアらと同時にそれを見つけた。
人型、角や牙を持たないシンプルな造形。ただし、その背中には4枚の羽を持つ魔神の姿を。
「ギグリブーツ」
ブラドノックがその名を呟く。
上位魔神ギグリブーツ。角や牙を持たない辺りからもわかるように肉弾戦は今ひとつ。代わりに、魔法を操る能力に長けている。そうした能力から、後方支援、あるいは──
ゾンビや魔神兵を作る仕事を中心にしている。
原作でも、大隧道、ドワーフ石の王国の廃墟内で、ゾンビ作りにいそしんでいた。
「貴様かぁ!」
こちら同様にその正体を悟ったシュリヒテが吠えると、ギグリブーツにすさまじい勢いで向かっていく。
こいつが敵。
こいつこそが憎むべき敵と、そこへ至る道を阻もうとする敵を左右に切り開き、一直線に向かう。
ギグリブーツは魔法を使ってそれを阻もうとし。
「させるかよ!」
そこへ、サシカイアは沈黙(ミュート)の精霊魔法をぶつける。
ここが大事と、回復して貰ったばかりの精神力の大半をつぎ込み、己にできる最大強度で放った魔法は、確実に効果を顕した。
突然、言葉を発することができなくなった己にギグリブーツが戸惑いの表情らしきモノを見せ、それでもすぐに切り替えたらしく、両手に持った武器を構える。
そこへ、シュリヒテが飛び込んだ。
斬撃。
両者の剣と剣がかみ合い、互いの魔力が火花を散らす。更に返す太刀、さらなる斬撃。
剣と剣が乱舞する。
他の者が手を出しあぐねる、すさまじい戦い。
その戦いは、シュリヒテ優位で進んだ。
目に見えて、シュリヒテの勢いが勝っていた。
己の中の怒りを叩き付けるような激しさで振るわれるシュリヒテの攻撃を凌ぎかね、ギグリブーツの身体から血が舞い始めるのはすぐのこと。元々、肉弾戦が得意でないと言うこともあるし、レベルでもシュリヒテが勝っている。順当な展開と言ってもいいだろう。
ついにはシュリヒテの一撃がギグリブーツの右腕を切り飛ばし、それで勝敗の帰結は見えた。
「……勝ったな」
「ああ」
ブラドノックと短く会話。
ゾンビの数は大分減っている。他の者達で駆逐しきるのはもう間もなく。最大障害と見えるギグリブーツの方も、シュリヒテに開きにされるのは時間の問題。色々焦りまくった戦いだが、最早、こちらの優位は動かない。
そう思われたとき。
シュリヒテが慌て気味に盾をかざす。
その盾にぶつかって拉げる小柄な、おそらくは子供と見えるゾンビ。
盾で受けたとは言え、その勢いに堪えることができずに、シュリヒテはギグリブーツの前からすっ飛ばされてしまう。
「──なっ」
ごろごろ大地を転げるシュリヒテを気遣う余裕もなく、サシカイアは我が目を疑う。
自分の目が確かならば、そのゾンビはかなりの勢いで宙を飛んで来た。
己でジャンプして、と言う風ではない。
誰かが──何かが、そのゾンビを投げつけたのだ。いくら小柄、子供と見えたとしても、そんな真似をするのに、果たしてどれだけの力が必要か。ファリスの猛女、ほとんど人外筋力25を誇るイリーナ・フォウリーにだってこんな真似は不可能だろう。
そのゾンビが飛んできた方向へ、サシカイアは視線を向ける。
そこにいたのは。
無慈悲に、己の道を邪魔する、味方のはずのゾンビをポールアックスでなぎ倒しながら、それがゆっくりとこちらへやってくる。
概ね人型。二メートルを超える身体。体型は雄偉と言うよりはしなやか。腰などは細いと感じるくらい。それでいて、目を見張る程の筋肉の付いた太い両腕。何より人と違うのはその顔。豪奢なまでの鬣に包まれたそれは、百獣の王ライオン。
「──」
止めていた呼吸を、ようやく思い出して再開する。
こんな魔神は知らない。
知らない、が、わかってしまったことがあった。
全身から発散するその雰囲気。そのありよう。そのたたずまい。
上位魔神?
否、違う。
これはそんな生やさしいモノじゃない。
そんな優しげな存在じゃない。
「……魔神将」
ブラドノックが呆然と呟く声が絶望を伴って、隣にいるはずなのに酷く遠くから聞こえた様な気がした。