およそ2000の軍勢がブルガルの手前まで寄せていた。
塩漬けにして保存していたモンケの子息五人の首をブルガルの門前に並べ、夜間も楽器を打ち鳴らして城内の睡眠を妨害している。敵方の士気はどん底まで下がっていた。
しかし、諸侯たちがそろそろ内通者が出始める頃だろうかと推測し、城攻めの支度を調えている中、ひとりナーシェンは本営で不気味な沈黙を守っていた。解せない。あまりにも事が上手く運びすぎている。そう、モンケは明らかに捨て駒にされていた。
おそらくは時間稼ぎ。ならば策があるのだ。
心当たりはあった。ナーシェンが攻め落としてきた都市の多くで、物資不足が起こっていたのである。敵軍に攻められる直前に強制徴収したと聞いている。陥落するとわかり切っている都市から物資を引き上げるのは、そう珍しいことではないが手際がよすぎる。
「……アルフレッド侯。現在の兵糧でブルガルの民を養うことは可能か?」
「数日で尽きるでしょう。持参した兵糧では、流石にブルガルほどの大都市を賄うのは不可能かと。領内からの輸送である程度は食いつなげるでしょうが、敵が兵站攻撃を目論んでいるやもしれず、得策とは言い難いですね」
「なるほど、卿は察しているわけだ」
ナーシェンは面に憂鬱を含ませ、やれやれといった様子で天井を見上げた。蝋燭の火がちりちりと揺れている。誰だ敵方に入れ知恵したのは。ゲクランではこのような思い切った戦略図は描けまい。モンケに至っては論外だ。
ナーシェンは数秒、両目を閉じた。……舅殿を頼ることになるが致し方ないか。
ならば――こうするか。
「ブルーニャ殿の王国軍およびダヤン殿のサカ軍を除いた我々はこれより撤退作業を始める。各々、異論はないか」
「はぇ? ど、どう言うことですか!?」
この面子の中ではもっとも年少のアレクセイが口を挟む。
こんなに順調に侵攻作戦が進行しているというのに、どうしてここで戦場を放棄しなければならないのか。若者の顔にもありありと不満が浮かぶのを見てから、ナーシェンはおもむろに口を開いた。
「共倒れも辞さない覚悟の敵を、わざわざ真っ向から受け止めてやる必要はあるまい」
「やはり、サカを取れば餓えますか」
ここでそれまで押し黙っていたグレン候が小声で呟いた。他の将軍たちも自軍の兵糧の残量に、おおよその現状を理解しているようだ。兵糧は不足しているわけでもなく、むしろ充足している。しかしそれは、自分たちの軍勢を食わせるだけの量でしかない。
餓えきった民衆を養うとなると、自軍まで消耗してしまう。
「焦土作戦か。まったく、ゲクランも思い切ったことをしてくれる」
「しかしそれでは、サカの民からの求心力が……いや、ゲクラン殿はエトルリア人。事ここに至っては、私たちの妨害こそが肝要と言うことですか」
攻めれば攻めるほど味方が餓えていく。やがて飢餓で士気が落ちきったところを攻められれば、たとえ敵が寡兵であっても大敗を喫することになるだろう。そのような図絵が脳裏に浮かんだのか、諸侯たちの顔が苦々しく歪んだ。策の内容がわかっていても、どうにもならない策である。
だが、期限は半年。じっくりと腰を据えて領内からの兵站を整えてから城攻めに取りかかりたいところだったが、時間がそれを許してくれない。戦略的大勝を得ることができなければ、ナーシェンは爵位を下げられ、領地も大幅に召し上げられ、北部同盟が瓦解することになる。
押し黙った軍議の席で、ぽつりとカザン伯爵が発言する。
「さて、どうする。いっそブルガルの民を見捨てると言うのもあるが」
「いや、それでは後の支配構造に歪みが生じることになる。敵の手に見せかけて民衆を虐殺するならまだわかるが」
「はははっ、ベルアー殿もえげつないことを仰いますなぁ」
「カザン殿が心にもないことを仰せられるから、私も乗っただけですよ。冗談に決まっています」
