一面の雪で真っ白な大地の中に、ぽっかりと大きな穴が見えた。小高い丘を掘り下げるようにして、奥へ奥へと不気味に続いてゆく巨大な闇。
ここが件のドワーフが住むという洞窟だろう。
「意外と早く着いたわね。でも、こんな場所にドワーフが住んでるなんて本当かしら?」
「くらいところが好きなのかな?」
「そうなのかしら? まぁ、こんなところで立ち止まっていても仕方ないわね。それじゃ、さっそく入りましょうか」
「こういうとこって、なんだかワクワクするよね!」
いきなり躊躇なく入ろうとするベラとリュカに、俺は「待った」と声をかけた。
「なんで止めるのよ、ユート?」
もどかしそうにベラがこちらを振り返り、文句を言ってくる。リュカも不思議そうな表情だ。
「入った先で、魔物が待ち伏せでもしてたらどうするんだ? ただでさえ洞窟は薄暗くて先が見えないんだから、気をつけた方がいい」
君ら、少しは考えて行動してくれ。ここに来るまでは運良く魔物と遭遇しなかったが、洞窟に入った瞬間エンカウントする可能性だってあるんだぞ。油断は大敵だ。
「魔物? そんなもの、出てきたら私の魔法で一発よ! こう見えても私、魔法は結構得意なのよ。ユートは子供のくせに心配性ね」
そう豪語しつつも「直接戦うのは苦手だけどね」と小さな声で付け足すベラ。
「ぼくも、まものにかんたんに負けたりはしないよ。ゲレゲレだっているしね!」
「ガウッ!」
リュカの言葉に、元気良く返事をするゲレゲレ。
「みなさん、強気ですね……」
お前らはいいかもしれないが、こっちはレベル1なんだよ。一発でも直撃受けたら冗談抜きで死ぬんだよ。一般人をもっと大事にしてくれよ。
と、内心で思っている俺の気持ちを一切無視するように、
「そういう訳だし、グズグズしてないで行きましょう」
ベラを先頭にして俺以外のメンバーは洞窟に入っていった。薄情なやつらだ。
「はいはい、行けばいいんでしょう、行けば」
俺は重い足を引きずるように、パーティの最後方を少し離れながら着いていく。こうなったら、魔物と出会わないことを祈るしかない。いざとなったら、ゲレゲレを囮にして俺だけ逃げよう。うん、そうしよう。あいつなら野生のパワーで生き残れるはずだ。俺だけはなんとしてでも生き延びねば。
そもそも、こんな世界で急に死んだら困る。もし俺がこんな場所で死んだら、現実世界のアパートに残してきたPCがヤバい。具体的にいうと、HDDにぎっしり詰めてあるエロ動画の数々がヤバい。行方不明者の手がかりとして、親戚一同の前で暴露されるのを考えると精神的に死ねる。あれを消去せずに死んだりしたら、末代までの恥となること間違いなし。しかも俺のマニアックな趣味まで露見してしまう。だから俺は死ぬわけにはいかんのだ。
……そういえば、エロ動画とか懐かしいな。子供の体になってから性欲が減退しているが、それでも俺は男の子。たまにはエッチな本でも読みたいです。
「ユート、おそいよ~」
リュカの声が遠くから聞こえてきた。洞窟の中にいるせいか、その声は微妙に反響している。考えごとをしながら歩いていたおかげで、先頭集団と引き離されてしまったようだ。でもまぁ、そんなに気にすることもないだろう。
「ぼうっとしすぎたかな……」
洞窟の中は、外と比べるとわずかに暖かかった。だが、寒いことには変わりない。しもやけができないように、手をこすり合わせながら歩く。
「あれ?」
気が付けばしんがり最後方の俺。少し離されただけかと思いきや、リュカ達はかなり先に行ってしまっている。距離にして五十馬身と言ったところ。逆転するには、第四コーナーを出た最後の直線で一気に抜き返すしか手はない。鞍上はもちろん俺ことユート騎手。イメージではトップジョッキー。豊だろうがデットーリだろうが目じゃないぜ。
「さぁ、脅威の末脚の発揮です」
心の中で馬体に鞭を入れる。ギアをトップに入れ替え、俺は洞窟の固い地面を蹴った。目指すは栄光の三冠。最終的には海外レースも制覇だ。
と思って発進したが、
「……あれ?」
なぜか、突然つま先がむにゅっとした。まるで生き物でも踏んだような感触だ。
恐る恐る足元を見てみる。
「グルルルルルッ……!」
翼と角の生えた真っ赤で大きなトカゲが、血走った目で俺を睨んでいた。ちょうど尻尾の部分の真上には、俺の足がある。
しまった、トカゲに悪いことをしてしまった。
「いやぁ、すいません」
俺はすぐに足をどけた。
ごめんね、トカゲさん。悪気はないんです。
「じゃあ、そういうことで……」
俺はあくまで紳士的に対応し、その場を去ろう踵を返した。
────しかし、ユートは回り込まれてしまった!
