未来はためらいながら近づき、現在は矢のように飛び去り、過去は永遠に静止している。
三十路前という年齢の俺にとって、勉強などという行為は遠い過去の思い出の産物である。
友と机を並べ、教師の言葉に耳を傾け、一心不乱にノートに筆記。懐かしきかな、懐かしきかな、学生時代のあの頃の俺……。過ぎ去りし哀愁の日々は、決して戻ってはこないのだ。
そんな風に考えていた時期が俺にもありました。
「ユート坊ちゃん。よそ見はいけませんよ」
「はい、すんません」
ここはサンタローズの村、パパス家の一室。
俺が村に滞在するようになってから数日が過ぎていた。
サンタローズの洞窟は、危ないからということであれから立ち入り禁止になってしまった。村の外に出ようにも、外は魔物が出るからと子供だけでは出してもらえない。見張りの兵士さんが通せんぼだ。
洞窟には入れない、外にも出られないとなればレベル上げもできない。となると、村の中でできることを探すしかない。
そう思った俺はサンチョに頼んで教師役をやってもらい、先日からこの世界の読み書きを教えてもらっていたのだ。
「それにしてもユート坊ちゃんは偉いですな」
「何がですか?」
「自分から進んで勉強を教えてほしいとは、感心なものです。それに物覚えも早いですし、教えがいがあるというものですよ」
「いやぁ……」
そんなに褒められると、照れてしまいますよ。読み書きは全くのゼロからのスタートだったとはいえ、俺の中身は二十八歳である。開始当初はさすがに四苦八苦したが、慣れればそれほど苦にはならなかった。
それに、文法とか文字の形はどことなく日本語に似てるんだよな。まだ習って数日だが、簡単な読み書き程度はできるようになったと自負している。
俺とてできるなら面倒だし勉強なんてしたくはないが、そんな甘いことは言ってられない。だって、今のうちに習っておかないと後々苦労するのが分かってるしね。読み書きできるかどうかは、文化的に生きていく上で最も重要な要素である。この世界の識字率がどうなっているのかは不明だが、子供とは勉強するものというのが俺の認識だ。たとえそれが中身は大人であっても、だ。とにかく今は勉強第一。
それにしてもこうやって誰かから勉強教わるのは、一体何年ぶりのことだろうか? 現実世界の学生時代では、教師の話など適当に聞き流していただけであったが、こうやってサンチョから教わっていると、生きていくために勉強を習うという行為がどれほど尊い行為なのかがよく分かる。
だから、だからこそである。お前ももうちょっと真面目にやらんかい!
俺は隣に座っている学友、もといリュカを見やった。
サンチョから、紙に自分の名前の書き取りを命じられていたリュカは、いつの間にか手が止まってイスの上で舟をこいでいた。
「寝るな。起きろリュカ」
「……えぅ?」
寝ぼけた声で返事が返ってくる。緩慢な動作で顔を上げ、辺りをぼんやりと眺めるリュカ。まだ夢の中にでもいるのか、うつろな目は焦点があっていない。
あ、口の端からちょっとよだれが出てる。汚ねぇな、おい。
「リュカ坊ちゃんも、もう少しユート坊ちゃんを見習ってほしいものですな」
そんなリュカの様子を見て、サンチョが苦笑していた。
「あーあ、もう。口くらい自分で拭けよ……」
俺はハンカチを取り出すと、リュカの口元を強引にこすった。これくらいやれば、さすがにこいつも完全に起きるだろう。何だか、手のかかる弟ができたみたいだ。世話を焼かずにはいられない。……このハンカチは、後で洗っておこう。
「わ、わぷッ!? ユート何するの!?」
「よだれを垂らして寝てたリュカの口の周りを拭いてる」
「いや、そうじゃなくて」
「今まさに拭き終えようとしている」
「だから、そうじゃなくて……」
「はい、終わったぞ」
「あ、ありがとう。じゃなくて!」
「ほらほら、静かにする」
「もう! ユートはそうやってごまかすんだから!」
「うるさいぞ、リュカ。そんなに騒いでていいのか? 怖~い先生が目の前にいるんだぞ?」
「……え?」
リュカが顔を上げると、そこにはちょっぴり怒りを溜めたサンチョの姿が。
「リュカ坊ちゃん? サンチョの教えは、そんなにつまらないですかな?」
「あ、えーと……。あはは」
笑ってごまかすリュカだったが、書き取りの量は倍にされてしまいましたとさ。
◇
勉強も終わり、ひとまず休憩。サンチョの作った昼食を、戻ってきたパパスも交えて一家全員で食べた後のことである。パパスがおもむろに、俺とリュカに向かって話を始めた。
「手に入った薬を煎じ終えたので おかみさんとビアンカは今日帰ってしまうらしい。しかし、女二人では何かと危ない。二人をアルカパまで送っていこうと思うのだが お前達もついてくるか?」
