アラタとサヤの兄妹事情 (ベタで甘い兄妹SS)
前編:アラタとサヤ
あ……ありのまま今起こったことを話すぜ!
『昼飯を食べようとコンビニのパンを取り出したら、目の前には弁当が置かれていた』
な……何を言ってるのかわからねーと思うが、俺も何をされたのか分からなかった。
頭がどうにかなりそうだった……。
妙にあんの少ないあんぱんだとか、異様に脂ぎったカレーパンだとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。
もっと恐ろしいものの片鱗を――、
「……兄さん、うるさい」
あ、ごめん。
■
僕、片桐新かたぎりあらたには妹がいる。
それがいま僕の目の前で本を読みながら昼食をとっている片桐鞘かたぎりさやだ。
僕は現在この高校に通う高校二年生。妹は僕の一つ下なので、高校一年生だ。お互い、まだまだ進路のことを考えるのは先のことだと認識している、模範的な学生である。
まあ、二年の秋にもなって何にも考えていない僕は模範的というには少し無理があるかもしれないけど……。そこは気にしたら負けだと思っている。担任からは頼むから気にしてくれ、って言われるんだけどね。
そう言われても、友達と遊んでいる方が楽しいし、勉強っていうのは面倒くさい。いくら将来僕らの為になるって言われたところで、今それを実感できなけりゃやる気なんて湧き起こるはずもない。まあ、言い訳にすぎないことは自覚しているんだけど。
別に僕は刹那主義ってわけではない。けど、先を考えるよりは今を過ごすほうがいいなぁ、って考える。それが僕という人間だ。
対して妹である鞘はというと、兄である僕とはだいぶ違った性格をしている。
友達と遊ぶことに楽しみを見出して、人と一緒にいようとする僕に対して、鞘は……何と言うか、一匹狼的と言えばいいんだろうか。
日がな一日本を読んでいて、口を開いても一言二言の簡潔な言葉。あんまり表情にバリエーションがないため、非言語コミュニケーションですら交流が持てない。
当然、友達なんて数えるほどしかおらず、僕は一人しか鞘の友達を知らない。クラスの奴らは相当苦労しているんじゃないだろうかと思う。
今だって、僕の目の前で箸を片手に鞘は自分の弁当をつつきながら本を読んでいる。時折その細い指でページをめくったり、頬にかかった色素の薄い栗色の髪をかきあげて耳にかける。それら以外に、動きがない。
あ、目は文字を追って動いているが。
けどまあ、そういった仕草は結構男にとってはツボらしく。鞘がそういった仕草をするたびに、教室の男子連中が顔の造形を著しく崩すのはいつものこと。もはや気にもならない。
――はぁ。
……なんだか、兄として妹の行く末が不安になるよ。僕だって将来のことをそんなに考えているわけではないけど、コミュニケーションの重要性はよく分かっている。人と関わり続ける現代においては必須のスキルである。
その必須であるスキルがこれでもかというぐらいに欠如している妹。さらに、本人はそのことをまったく気にしていないときたもんだ。
いくら鞘の成績が学年三位以内に入るからといっても、紙の上の実績だけでは生きていくことはできないだろう。だからこそ、少し不安になる。
なんだかなぁ。本当に鞘の奴、こんなんで大丈夫なんだろうか。
自分のことは棚に上げて、僕は最近そのことを悩んでいる。これでも兄だし……鞘は妹だからね。
「……兄さん?」
「――ん?」
声をかけられて、僕は思考に沈んだ意識を引っ張り上げる。
目を向ければ、鞘は少しだけ眉を寄せて怪訝な表情で僕を見ていた。ちなみに、他人にはこの変化は分からない。わかるのは家族と、美里ちゃんだけだ。
「……お弁当、食べないの?」
言われて、そういえばまったく口をつけていないことを思い出す。
はっとして机の上に目を落とすと、水色のナプキンに包まれた弁当箱と、その隣に無造作に置かれたコンビニのパン(あんぱんとカレーパン、計230円)。
