早朝。
元の世界でいう六時頃、竜騎士たちが空を舞い始める。飛竜は繊細な生き物で、馬厩に押し込んでいるとストレスで弱ってしまう。戦闘で酷使しても潰れない飛竜を作るために、運動させておくという意味もある。
それに付き合わされる竜騎士も気の毒だなー、と思いながら、ナーシェンは領主館の庭を横切った。
空中の騎士たちから「あ、ナーシェン様だ」「ナーシェン様ー! 今晩お酒でもどうですか?」「もちろんオゴリで」「朝から気が早いな、お前ら……」などという会話が投げられ、ナーシェンの額に青筋が浮かぶ。
「美しいナーシェン様ー、お酒くれー!」
美しいと言えば何でも許されると思っているのか、貴様らは。
「こいつら、まだ対弓兵訓練が足らなかったようだな」
竜騎士特有の地獄耳でナーシェンの呟きを聞き取った竜騎士たちが「うげっ」と潰れたカエルのような声を出し、四方に飛び去った。
エレブ大陸では重要な位置を占める航空戦力である飛竜や天馬であるが、それらは総じて弓矢に弱い。翼を穿たれてしまえば、あとは落下するだけである。しかも、竜騎士や天馬騎士は重たい鎧を着込んでいる。落馬するよりも死ぬ確立は高いのである。
自然、対弓兵訓練には気合が入るのだが、この訓練が地獄だった。
「ふん、軟弱者めが」
ナーシェンはしてやったりと笑みを浮かべるが、その瞬間、拳大の塊が高速で迫り来るのを見て表情を変えた。
飛竜のフンである。
「のわぁぁぁぁぁぁ!」
クソ塗れになったナーシェンを、フンもしたたるいい男と騎士たちが賞賛し、ナーシェンが対弓兵訓練を言いつけるのは半刻後のことだった。
それから、朝風呂に入ったナーシェンは衣服を整え、再び庭を横切り、領主館の隣に建てられた大きな木造建造物に入る。外から見れば穀物子のようである。その入口に、百人前後の人々が集まっていた。年齢は十二歳から五十歳まで様々だった。
時刻は、八時頃である。
「おはよう諸君。今日も寒いが二度寝して遅刻した者はいないか?」
集まっているのは地元の農民たちだった。
朝の農作業を終えて、それからやってきたのだろう。土で汚れている者が多い。
「そろそろ皆も一ヶ月、ここで働いていることになる。もう仕事には慣れただろう。だが、詰まらないミスが増えるのはこの時期だ。気をつけてくれ。あと、風邪が流行っているようだが、体調が悪い者は手遅れになる前に言ってくれ」
むしろ、周りの者にうつす前に休むこと、と伝える。
「では今日も一日頑張ってくれ」
ナーシェンがそう言うと、彼らは礼をして各々の持ち場に散っていく。
ここは、いわゆる製紙工場だった。
製紙工場といっても植物の繊維を剥いだり、それを鍋で煮込んだり、網に広げたりする作業を分業するための建物で、設備費は微々たるものである。だが、集団で分業することで、生産性や品質が大きく向上する。
この時代、紙は貴重品だった。
だが、製紙法はすでに編み出されているのである。それでも普及していないのは、現在の国家体制に原因がある。
前の世界でも多くの権力者が行っていた専売制――紙や塩などを政府が買い上げ、莫大な利潤を上げる方法である。紙はこちらの世界では税(貢納)として紙を徴収しているので、集団分業という概念が生まれておらず、生産性が著しく悪い。
家庭内製手工業と工場制手工業の差である。
ナーシェンは製紙こそ国を発展させるものだと考えている。
「封建制の完成は少数のサディストと多数のマゾヒストで構成される……ってシグルイに書かれていたけど、俺はノーマルだからな。ロリコンでもないからな」
とはナーシェンの言い分である。
だが、悪政を布けばゼフィールに始末される恐れがあるからというのが本当の理由だった。誰だって死にたくはないものである。
【第2章・第4話】
無人の聖堂では、ひとりの男が床に跪いていた。
両目を閉じ、両手を固く結んで神に祈り続けているその姿は、まさに敬虔なる神の教えの体現者というべきものであった。
「神よ。私はどうすればいいのですか……?」
答えのない懇願。
人は道に迷った時、神頼みする。
それは、サウエルとて同様であった。
「おお、神よ……」
サウエルの両目から水滴がこぼれる。
かつては金稼ぎの道具としか考えていなかったエリミーヌ教だが、サウエルは今、心の底から救いを求めていた。
が、時すでに遅し。
すでに領内には「サウエル司祭はロプト教の信徒で、夜な夜な生け贄にすべく若い女子を探し回っている」や「サウエル司祭は幼い子どもを邪教の尖兵にすべく拉致している」などといった噂が流れてしまっている。
謂れのないことであったが、領民の大半はこの根も葉もない噂話を信じてしまっていた。
無人の聖堂が、彼の行動の答えであった。
「サウエル」
その時、無心に神に祈り続けるサウエルの背に、しわがれた老人の声がかけられる。
