サカ後方から進軍していたブラミモンド軍は、ブルガルの手前、2000人規模の村近くに駐屯していた。ブルガルの近くのため比較的発展しているが、狩猟民族の村なので小規模なのは変わらない。街並みを見れば少しは賑わっているように見えるだろうが、それもブルガルから脱走してきた民衆がいればこそである。
ナーシェンは小高い丘に立ち、ブルガルから立ち上る炊き出しの煙を見ていた。
「出陣は明日だそうだ。あの煙は、冥土への旅路に備えて腹を膨らませておくためのものだった……」
「実際に確認したんだな?」
「ああ……ジュテ族の連中は悲壮な顔をして飯をかき込んでいた。通夜のようだった」
「ふむ、正信さんはこちらが命ずるまでもなく連中の家族を掌握しているみたいだな」
周りには、ナーシェン以外の姿はない。実際は剣士隊の兵が護衛しているのだが、その姿を見つけるのは素人には不可能だった。
そして、ナーシェンの会話相手は熟練の剣士たちですら見付けられないほどの完璧な隠形を行っていた。傍目にはナーシェンは幽霊と会話しているように見えるはずである。一般人に見られたら、また新たな悪名が付け加えられるだろう、この日のナーシェンであった。ブラミモンド・オブ・メルヘン・ナーシェン。
あまりに格好いい異名に泣きそうになる。
「では、後は正信さんを逃がすだけだな。うっかり巻き込んで殺してしまうと色々とまずい。まぁ、あれは殺しても死なない男だが」
ちなみに、正信さんとは内通者のコードネームである。別名、サドの神。
何せ、打ち合わせもせずに勝手に焦土作戦を実行するような男だ。ナーシェンが阿吽の呼吸でその意図を読み取り、敵の背中を叩いたからよかったものの、並の将なら考えなしに突っ込んで大火傷しているところだろう。切れすぎる刃物は、敵だけでなく時には味方にすら向かってくるから恐ろしい。
ナーシェンが思考に沈み込んでいると、くいくい、と袖が引っ張られた。
五歳前後、幼女。サカ人特有の黒髪である。瞳の青は、エトルリアかイリアの血が混じっているからだろうか。
「なーさま、ちょこれーと、ください」
「ああ、少し待ってろ。えっと、1/80ナーシェンさまチョコレート飴だ」
腰に括り付けた布袋を取り外し、そのまま幼女に押しつける。中にはデフォルメされた六個のフィギュア……もとい、ナーシェンを模ったチョコレートもどきが入っていた。溶かした砂糖に黒っぽい粉を突っ込み、職人の手によって作られた鋳型で固めた飴である。
気障っぽく髪をかき上げている金ワカメに、大人たちには大不評だったが、子どもたちは何をトチ狂ったのか“かわかっこいい”と言って口に放り込んでいる。
占領地で子どもたちに大人気! を実現するために、サカ侵攻後に開発された新商品だった。大量の砂糖を消費するため大赤字だったが、その程度ではブラミモンドの経済基盤は揺るがない。先行投資のようなものだと割り切り、ベルンの兵士が占領地で必要以上に怯えられないために、そこら中で子どもたちにばらまいていた。……だが、モデルをナーシェンにしたのが不味かったのか、人気が出すぎて直接ナーシェンのところにやってくる子どもが増えているのが現状である。
「わーい! なーさま、ありがとう!」
「あまり食い過ぎるなよ、ピザになるから」
「ぴざって?」
「お嫁の貰い手がいなくなるってことさ」
「やだ! ぴざいやー!」
舌っ足らずな言葉で泣きながらナーシェンに抱きつく幼女。見守っていた剣士たちは微笑ましさに顔を見合わせる。
そんな占領地のハートフルなワンシーンの中、鼻歌を口ずさんだ青髪の少女がやってくる。
「あ」
泣いている幼女に抱きつかれているナーシェン。婚約者に見つかった。
【第8章・第9話】
焦土作戦、瓦解する。
策が破れたという事実をようやく受け入れたゲクランは、もはや小手先の策謀ではどうにもならないと悟っていた。手を引くべき時期を逸したということにも遅まきながら気付いていた。ここにきて焦土作戦も裏目に出始め、物資を強制徴収した各村で暴動が起こり始めており、サカの地でジュテ族の支配体制を構築するのは不可能になっている。