……さすがに、両方食べるのは身体に悪い気がする。
「正人」
「んぁ? なんだよ」
「これ、やる」
「え、マジで!? うっひょお、助かるぜぇ! 夕食はこいつで決定だぁ!」
隣の席に座っている友人にあんぱんとカレーパンを放ると、正人はィヤッハァー!とか言って妙にハイテンションで喜びを表し、二つのパンを受け取った。
まあ、三沢正人はクラスの誰もが知る苦学生であるからして、その反応は予想通りといえば予想通りではあるのだが。
苦学生と言っても、正人の場合は別に複雑な家庭環境を抱えているわけではない。ただ親元を離れて一人暮らしをしているから、生活費のやりくりに苦労しているというのが理由である。
生活が苦しい苦しいといつも言っているので、なら遊びに行く頻度を減らせばいいんじゃないかと言ってみたことがあるのだが、遊ばなくて何が学生か! と怒鳴られてしまった。以来、正人は自業自得でひもじい生活をしている苦学生として周囲からは認識されている。
さて。パン二つを正人にやった僕は、早速鞘から渡された弁当の包みを解く。出てきた弁当箱はいま鞘が使っているものより一回り大きいタイプ。満腹とはいかないだろうが、帰るまではもつだろう、と思わせるちょうどいい量だった。
「いいの? 兄さん」
「いいよ、パンぐらい。でも、弁当なんて珍しいね。鞘がこっちに来るのはいつも通りだけど。母さん、仕事で忙しいって言ってなかったっけ?」
家は共働きなので、母さんも朝早くから出勤である。しかも最近は忙しいらしく弁当を作る余裕はないと言っていた。三日前に聞いたんだから間違いない。だからこそ今朝パンを買ったんだから。
僕が素直にそう疑問を口にすると、なぜか目の前の鞘が狼狽し始める。といってもこれといった動きはなく、せいぜいが読んでいた本をより顔に近づけて鼻まで隠してしまったぐらいなのだが。
そしてほんの少しだけ頬を上気させ、鞘はぼそぼそと何事かを呟いた。
「……れ……その……私が……」
「ん?」
「それ……私が、作ったの……」
「え、これ、鞘が?」
「………………」
こくん。
鞘は小さく頷いた。
「へぇ……」
鞘が作ったのか。これを。
僕は思わずじろじろと弁当を見つめた。
白飯と、卵焼きと、ウインナーと、ミートボールと、プチトマトと……といった、定番ともいえるラインナップだが、色合いは鮮やかでいいし、何より定番ということははずれが少ないということでもある。僕の記憶上、鞘がお弁当を作るなんてことはこれまでなかったはずだから、これぐらいが最初は妥当なのかもしれない。
改めて見ると、卵焼きに焦げ目はないし、ミートボールだってあんが絡んで美味しそうだ。初めてでこれなら、上出来なんじゃないだろうかと僕は思った。
ちなみに、どう見ても冷凍ものではない。
「に、兄さん……。その……食べて、みて?」
「あ、うん。そうだね」
たどたどしく言われて、僕はようやく箸を持って弁当に向かい合った。
ただそれだけなのに、鞘は一挙手一投足も見逃すまいとするかのようにこちらを凝視している。じっと無言無表情でいるように見えるが、僕にはバレバレだ。
期待半分、不安半分、といったところかな。
僕はそんなふうに今の鞘を分析しつつ、おもむろに箸で掴んだ卵焼きをひと切れ口の中に放り込んだ。
「あ……」
鞘の口から意識したものではないだろう声が漏れた。
僕はそれに気がつかないふりをして、ただ口の中のものを味わって咀嚼していく。
もぐもぐと口の中で味わったあと、卵焼きはごくりと喉を通って胃に向かう。
不安げにこっちを見てくる鞘に、僕は笑顔で親指を立てた左手を出した。
「うまい!」
僕がそう言うと、鞘は不安だらけだった表情を一気に笑みに変えて、傍目にもわかるぐらい嬉しそうに微笑んだ。