あー、そういえばビアンカ達はサンタローズ村に滞在してたんだよな。まだ帰ってなかったのか。
「うーん……。ユートはどうする?」
「え? 俺?」
リュカが俺に話を振ってきた。何だかここ数日、リュカがやけに俺に懐いてきている気がする。サンタローズの洞窟で助けてやったせいだろうか? 何かことあるごとに「ユート、ユート」と俺の名を呼んでくる。
読み書きの勉強の件だってそうだ。家の外で遊ぼうとしていたリュカだったが、俺がサンチョに勉強を教わると聞くと「僕もユートと一緒にやる!」と言って後に続いてきたのだ。
その結果、今日は途中で居眠りしてやがったけどもなー。やる気があるのかないのか、いまいち分からんやつである。俺は一人っ子だったので、世話の焼ける弟ができたような気分になれて満更でもないけどね。
「ここにいても暇だし、俺達も一緒に行くか?」
「うん!」
リュカが嬉しそうに頷いた。もし「俺はめんどいからパス」とか言っていたら、リュカも俺と一緒に村に残りそうだ。それはいかん。俺の幸せ計画を実行に移すためには、リュカはアルカパに連れて行く必要がある。リュカにはこの先ビアンカと仲良くしてもらって、行く末はカップルになって結婚してもらわねば。具体的に、夜のレヌール城でしっぽりと仲良くしておくれ。俺も後押ししてやるから、いっそビアンカを押し倒しちまってもいいぞ! 既成事実を作ってしまえ!
そんなことを内心では考えていたが、もちろんおくびにも出さない。リュカやパパスの前では、あくまでもいい子を演じる俺である。計画は密やかに進めるべし、だ。
「相変わらずお前達は仲がいいな! よし、そうと決まったらさっそく出かけることにしよう!」
元々、身一つでドラクエ世界に投げ出された俺。どこかへ出かけるといっても、大して荷物もない。ましてや今回は、日帰りで行けような距離にある近くの町まで行くだけだ。他のみんなも同じようで、準備に手間取ることもなく、すぐに出発することとなった。
「旦那様、リュカ坊ちゃん、ユート坊ちゃん。どうかお気を付けて行ってらっしゃいませ!」
サンチョに見送られながら家を出て、ビアンカとおかみさんに合流してから俺達一行は村の入り口へと向かった。
「おや? パパスさん、お出かけですか?」
「うん。ちょっと、アルカパの町までな」
少し歩くだけで、村中の人々から口々に挨拶の言葉が出てくる。そんな中を、軽く手を振りながらパパスは気軽に返事をして歩を進める。
「リュカのお父さんって、すごいにんきなのね」
「そうなのかな?」
「そうよ」
「僕にはよくわかんないや」
途中、ビアンカとリュカがそんなやり取りをしていた。偉大な父親の重圧とか、そういうものはまだまだリュカには無縁の年頃なようだ。
「これはパパスどの。お出かけですかな? どうぞお通りください」
「やあ、ごくろうさん」
俺とリュカがどれだけ頼んでもどいてくれなかった、村の入り口にいた見張り役の兵士は、パパスの顔を見ただけで道を開けてくれた。さすがはパパス。VIP待遇だ。顔パスとは、ずるいぜ。
村を出てから小一時間ほど歩くと、アルカパの町に呆気なく到着した。途中、魔物に一度も襲われなかったのは運がいいのやら悪いのやら。俺としては魔物はウェルカムだったんだが。迫りくる魔物の群れをバッタバッタと(主にパパスが)薙ぎ倒し、経験値をがっぽりと頂きたかった。悲しいかな、俺は未だにレベル1の身なのだ。
まぁ、アルカパの町に着いてしまったからには仕方がない。ここは涙を呑んで気持ちを切り替えよう。でも悔しいなぁ……。パパスの力添えがあれば、俺のレベルも少しはマシになりそうなのに。何で俺はレベルが上がらないんだよ、なぁ?
「ユートどうしたの? 元気ないけど、おなかでもいたいの?」
隣を歩くリュカが心配そうに声をかけてくれるけど、今は君の優しさが辛いです。だってなぁ……。リュカってすでにホイミ使えるんですよ、ホイミ。俺も使いたいよホイミ。「気がついたら使えるようになってた」とは本人の談だが、羨ましいことこの上ない。こっちがレベル1のまま苦しんでるのに、一人だけサクサクとレベル上げやがって。
「ユート、だいじょうぶ?」
うるせー、ちくしょー。主人公だからってずるいぞバーロー。富の偏在は不公平だー。
「ユート……?」
くぅ!? 何て破壊力のある目でこっちを見やがるんだ、こいつは!? これが目で殺すというやつか? そ、そんな純真な目で俺を見るな。俺の汚れた心を覗き込まないでおくれ! 思わず起き上がって仲間になりたくなるような目はやめてくれ!
