「皆さん、今日もお勤めご苦労様です」
痩せ細った男だった。眼窩は落ち窪み、頬骨は出っ張っており、おおよそ法衣というものが似合わない男である。そんな男が聖堂の檀上に昇り、集まった者たちに聖書からの引用で生き方を説くのが、この男の仕事だった。
サウエル司祭。
男は人々にそう呼ばれている。
「聖女エリミーヌは病気の老人を見てその御心を痛められ、杖を一振りしました。すると、どういうことでしょう。足腰が弱っていて歩くことすらままならなかった老人が、スッと立ち上がったのです。多くの者が彼女の杖を欲しがりました。エリミーヌは悲しそうな顔をしながら『この杖は己自身には使えないのですが構いませんか』と言いました」
男がライブの杖の由来を語っている時だった。
聖堂の扉が音を立てて開かれた。
サウエルの眉がしかめられる。
遅れて入ってきた村人の女性は、罰の悪そうな顔をしながら椅子に座った。
「アンナ」
「は、はいっ!」
「時間に遅れても神への祈りを忘れなかったことは評価します。ですが、神はあなたの怠惰の心に気付かれたことでしょう。ああ、嘆かわしいことですが、私は今、あなたから神のご加護を感じることができないのです!」
痩せ細った男に饒舌に語りかけられ、女性はビクリと身をすくませた。
そして、おずおずとサウエルに質問する。
「し、司祭様。わ、わたしの神のご加護が失われたのですか?」
「残念なことですが……。神は信仰の念を失った者までお救いになられるほど寛容ではありません」
「わ、わたしはどうすれば……?」
不安そうな顔をする女性に、サウエルはニコリと微笑んだ。
「ここに、一枚の札があります」
それは、ただの木彫りの板であった。
「私が神に祈りながら彫った物です。この札を持っている間は、あらゆる厄災があなたを避けて通ることでしょう。その間に、時間通り教会に通いなさい。そして、神に祈りなさい。神は必ずや救いを求めているあなたを見つけられることでしょう」
「はい! ありがとうございます!」
サウエルは女性に札を差し出しながら、こう言った。
「はい、一口三百ゴールドになります」
「……はい?」
【第2章・第3話】
密偵の報告に、ナーシェンは形のいい眉に皺を寄せた。
「それは事実か?」
「はい。村人に聞き込みを行いましたが、司祭の口車に乗せられて札を買わされた者は軽く二百人を越えています。ターゲットは庶民から商人まで、節操がないですね」
「そんなになるのか……」
「司祭は総額で十万ゴールド以上の利益を上げているようです」
「………………」
ナーシェンは呆れ果てた。
領地にある教会がたった一つということも原因なのだろう。サウエルの教会は、領内の信心深い者が集まる場所になっていた。
サウエルは聖職者としては凡庸な人物のようだが、詐欺師としては一流のようだ。
要するに、免罪符である。やり方は中世欧州で流行し、ルターがぶち切れて別宗派をつくる原因になったものと変わらない。何がこの符を買えば神はあなたをお許しになりますよー、だ。サウエルがやっていることは信仰に対する冒涜である。
たしかルターはカソリック教会から破門されたのだったか。
ナーシェンは密偵に数枚の金貨を渡してから退室させ、バルドスに目を向けた。
話を聞いている間、この老将は口ひとつ挟まなかった。
「騙される方も悪いと思いますがね」
「お前ならそう言うだろうと思っていたさ……」
不器用な男である。
事が露見したのは、病気の者を抱える家から餓死者が出たからだった。サウエルは薬代を稼ぐために教会に通えなくなった者にまで札を勧めたのである。薬代と免罪符代の二つから追い詰められた一家は満足な食事を採れなくなり、餓死者を出すまでに至った。
その報告を聞いて最初に不審に思ったのはバルドスである。
彼はまず備蓄してあった兵糧を解き放ち、村人の飢餓を解消させた。これはナーシェンのものではなく、バルドス自身の資財を投入してのことである。
「ともかく、費用については後でまとめて提出してくれ。村への救済費は当家で負担しよう」
「いえ、ですが……」
「勝手にやったことと言って部下の働きに報いなければ私の名に傷がつくからな」
信賞必罰は公正に行われなければならない。
それを聞いて、バルドスは表情を笑みに歪めた。
「不器用ですなぁ」
「お前ほどではないさ」
二人は苦笑する。主君も主君なら、部下も部下だった。
「しかし、やはり、露見するのが遅れたのは減税の所為か?」
「おそらくはその通りかと」
ナーシェンの減税政策が上手くいって、それまでその日の食料に困窮していた人々の生活に、若干の余裕が出てきたのである。サウエルの免罪符は、その隙を見事に突いていた。
絶妙なのは三百ゴールドという価格設定である。お遊びの気分で手を伸ばすには高価すぎるが、それで救いを得られるならまだ良心的かな、と思えるような価格帯。
ナーシェンは紙にインクにひたしたペンを走らせた。
「各村に早馬……いや、飛竜を飛ばして、これと同じ内容を掲示してくれ」