僕も数えるぐらいしか見たことがないほどの会心の笑顔である。兄の贔屓目から見ても可愛い部類に入る鞘が笑った姿は、月並みだが、花が咲くような、という表現がぴったりと当てはまるような気がした。
僕は真正面からその顔を見て、思わず顔を熱くさせる。
やはり、妹であろうと可愛い女の子の笑顔は照れるものだ。僕はそんな顔を鞘に悟られないように、弁当にさらに箸を伸ばす。
鞘はそんな僕を見て、いつもより表情を柔らかくしているように感じられた。
■
「あ、お兄さん!」
下校時間。
昇降口から外に出て、少ししたところで僕は後ろから呼び止められた。
聞き覚えのある声に、お兄さんという呼び方。声の主が誰であるかはすぐにわかった。
「美里ちゃんか。おはよう」
振り返って言った僕に、早足で近づいてきた後輩の少女はにこりと笑った。
「あはは。お兄さん、もう夕方ですよ?」
「わかってるよ。アルバイトの癖でつい、おはようって言っちゃうんだよ」
「ああ、喫茶店でしたっけ?」
「まあね」
なるほど、と短めのポニーテールを頭の後ろで揺らしながら、美里ちゃんは頷く。
僕のアルバイト先である喫茶『ランタン』は、個人経営の小さな店だ。僕を含めてアルバイトはもう一人だけで、あとはマスターだけという小規模経営なのだが、「おはよう」という挨拶はそこでの決まりなのだ。
たとえ何時に入っても、挨拶は「おはよう」。わりと当たり前のことらしいが、特にサービス業ではそれが決まりになっている……と、マスターが言っていた気がする。
「……あれ。そういえば、鞘は?」
ふと、僕は美里ちゃんに尋ねる。
僕にとって美里ちゃんはいつも鞘と一緒にいる子、というイメージがあるため、どうしても二人いることがデフォルトであるように思っている。
だというのに、今は鞘がいない。だから、ちょっとした違和感のようなものを感じる。
鞘にとっての友達といえば、この小牧美里ちゃんだけである。本当は他にもいるのかもしれないが、家に連れてきたことがあるのは、少なくとも中学高校通して美里ちゃんだけだ。
そんな二人だからこそ、少しだけ僕は気になって疑問を口にした。
すると、美里ちゃんは明らかに居心地が悪そうに目を泳がせた。
言ってもいいものかどうか、迷っているようにも見える。いかにも怪しげな様子に僕が怪訝な顔をしていると、美里ちゃんはそんな表情のまま口を開いた。
「あー……鞘はですね。ちょっと、手間取ってるところです」
それで、私は終わるのを待っているところ。
美里ちゃんは曖昧にそう言って苦笑した。
「なるほどね……」
僕は、得心がいったとばかりに頷いて見せる。
そういうことなら、美里ちゃんが一人でいるわけは納得がいく。さすがに、そんな場面にまでついていくわけにはいかないのだろう。
――唐突だが、僕の妹はもてる。
それはもう、もてる。羨ましいぐらいにもてる(別に僕が男にもてたいわけではなく、それだけ異性にもてるということが羨ましいのだ)。
始まりは確か鞘が小学校六年生に進級したその日だ。
僕がまだ慣れない中学校から帰り、夕方のニュースを見ていた時。玄関の扉が勢い良く開かれ、どたどたと慌ただしく駆けてくる音を聞いた。
何事かとテレビから視線をリビングのドアの方に向けると、それと同時に鞘が駆け込んできたのだ。
普段は物静かな妹の、意外すぎる活動的な行動に、僕は驚いて声をかけた。
「ど、どうしたの。そんなに慌てて」
僕が問うと、それで初めて僕がいることに気がついたのか、鞘ははっとしてぶんぶんと首を振った。
「う、ううん……別に。なんでも、ない」
それだけ言うと、鞘はこそこそとまるで僕のことを避けるようにして自室に入っていったのだ。
当然、僕はそれに疑問を持った。
いつもらしからぬ鞘の行動に、明らかに動揺していた態度。何かあったと言っているようなものだ。
次の日に僕がとった行動は、小学校に在籍する後輩に様子を探らせることだった。