「グギャアアッ!!」
赤いトカゲが咆哮し、洞窟内に声が響き渡る。と同時に、俺へと向かって一直線に飛び掛ってきた。
「うおおおおおおおおおッ!?」
体を反らせ、とっさに回避する。トカゲは俺のすぐ脇を、ミサイルみたいに通り過ぎていった。成層圏まで突き抜けていきそうな勢いだ。
「あ、危ない……」
目を下にやると、服の端がトカゲの鋭い牙で切れている。かなり丈夫な布なんだが、こうもあっさり破れるとは……。背筋に冷たい汗が伝ってきた。あのままその場にいれば、脇腹の肉を抉られていたかもしれない。
「なんて凶暴なトカゲだ……って、また来たァ!?」
再度避ける俺。今度はさっきよりも余裕がない。
間一髪。かろうじて攻撃は回避できたが、エビ反りみたいな体勢になってしまった。そのまま後頭部から落ちてしまう前に、両手を広げて地面に着地。
「こ、これは死ねる……」
薄暗い洞窟で、体は現在ブリッジ状態。しかもつま先立ちです。色々と限界が近い体は、ピクピクと痙攣している。
このまま階段を下りたら、エクソシストの名場面が再現できそうだ。なんだよこの状況。
「な、な、なぜ、俺が、こんな、目に……」
ブリッジのままでは呼吸がしにくい。息も絶え絶えの俺の目に映るのは、上下反転したトカゲの姿。次に攻撃されたら回避は不可能だ。いくらなんでも、ブリッジ体勢のままでは逃げられない。
しかし、現実はいつだって非情である。俺の都合などお構い無しに事態は動いていく。
トカゲは牙を剥き出し、後ろ足で大きく地を蹴って──。
「ユート、あぶない!」
一瞬のことだった。どこからか凄まじい速さで距離を詰めてきたリュカが、中空のトカゲを樫の杖で殴りつけたのだ。
バランスを崩し、横合いに吹き飛ぶ赤トカゲ。それでも強引に着地し、体勢を立て直そうとする。
そこに、間発入れずにゲレゲレが唸りを上げて跳躍。まるでその動きは、しなる弓の弦ようだ。拳銃から発射された弾丸のごとき勢いで飛び出していったゲレゲレに、トカゲは有無を言わさず組み伏せられる。
ゲレゲレは前足でトカゲの両翼をしっかりとホールドし、あっという間にマウントポジションを奪い取った。
「ガウッ!!」
暴れるトカゲを野生の馬鹿力で抑え込むと、ゲレゲレは大きく口を開いた。口から突き出している二本の大きな牙の先から、唾液がポタリと滴り落ちる。今のトカゲには、あの牙は死神の鎌に見えているかもしれない。殺意には殺意を。これが、弱肉強食の摂理。ゲレゲレは目を細め、対照的にトカゲは死の恐怖に大きく目を見開いた。……そこから先はあまり語りたくない。
俺は立ち上がると、できるだけ耳を塞ぐようにしながら後ろを向いた。背後では、肉を噛みちぎる音と血飛沫が飛び散る音が交互に不協和音を奏でている。時折、断末魔の悲鳴が上がるが、それもだんだんと弱々しくなり、やがて声は完全に途切れた。最後には、ゲレゲレが何かの肉らしきものを咀嚼する音だけが残った。
「聞こえない、俺には何も聞こえない」
聞こえないふりをする俺。ゲレゲレさん、グロいです。どこぞの人造ロボじゃないんだから、敵を食わないでください。
一方リュカは、そんなゲレゲレを見ても割と平気な顔をしている。俺の視線に気付くと、リュカは「どうしたの?」と首を傾げた。
なんというデカルチャー。この世界の住人のバイタリティは高すぎる。
「ユート、怪我はない?」
リュカに少し遅れて、ベラも俺の傍までやって来た。
「どこか痛いところがあるのなら、私のホイミで治してあげるわよ」
「いや、大丈夫。怪我はないよ」
「そう? それならいいわ」
「しかしまさか、トカゲに襲われるとは……」
「トカゲ? あなた、何を寝ぼけてるの?」
ベラはやれやれと言うように首を振る。
「さっきのあれはメラリザード。れっきとした魔物よ。マ・モ・ノ!」
「そ、そうだったのか!」
衝撃の事実発覚。どうりでトカゲにしてはでかいし、翼があるし、角まで生えてると思った……。洞窟に入る前、あれだけ偉そうに魔物に気を付けろと言っていた俺だったが、これでは本末転倒だ。
「ユートがちゃんとついてこないからだよ。一人でいったらあぶないよ」
「すんません」