ブラミモンド軍は後方の拠点を次々と落とし、明日にもブルガルに迫る勢いだった。規律を遵守し、占領地で略奪を行わないベルン軍に、他国の支配に怯えていたサカの民は、むしろこれまでの支配体制にはない好意を持っている。民には飴を舐めさせて骨抜きにし、それから溢れ出た分だけ搾り取れというナーシェン統治学の本領であった。
名付けて『ぎぶみーちょこれーと作戦』。
くれぐれも・れいぷはするな・うちくびだ。ナーシェン川柳。理解できる者はエレブにはいない。
「ふ、はは……見事だ、ナーシェン」
ブルガルの政庁、ゲクランは深く椅子にもたれかかり、天井を見上げて息を吐いた。弟エマヌエルが奔走して、成人していない若者や引退した老人などを強制徴用し、どうにか500の兵を集めていたが、迫り来る敵軍は、抑えの兵と併せて2000の正規兵。どう足掻いても、押し流されるのが関の山だろう。
(ブルガルから落ち延び、エトルリアに逃げ帰るか。いや、抜け目のないブラミモンド公のことだ。私が脱出しようとすれば、調略されていた部下が完全に私を見限り、私の首代を手土産に寝返ろうとするか。となると、エマヌエルすら信用できんな。だが、誰の助けもなくエトルリアに帰国できるとは思えない)
となると。
「バルドスとモンケに兵を率いさせ、ブラミモンド公にぶつけるか。隙が出来れば、抜け出すことも……」
ゲクランは脳裏にその光景を描いてみた。不可能ではないはずだ。困難なのはわかりきっているが、自分ほどの能力があれば監視の目をかいくぐってエトルリアに戻り、今度はエトルリアの大軍を指揮してサカを取り戻すことも出来るはずだ。そう、古来より英雄とは絶望的な状況から勝利を勝ち取ってきたのだから。英雄の素質があるゲクランに、それができないわけはない。
「ふっ、ははっ、そうだ。私は強い。私は賢い。私は正しい。誰よりも、誰よりもだ」
呟いて、部屋を出た。
途中、少年とも青年とも呼べる年齢の剣士とすれ違う。まだ顔に幼さが残っているか。わずかに血の臭いがしたが、現在のブルガルではそう珍しいことではない。サカ兵の現在の仕事が、暴徒の鎮圧だからだ。暴発した民衆は、見せしめにするためにすべて斬っている。
ゲクランは赤いサカの服を着た剣士を見送ると、モンケの寝室に向かった。
「む……」
そして、立ち止まる。
侍女が床に座り込んでいるのである。へたり込んでいると言うべきか。そして、失禁している。両手で口元を覆いながら、蒼白な顔をモンケの寝室に向けていた。何か恐ろしいものでもあるのかとモンケの寝室をのぞき込み、ゲクランは絶句した。始めは何時の間に深紅の絨毯に新調したのかと錯覚したほどだ。
床一面にぶちまけられた血。
見張りの兵士はご丁寧に皮一枚を残して首を落とされ、もう一人の兵士は逃げようとしたのか背後から斬られている。
砂城の王は、こぼれ落ちた臓腑をかき集めようとしている体勢で事切れていた。
「……ふむ、自害したわけではなさそうですな」
ジュテ族の栄華を夢見て、統一王朝を作ろうとしていた王。操り人形にされていることにも気付けず、エトルリアに踊らされてきた男。
愚物で、取るに足らない能力しか持っていない男だった。
「下手人はジュテ族とは考えにくい。まぁ、ゼロではありませんが。となると、従属していた他部族が怪しいですな」
「……おまえは」
「少なくともこの事実は秘すべきでしょう。ジュテ族の長が暗殺されたと聞かされれば、ただでさえ戦意の低い末端の兵士がことごとく寝返るのは目に見えております。しかし、困りましたな。おそらく決戦では総大将になるはずだったモンケ殿が志半ばで倒れ、ご子息すべてが討ち死にした今となっては、兵を率いる者がおりませぬ」
ここは、ゲクラン殿とエマヌエル殿に尽力して頂かなければ。
そう呟くバルドスの、氷のような無機的な目を見て、ゲクランの背筋に震えが走った。
(まさか……)
「まさか、ベルン人の私に兵を率いよと命じられることはないでしょう。ゲクラン殿?」
まさか……。まさか……!?