僕も大概心配症だと思うのだが、仕方がなかったのだ。当時の僕は、口下手な鞘がいじめられていると思っていたのだから。
しかし、結局僕のそんな危惧は杞憂であり。後輩からもたらされた情報は、どちらかというと全くの逆だった。
どうやら、その日のうちに五人もの男子から告白されていたらしい。
それはそれで結構な衝撃ではあったのだが。
鞘にとって、告白自体が初めてだというのに、いきなり五人だ。それなら、確かに動揺するよなぁ、と納得してしまったのを覚えている。
まあ、自然な栗の色をした髪を背中の中ほどまで伸ばし、小顔で、色の白い肌。顔の作りは整っていて、若干瞳が大きめでぱっちりしている、そんな容姿をしているのだ。鞘は、文句なしの美少女なのである。
告白されるぐらい、当然だよなぁ。と僕だって思った。
しかし、初めて告白された鞘は、それまで色恋沙汰に興味がなかったことも相まってか、ひどく驚き混乱したようだ。それが、あの普段とは異なる行動だったらしい。
それからも告白騒動は続き、中学でも多くあった。
その頃には鞘も慣れてきていたから、それほど動揺することなく無難に対処していたようだ。
そして、そんな鞘に対する男子連中のアプローチは高校生となった現在でも続いているのである。
「相変わらず……もてるなぁ、あいつは」
「ですねー。まあ、鞘はあんな不特定多数にもてても嬉しくないでしょうけど」
「僕だったら嬉しいけどねぇ」
男として。不特定多数にモテモテとかさ。うん、当然の夢だよね。
「………………」
しみじみと人類の半数が同意するだろう大望に思いを馳せていると、何やらこちらを見る美里ちゃんの視線が妙に白いことに気がつく。
なんだろう、呆れたような、小馬鹿にするようなその視線は。
「……え、なに?」
「……いえ。ちょっとお兄さんが恨めしくなりました」
「なんでさ」
恨まれるような要素がどこにあったんだ?
君が家に来た時にはいつもオレンジジュースを差し入れしてあげるような、優しい男じゃないか僕は。鞘の好物なだけだけど。
はぁ、と美里ちゃんは溜め息をついた。
幸せが逃げるよ、美里ちゃん。
「はぁ、もういいです。言っておきますけど、鞘だって女の子なんですからね?」
「そりゃ、当然でしょ」
「そうじゃなくて……やっぱり、いいです」
何事か言おうとしていた様子の美里ちゃんだが、下駄箱のほうを一瞥すると、その言葉を飲み込んで話を終わらせた。
僕もその視線を追ってみると、そこにはちょうど上靴を脱いでいる鞘の姿があった。
たぶん、告白はいつも通り断ったんだろう。一人でいるし、表情もいつもと変わらない。長年のあいだ鞘のことを間近で見てきた僕がそう思うのだから、間違いないだろう。
靴を履き替えると、鞘はつま先をトントンと地面につけて、履き心地を確かめている。そして伏せていた顔を上げると、昇降口からさほど離れていないところに立っている僕達と目が合った。心持ち急いでこちらに歩いてくる。
「ミサ、待たせてごめん。……兄さん、も?」
「そこで疑問形になられると、ちょっと寂しいんだけど」
まあ、話してて結果的に待ってた形になっただけだけどさ。
「ん、ごめんね、兄さん」
「いや、いいけどね」
ちょっと申し訳なさそうに言う鞘に、僕は苦笑して言葉を返した。
どうにも、鞘はたまにこうして気にしすぎるところがある。あんまり表情が出なかったり、自分の感情を表に出すのが苦手な妹なだけに、僕が気をつけないといけないこともままあるのだが……。
でも、こういう手のかかるところは正直嬉しかったりする。成績優秀、容姿端麗と二拍子揃っている妹なので、手がかからないと言えばそうだが、やはり家族としては頼っても欲しい。兄としては、やっぱりちょっと寂しいのだ。
コミュニケーション能力不足、という点を良かったなどとは言わないが、それで少しでも鞘が僕を頼ってくれたのなら、兄冥利に尽きるってものだろう。