いつも一人で大冒険しまくってるお前が言うなとツッコミたかったが、俺は素直にリュカに謝っておいた。
「でもユート、ケガがなくてよかったね」
「怪我はなかったけど、旅人の服では防御にちょっと不安があるなぁ……」
メラリザードに食いちぎられた服の端を見て、俺はそう思った。
リュカのように、皮の鎧を服の下に仕込むか? しかし、問題は金が……。リュカに借りるのも情けないしなぁ。
「ええい! いっそ、リアクティブアーマーでもあれば!」
「りあくてぃぶ? 何よ、それ」
ベラからの質問。横文字が変な発音になっているが、そこはご愛嬌というものだろう。
「爆発性反応装甲だよ。反作用の力で被害を軽減するんだ。あれさえあれば、対戦車ミサイルが相手でも耐えられる」
「……ごめんなさい。ユートが何を言ってるのか、私にはさっぱり分からないわ」
ああ、俺もM-60になって大地を駆け巡りたい。
でも現実的に考えたら、ケプラー材を布に縫い込む方がまだ可能かな? この世界の防具は見かけと違ってチートな性能があったりするらしいし、身かわしの服辺りにケプラーを縫い込んだら、SASが裸足で逃げ出すような凄まじい防具が完成するやもしれん。いや、しかしケプラー繊維だと重量に問題があるな。
「子供の体ということを考慮すると、素材はケプラーではなくて比較的軽量のスペクトラを……」
「また何か言い出したわね……。リュカ、あなたにはユートの言ってること分かる?」
「ぼくにも分かんないや。ユートはときどき、こうやってむずかしいこと言うんだよ」
男の浪漫を介さぬ者どもめ。まぁ、話に付いて来られても、それはそれで別の意味で驚くが。
「ふにゃあ」
気の抜けた声が足元から聞こえてきた。目をやると、地獄の殺し屋ことゲレゲレが俺の足にすり寄っていた。前足を軽く動かしながら、しきりに何事かを訴えかけている。
「一体なんだ? 俺に何を言いたいんだこいつは?」
「ユート、ゲレゲレはほめてほしいんだよ」
リュカがそう言うと、
「ガウガウッ!」
と、ゲレゲレは正解だと言わんばかりに鳴いた。
「褒める? あ~、なるほど」
魔物を倒したのを褒めてほしいのか。よろしい。俺がじきじきに賞賛してつかわそう。
それにしても、リュカはさすが未来の魔物使いだけあって、ゲレゲレと意思疎通ができるのか。中々やるな。
俺はその場で屈むと、どことなく得意そうな顔をしているゲレゲレの頭を撫でてやった。
「ふにゃ……」
だらしのない表情で、ゲレゲレは満足そうに喉を鳴らす。すると、弛緩したゲレゲレの口端から一筋の液体が流れ落ちてきた。
まるで血のように真っ赤なそれは、俺の服にドス黒い染みを作っていく。みるみる広がっていく染み。辺りに充満してくる生々しい臭気。
「……って、これさっきの魔物の血じゃねーか!? うおおお、汚ぇええッ!?」
ゲレゲレから飛び離れると、俺は服の中央を掴んで端を振り回した。当然のことながら、そこら中に血が舞い散る。
「きゃあッ!? ユート、何するのよ!?」
「うわ、ぼくにもかかった!」
周りにいたベラとリュカから悲鳴。だが、悲鳴を上げたいのはこっちの方だ。このクソ寒い中で服を脱ぐわけにもいかないし、何よりも脱いだら死ぬ。防御力的に。
「うおおおおッ! 臭い! そして汚い!」
大騒ぎする俺を見て、ゲレゲレが不思議そうな顔をしているのが腹が立つ。お前のせいだ、お前の。人様の服に生臭いもの付けやがって。
「くそ、こうなったらリュカとベラにも血を付けてやる! 道連れだ! ゲレゲレ、来い!」
「ふにゃあッ!?」
俺はゲレゲレを抱えると、二人に向かって相変わらず血が垂れている口の方を押し付けた。
「ちょ、ちょっとこっちに来ないでよ!?」
「ユート、やめてよ~!」
追い掛け回す俺。逃げ惑うエルフとお子様。ドワーフが住むという洞窟は、たちまち阿鼻叫喚の地獄と化す。さっきの魔物の襲来よりも被害が大きいと思うのは、気のせいだろうか。
みんなでグルグルと洞窟内を走り回っていると、いつの間にか一人のドワーフがこちらを見ていた。
「お前さんら、人の住処の前で何やっとるんじゃ……」
ドワーフは呆れた声でそう言った。