「貴様、寝返ったか!? 何時からだ?」
「おや、やっと気付きましたか」
老人、バルドスは異なことを聞くものだと柔らかく微笑んだ。悪魔の嘲笑。そのように見えてゲクランは愕然とする。
「貴様は、息子の命がどうなってもいいのか」
よく考えてみれば、こちらの情報が敵側に伝わりすぎていたように思える。味方の兵も脱走しすぎだ。いくら形勢が不利とはいえ、まったく文化の異なる他国の軍にあっさりと寝返るにしては動きが速すぎた。手引きした者がいるはずだった。
まさか、最初から寝返っていたとでも言うのか。
戦慄するゲクランの問いに、バルドスは淡々と答える。
「愚問ですな」
「……貴様がそこまで冷徹だったとは、甘い認識だったか。いや、それでなくては鬼謀と恐れられはせんか」
「甘いのは認識ではなく監視ですな。あなたがやったことは謀略家を気取って部屋に籠もって戦略を練るだけで、部下の掌握など実務方面を怠り、地下牢のことも部下の報告だけで自らの目で確かめなかった。事実、あなたには謀才はあった。こと謀殺においてはエトルリア随一と言ってもいい。ですが、才に溺れましたな。得意な分野だけでは戦争はできませぬ」
目眩がした。
「では、貴様の息子はすでに……」
「ナーシェサンドリアで療養中ですな。夫婦共々、穏やかに過ごしておりますぞ」
「クッ、結局すべて貴様らの手の平の上で踊らされていただけか」
ゲクランは歯がみする。
では、焦土作戦を提案したのも、サカの民心をジュテ族から引き離すためだったのか。ベルンの支配をやりやすくするための策謀だったのか。
「……で、貴様は私に何をさせるつもりだ」
モンケを始末したのだ。となれば、ゲクランを殺せない理由はない。バルドスはゲクランを生かしていた。まだ使い道があるからだ。
英雄、か。ゲクランは鼻で笑った。せめてもの抵抗に自害してやろうかと考えている自分が、果たして英雄と言えるのだろうか。
バルドスも、鼻で笑った。小さく「邪魔なのですよ」とせせら笑う。
「ジュテ族の兵士が邪魔なゆえ。貴殿を殺して無血開城させることも無理ではないが、ジュテ人を降兵として受け入れるには、彼らは略奪の甘さを覚えすぎている。かと言って解き放てば賊徒と化して後の支配に差し障る。根切りにすればサカの支配が恐怖によるものになってしまう。彼らは戦場でことごとく殲滅されるべきということですな。ゲクラン殿にはその兵を率いて貰います」
あまりにも……あまりにも……冷徹な言葉に、ゲクランは打ちひしがれる。
「そ、それなら……わ、私である意味はない。モンケでいいのではないか」
「モンケ殿は女子供の命を安堵して貰うために自害。自らの首を差し出して降伏しようとする。しかし、貴殿はそれに異を唱え、事実を秘してジュテ族を率いて出陣。そして討ち死にする」
「あ、兄上!」
四肢を縛られたエマヌエルが床に転がされた。引き連れていたのはゲクランの元部下である。
そう言えば、バルドスと最初に出会った時は、今とは逆の立場だった。
人とは恐怖ではなく利で釣るのだ。恐怖だけでは支配できぬ。恐怖政治でも、利があれば人は従ってくる。
(ああ、そう言うことか。もっとも、これも気付くのが遅すぎたわけだが)
「なに、300のジュテ族残党があるのです。貴殿が真の英雄なら、生き残ることも不可能ではありますまい」
強烈な皮肉に、兄弟二人は絶望に顔を見合わせた。