「どれ、私もダンカンを見舞うことにしようか」
パパスの言葉で俺は我に返った。葛藤しているうちに、いつの間にかアルカパの宿屋に到着していたようだ。ここの宿屋の主人がダンカンさんこと、ビアンカの親父さんである。
「わたしのお父さん、病気でずっとねているのよ」
「そっか。はやくよくなるといいね」
ビアンカの説明に、相槌を打ちながら答えるリュカ。俺はあえて一歩引いた位置からその様子を眺める。
いいぞ、どんどん会話するんだ。そしてもっと仲良くなるんだ。俺はもちろん会話に加わるなんて無粋な真似はしないからな。若い者同士、二人だけで盛り上がってくれればいい。今は俺も若いけど、それはひとまず置いておくから気にしない。とにかく早くカップルになっておくれ、君達。
「お父さん、僕はどうすればいい?」
おかみさんに続いてダンカンの元へ行こうとしたパパスに、リュカが声をかけた。
「ん? おお、そうだな。リュカ、ユート。お前達、もし退屈ならその辺を散歩してきてもいいぞ」
「うん、わかった!」
パパスに返事をすると、リュカは俺の元まで小走りに駆け寄ってきた。
「ユート! 町の中を散歩してもいいんだって! どこか行く?」
「え? あ、うん。そうだね。どうしようか」
リュカよ。何故に俺の方に来るのか。あえて目立たないように下がっていたのに、リュカの方から俺のとこに来たら意味がないじゃないか。今までビアンカと話してたんだから、そっち行きなさいよ君。ちらっとリュカの背後にいるビアンカの方を見てみる。あ、ちょっと不機嫌そうだ。仕方ない、フォローしておこう。
「えーと。俺とリュカは少し出てくるけど、ビアンカはどうする?」
「お散歩に行くの? わたしもつきあうわ」
「よし、決定だ。三人で散歩に行こうか」
リュカとビアンカを引き連れ、アルカパ観光ツアーの開始だ。
◇
しかし、アルカパは町というだけあって立派なもんだ。俺は目の前に広がる町並みに目を細めた。サンタローズの村に比べると、民家も倍近くある。人が多いということは、単純に考えると栄えている証だ。武器屋だけじゃなくて防具屋まであるしなー。サンタローズの村が田舎だとすれば、ここアルカパの町は幾分か都会的だと思う。「村」じゃなくて「町」なんだから当たり前のことかもしれないが。
この町で何より目を引くのが、先ほど俺達が出てきた宿屋だ。庭付き三階建ての立派な宿屋で、現代でいうなら中堅のホテルクラスだろう。ビアンカの説明によると、実際に町の名物にもなっているらしい。
ちなみに宿屋の近くにはバニーさんがいる酒場があったので、俺はまず最初にフラフラっとそちらへ向かってしまい、導かれるように中に入ってしまった。
「こんなところにきてどうするの、ユート?」
「ここはお酒をのむところよ」
リュカとビアンカが呆れていたような気もするが、俺はバニーさんを一目見れただけで満足だ。うん、やっぱりバニーはいいな。乳でかいな、おい。眼福、眼福。
「あら、お嬢さん! 彼氏を連れて、お酒を飲みにきたのかしら!? でも、中々かわいい顔の彼氏ね。大きくなったら、きっとかっこよくなるわよ」
「か、かれし? べつにちがいますッ」
と、ビアンカがバニーさんに冷やかされて、赤い顔で慌てたりもしていた。リュカの方は何を言われているのか分からずに、不思議そうな顔をしてただけだが。フラグ成立の道のりはまだまだ遠そうだ。
……それはともかく。おーい、バニーさんやーい。ビアンカ冷やかすのはいいけど、男はリュカだけじゃなくて俺もいますよー。何で俺だけ無視するんですかー。俺は別に将来かっこよくなりそうにないというのですか? そうなんですか? 泣きますよ? 俺は心に10のダメージを受けた!
酒場を出た後は、行く先は素直にビアンカに任せた。さすが地元の人間だけあって、ビアンカの足には迷いがない。ここは教会、ここは道具屋と、子供とは思えないほどしっかりと説明しながら案内をしてくれる。
「あら、あれは何をしているのかしら?」
案内役のビアンカの言葉に、彼女の後に続いて歩いていた俺とリュカは同時に足を止めた。何事かと一瞬リュカと顔を見合わせ、すぐにビアンカの視線の先に目を向けてみる。
そこには悪ガキそうな子供二人に囲まれていじめられている、一匹の小さな獣の姿があった。