「はい、わかりま……え? これは……」
「さぁて、今日は忙しくなるぞ! 暇を持て余している騎士は集まれー!」
執務室を飛び出していく主君の背中に、バルドスは正気かと疑う目を向けた。
「一体あのお方は何をなさるつもりなのだ?」
それに答える者はどこにもいなかった。
―――
村々へ領主が何かを通知する時は、通常は馬に乗った見習い騎士が派遣される。
だが、今日は竜騎士が派遣された。
竜騎士が派遣されるのは、敵軍が攻めてきた時など、急を要する場合だけである。なので、すべての村人が恐怖にすくみ上がり、大急ぎで広場に集まった。中には家財道具をまとめてきた者さえいるほどである。
大抵の村には広場があり、その隅っこに掲示板が設置されている。
ジードは大勢の目に見つめられ、緊張しながら村の掲示板にその紙を張り出した。
その文面を見た村人たちは、一様に眉をひそめた。
『諸君。私はベルンで最も美しい男ナーシェンである。突然だが、私はサカ教に改宗することにした』
意味がわからない。まったく意味がわからない。
「おい、わざわざ竜騎士まで飛ばしてこれは何だ!?」
「い、いや、俺に聞かれても……」
村人が締め上げる勢いでジードに掴みかかる。
その時である。
総勢二十騎の騎兵が、広間に突撃した。
敵の軍勢と早合点した村人の間から悲鳴が上がる。
「やあやあやあ! 諸君! 黄色い悲鳴を上げてくれて私は嬉しいぞ!」
その先頭にいるのは、ジードの主君だった。
……何をやっているんだ、あの人は。
ジードはナーシェンから貰った頭痛薬を口に含んだ。ちなみに、この薬はある侍女が処方したものだそうだ。ナーシェンは頭痛薬と胃薬を常に携帯しているらしい。
ジードはこの薬を貰う時、主君に「頭が痛いの? ならこれを飲みなよ」と言われ、「あなたが大人しくしてくれれば、俺はこんな薬に頼らなくて済むんですがね」と思わず嫌味を吐いてしまった。普通の領主なら処断されるべき言動だが、最近はどの騎士からも容赦がなくなってきている。
行動は意味不明なナーシェンだが、意外なことに村人からの風当たりは弱かった。
まことに納得のいかないことであるが、ナーシェンは為政者としては有能だった。画期的な減税政策は言うまでもないだろう。そして、すべての領主が有している裁判権だが、ナーシェンはそれを濫用することは決してなかった。領民の問題を、公正かつ納得できるやり方で裁いていった手腕は、熟練の能吏に匹敵すると言われたこともあるそうだ。
「善良なる私の民よ! 私は今朝、非常に残念な報告を聞かされた!」
ナーシェンは声を張り上げる。
「エリミーヌ教のファッ○ン坊主のことである! 私も未だに信じられないのだが、サウエル司祭は邪神を信奉しているロプト教の信者だったのだ! あやつは夜な夜な村を徘徊し、邪神に捧げるための生け贄を探しているのである!」
「いや、ロプト教って何だよ」
ボソリとこぼしたジードの言葉は、村人の総意だった。
「私はうんざりした。もうエリミーヌもロプトもクソ喰らえ、と思った。そして、ならいっそのこと神なんて信じなければいいんじゃね? ということに思い至ったのだ!」
馬から降りて両手を広げるナーシェンに、すべての目が注がれる。
だが、ナーシェンは欠片たりとも動じない。
「サカ地方では空を父、大地を母と考えているそうである。日の光と月の影、そして万物の理、風、雷、炎、氷。この世に生まれた者はいずれかの加護を受けて生まれるのである。これがサカ教である。この宗教の便利なところは、お祈りなどをせずとも心の内で信じればいいというお手軽さ。そして何より、金がかからないというところにある」
ナーシェンが背後に控えていた騎士たちに目配せする。
二人の騎士が剣を抜き、低くしゃがみ込んだ。
分厚い手袋をした二人の騎士が、剣の切っ先を握りこむ。
「私はサカ教に改宗し、エリミーヌ教の神の加護を失った。だが、神の加護がなくとも、空が、大地が、あらゆるものが私を厄災から守ってくれる」
ナーシェンは呟き、裸足になって刃の上に足を乗せ、両手を広げた。
固唾を呑んで演説に聞き入っていた村人たちから悲鳴が上がる。ナーシェンは「だから、黄色い悲鳴を上げないでくれたまえ」と苦笑しながら、剣の上に直立した。
「見たまえ! サカ教に改宗すれば、このようなことすらできるようになるのである!」
ナーシェンはこの後、熱心なエリミーヌ教信者に「君はもうサカの教えを信じ始めているな?」と言い、同じことをやらせてみせた。これを見せられた村人たちは、段々とエリミーヌ教から離れていくことになる。
包丁を腕に当てて「ほら、切れませんよ?」と言うようなものだったが、すべての村人が騙された。かく言うジードですら「ナーシェン様すげぇ!」と賞賛したという。ぶっちゃけ、前の世界では使い古されて笑いの種にすらならない詐欺の手法なのだが。
詐欺師としての器は、サウエルよりもナーシェンの方が大きかったらしい。