振り返り、その人物を確認したサウエルの瞳が、希望に輝き始めた。
「オルト司教!」
金糸が織り込まれた、豪奢な法衣に身を包んだ老人である。老齢でありながら背筋は伸びており、頭髪は雪のように真っ白であったがまだ豊かであった。
「聞いて下さい、オルト様! 偉大なる神の教えを信奉する我らの民が、あの忌々しい侯爵家の小倅の言葉に誑かされてしまいました!」
「聞いている、サウエル。大変だったようだな」
老人は残念そうに溜息を吐く。
オルト司教。エリミーヌ教会に属する、五人の司教の内の一人である。
司教の権力は大貴族に勝るとも劣らないと言われており、事実、司教はベルン・エトルリアの両国に影響力を持っていた。
子飼の神官、司祭は数知れず、サウエルも司教の派閥に属していた。
「しかし、残念だ。金になりそうな領地だったのに、本当に残念だ」
「オルト様?」
「……サウエル。お前、エトルリアの中央教会に釈明に行ったら、そのまま謹慎していろ」
「オルト様!? 私は……私は……っ!」
オルトはサウエルから背を向ける。
新たに現れた鎧を着た兵士(教会の兵士は要人の警護や教会の警備に用いられ、僧兵といわれる)がサウエルに槍を突きつける。オルトはかつての腹心が拘束されるのを冷めた目で眺めた。
「本当に、残念だ。君は金になる部下だったのだがね」
サウエルから司教に流れ込んだ金の額は、二人しか知らないことだった。
―――
昼間。
どこぞで陰湿な策謀が練られていても、ナーシェンの日常は変わらない。
内政の中枢を司るバルドスが、現在、ナーシェンの父親に呼び出されて王都に向かっているため、その分の仕事がナーシェンに圧し掛かっていたりする。
物凄く忙しい――はずなのだが、ナーシェンはまったりと茶をすすっていた。
「………はぁ……………」
ナーシェンは書面を眺めながら溜息を吐いた。
元気がない、と言えるだろう。
ここ半年、精力的に政治に参加してきたナーシェンは、弱音も泣き言も言わなかった――わけはなく、何か起こる度にひたすら身内に愚痴り、泣き付いていた。だが、人前では決して表情の陰りを見せたことはなかった。
憑依して半年。
ナーシェンは確実に精神的に参っていた。
平和な国、日本のしがない学生だった男である。
山賊団を殲滅したり、罪人に死刑を言い渡していれば、心が病んでも仕方がないのかもしれない。
生き残るために必死で、原作の流れなどを意識している暇がない。
ひたすら我武者羅に現実と立ち向かい、ただひたすら疲れていた。
溜息がひとつ。
ナーシェンは書類に目を向ける。だが、中身が頭に入ってこない。
ふたつ目の溜息。
今の生活に欠けているものがある。それはもう、ナーシェンは理解していた。
――米、醤油、味噌。
「麦を炊いてみたけど何かが違うんだよなぁ……」
ひとまず米である。大豆は後回しだ。
ナーシェンは思い返す。茶葉を探す時に、領内に自生している植物を調査しているが、米のような植物は見付かっていない。
小麦はあるのに、米がないとはどんなだよ。
これがファンタジー補正なのか。
「ま、ともかく、溜息を吐いていても米は見付からないか」
不毛な考えを打ち切り、書面に目を戻す。
そこには製紙工場の収益が書かれていた。
二枚目の書類には、そこから捻出した費用で製糸工場を建築する計画についての報告が記されている。
三枚目に茶の農園、四枚目に街道の整備計画についてが記載されていた。
一枚目が最優先、四枚目が後回しにするものである。
だが、同時に遂行していかないと間に合わないだろう。時間は有限である。ナーシェンは書類を脇に抱えながら立ち上がった。
瞬間、視界がぐにゃりと歪み、膝から力が抜け落ちる。
「う……こ、これは……」
ナーシェンはふらりと壁によりかかり、そのまま床にずり落ちた。
そして、耳鳴りと同時に視界が暗転する。
貧血の症状だな、とナーシェンは冷静に自己分析していた。あと数秒で気絶するだろう、と確信できた。これは、本格的にやばそうだ。
憑依して半年。
一日も休まずに働き続け、気が付けば十三歳の誕生日を過ぎていた。
つまるところ、過労であった。
―――
ナーシェンが倒れてから半日後、エリミーヌ教会から使者がやって来て、次のような文書を叩き付けるように置いていった。
その内容を要約すると――、
・サカ教に関するすべての発言を撤回すること。
・サカ教の存在を否定し、領民に触れ回ること。
・エリミーヌ教会に多大な迷惑をかけたことを自覚し、五万ゴールドの賠償金を支払うこと。
・以上のことが七日以内に実行されなかった時、エリミーヌ教会はナーシェンを破門する。
ということである。
ナーシェンはこの後、熱っぽい身体に鞭打ってエトルリアの知り合いに手紙を送った。手紙をしたためている最中は意識が朦朧としていた為、ナーシェンは手紙を出したことすら忘れてしまっていた。