僕はちょっとだけ目を伏せた鞘の頭に手を置いて、ぽんぽんと撫でた。
「兄さん?」
「いやいや、なんとなくね」
僕の行動が予想外だったのだろう。鞘が上目遣いでこちらを見てくる視線を受け止めて、僕はその言葉に答えながら手を動かす。
疑問には思いつつも満更ではないのか、鞘は少しだけ頭をこっちに向けて、再び目を伏せた。
僕はその無言の意を受けて、笑みを浮かべて頭を撫でる。
何がいいのかは知らないが、昔から鞘はこれが好きだった。泣いていても僕や母さんが頭を撫でてやれば、すぐに泣きやんだものだ。父さんの場合、力を込めすぎるから余計に泣いていたが。
ははは、愛い奴、愛い奴。そんなしょうもない殿様気どりの優越感に浸っていると、ふと視線を感じた。
言うまでもなく、僕の隣に立っていた美里ちゃんである。
じーっと僕らを見つめてくる視線は、なぜか妙に冷めたものだった。
「……美里ちゃん?」
「……?」
僕が声を出したことで、鞘も頭を上げて美里ちゃんに目を向ける。手は鞘の頭に乗せたままなのだが、どけたほうがいいのだろうか。タイミングを逸してしまったせいで、手はそのままだ。傍から見たら間抜けな気がする。
心のうちで取り留めもないことを考えている僕を尻目に、唐突に美里ちゃんがはっとした顔をした。
「あ、そうだー、わたしそういえばヨウジがあったんだー、わすれてたごめん、さやまたあしたねー」
「え、み、ミサ……?」
「おにいさんもまたー」
「あ、うん……」
それではー、と一連の行動を無表情でこなした美里ちゃんは、風のように走り去っていった。そこまで急ぐ用事があったのだろうか。隣で鞘も呆然とした表情をしている。
その間に僕は鞘の頭の上にあった手をどけておく。あんまり女の子に触れているのも良くないしね。妹とはいえ。
「……さて。帰る?」
「あ、うん……」
僕が気を取り直して尋ねると、鞘は意識をこちらに移してこくりと頷いた。
僕はそれに歩き出すことで応え、鞘は少し遅れて僕の後に続く。しかしそれもわずかなこと。すぐに僕の隣に並ぶと、鞘は特に何を言うでもなく静かに僕の隣を歩く。
時々、思い出したように僕が話題を振り、鞘はそれに短い言葉で答えてくれる。たまに鞘のほうから話を振れば、僕もそれに答えて少しずつ話を発展させていく。
どこにでもある世間話の類でしかないやりとり。毎日友達同士でおこなう、特に意識もしない自然な交流である。
だがしかし、友達が極端に少ない鞘は、こういったことに触れる機会があまりない。せいぜいが家族と知り合い数人。同年代で、となれば僕と美里ちゃんぐらいじゃないだろうか。
男子からは恋愛対象として見られ、友達ができづらく、女子からは嫉妬とまではいかないまでも接触しにくい存在として認識されているそうだ。美里ちゃんに聞くところによると。
本を黙々と読み、話しかけても言葉が返ってくるのは稀で、返ってきても一言だけ。それが僕らがいない時の鞘らしい。
おかげで女の子たちは話が成立しないので敬遠し、元から話すこともない男子連中からは、知らないが故に深窓の令嬢扱いで近寄って来る、と。我ながら、難儀な妹である。
美里ちゃんはそんな鞘にとって唯一の例外で、美里ちゃん本人は鞘とはタイプが違う明るい子だが、意外にウマが合っているようだ。あんな子が鞘の友達で、しかも同じクラスにいてくれていることは素直に喜ばしい。入学早々に鞘に友達ができたと知ったときは家族で祝ったものだ。
一応、僕も同じ学校にいるが、やはり僕は一つ上。鞘のことは心配だったが、美里ちゃんという存在が出来てからは安心している。やっぱり、友達は大事だ。それは僕も美里ちゃんも思っていることである。
教室では美里ちゃんと。お昼には僕のところに来て昼食。美里ちゃんは一緒に食事をとりたいらしいが、鞘が「私ばっかり、占領しちゃ悪いから……」と言って美里ちゃんは連れてこない。
美里ちゃんは付き合いやすい子だ。だから、クラスには友達がそれなりにいる。鞘と美里ちゃんはお互いに親友だと思っているみたいだが、それゆえに鞘は気にしてしまうのだろう。自分に付き合って美里ちゃんの交友関係が悪くなる可能性を。
けど、面を向かって言うのは気まずいし、鞘自らの交友関係を広げるのは問題外。だからこそ、僕の所に一人で来て時間を過ごす、と。……まったく、ホントに難儀な妹だ。
隣でゆっくりと歩を並べる妹を見ながら、僕は気づかれないように小さく息をついた。
このままでいいとは思わない。現状から何かが変われば良くなる、と言い切ることはできないが、少なくともなにも変化しないよりは未来に展望がある。僕はそう思う。
僕が何かするのか、美里ちゃんが何かするのか、両親が何かするのか、鞘が何かするのか。あるいは、ごく自然に何かが変わっていくのか――。
どんなふうに今が変わっていくのかはわからないが、きっと状況はいつか変わっていく。
陳腐な言葉だが、変わらないものなんてこの世にはないのだ。まったくもって陳腐だが、真実であり、至言だとも思う。
変わっていくことが必要で、そうなることが必然であるというなら、僕はどうするべきだろうか。
変わっていく手助けをすればいいのか。それとも、ただ傍観していればいいのか。今の時点で何も分かるはずがないというのに、僕はつい考えてしまう。
鞘は、僕にとって大事な妹で、家族だ。だからこそ、もしそんな変化の時がきたら、きっと僕はそれがどんな行動であろうと、鞘のためになる行動をとるだろう。
まあ、出来ることと出来ないことはあるけど、努力は惜しまないと思う。
それがいつになるのかなんてわからない。ひょっとしたら、気がつけば変わっていて、何もする必要はないのかもしれない。
それでも、こうして心を決めておくことは、悪いことじゃないだろう。
とりあえずは、今はそんな様子はないのだから、深く考えることもないだろうし、まだ必要はないだろう。
となれば、僕は今まで通り鞘のことを見守っていこうと思う。昔から僕が立っていたポジションに立ち続ける。
鞘の隣で、可愛い妹と日常を過ごす。どれだけ気張ったところで、僕に出来ることなんて、そんな当たり前のことがせいぜいだろうと思うしね。
「……兄さん?」
「……ん、あ、ごめん。ちょっと考え事をしててさ」
「考え事?」
首をかしげて聞いてくる鞘に、僕は少しだけ頭の中で話題を探した。
「ほら、美里ちゃん急に帰ったでしょ。どんな用事だったのかなと思って」
これならそれほど不自然な話題ではないだろう。ついさっきのことでもあることだし、美里ちゃんのことだから鞘も口を開きやすい。僕は咄嗟の頭の回転が意外に冴えてくれたことに感謝した。
なにしろ、本当に考えていたことはどうにもシリアスでかつ気恥かしいものだ。鞘には知られたくない。さすがに照れる。というか悶え死んでしまう、羞恥で。
僕が内心そんなことを考えていると、鞘はなぜか気落ちしているようだった。なぜ。
「……ミサが、気になるの……?」
「まあ、鞘の友達だしね。別に他意はないよ、ホントに」
すると、鞘はホッとしたように息をつく。
これは、僕なんかに友達を渡すのは嫌だということなのか、単にブラコンなのか、どっちなんだろう。
美里ちゃんや正人なんかはよく鞘のことをブラコンと言うから、後者の可能性もありなのだが。というか、そのほうが個人的には嬉しい。僕も程よくシスコンである。
「今は、他の子といるよりも鞘といる方が楽しいしね」
「……ん、ありがと……」
ぼそぼそと照れたように顔を伏せて話す鞘は、非常に可愛い。兄でありながら、たまにドキッとするのは内緒である。
そんな鞘の隣を歩きながら、また少しだけ意識を内に向ける。
――ま、今はこれぐらいがちょうどいいよね。
僕はいつもと変わらない日常という幸せをかみしめながら、今だに少し赤みが頬に残る鞘の隣で笑みを浮かべるのだった。