はっはっは、と笑い合う二人の伯爵。目が笑っていなかった。
ベルアーの息子アレクセイが父親たちの笑い声に絶句している。
「まぁ、それでも構わないのだがな。いささか芸がない」
「それで撤退ですか。偽装退却ですかな?」
「それで釣られてくれるならまだ楽なのだが、焦土作戦を仕掛けてくる以上、功に焦って出てくることはないだろう。密偵からの報告では、猪武者のモンケ殿と言えどもご子息の首を並べられて消沈しているという。三人を討ち取ったところまでは怒り狂って攻め掛かってきたものだが、四人目、五人目になると、どんどん及び腰になっていたからな」
「復讐心よりも恐怖心が先立ったわけですか。小人の末路としてはよくあることですが哀れなものですな」
再び軍議に満ちる暗い微笑み。アレクセイが半泣きになった。
ナーシェンはこれ以上、この若者を虐めるのも悪いかと思い、軍議をまとめにかかる。
「私たちはベルン本国に撤退後、すみやかに補給を済ませて軍勢を再編、リキア東部を横切ってサカ西部から攻め掛かる」
何気なく呟いたその発言に、諸侯たちの顔が強張った。
「――っ! はっ、承知しました!」
地図上でサカ地方の東西から攻めかかる、壮大な規模の挟撃。
左右から攻めれば物資を持ち逃げする場所すら見当たらなくなるという構想だった。
【第8章・第7話】
サカ侵攻作戦から二ヶ月後、突如ナーシェン軍が撤退行動を開始する。この予想外の行動に、大陸中の人々は度肝を抜かれることになった。見識者たちはただ逃げ帰っただけと言ったり、これも深謀遠慮の所以と評したりしていたが、国王ゼフィールは「余はブラミモンド公に采を預けたのだ」と呟き、すべての諫言を退ける。モンケの子息の首を鑑賞しながら美酒を傾ける王に、側近たちは何も言えなかった。
ナーシェサンドリアに期間後、すみやかに軍勢の再編を済ませたナーシェンは、すぐに軍勢を西に向けた。なお、この再編および補給作業においてアルフレッド侯爵が部下に小言をこぼしている。作業に四日を要したのはナーシェンがジェミー夫人にべったり張り付いていたためであり、本来なら二日で終わっていたのだとか。
そして……。
オスティア城において、ヘクトルは一枚の書面に目を落とし、顔全体を真っ赤に染めていた。
「ヘクトル様、どうかお気をお鎮め下さいますよう。お身体にも触ります」とオズインがたしなめ、ようやくヘクトルは我に返り、居心地悪そうに咳払いする。
「うむ。少し取り乱した。忘れろ」
「それで、ブラミモンド公からの手簡には何が書かれていたのですか」
「あの儒子、軍勢1500がリキア領を通過するのを見過ごせとほざいておるわ。表向きは舅への挨拶となっているが、それにしては物々しすぎる軍勢だな。しかも、数日前までサカの戦場にいた精鋭部隊。黙して通せばオスティアの沽券に関わってくるが」
「……では、阻止なさるのですか」
「馬鹿を言え。向こうにオスティアへの侵攻目的はないはずだ。蛇のいる藪を突くような真似はできん」
今のところベルン側はサカ、イリアへの遠征で、リキアに向ける余力を残していない。だからこそ、今の内にベルンを叩くのが最善の策なのだが、果たして対ベルン戦で封建領主が参陣するだろうか。頼るべきエトルリアも、とりあえずイリア地方に増援を送ることにしたようだが、その数はわずか1000。これで、オスティアがエトルリアに迎合するという案も潰えた。
……と言うか、どうしてイリアへの援軍派兵なんだ。決断するタイミングが悪すぎるぞエトルリア。
ナーシェンがサカから兵力を引き上げた今となっては、イリア地方よりもサカ地方の方が与しやすい。だが、今から目標を変えると下部の兵士たちがイリア攻め中、やっぱりサカを攻めていればと後悔するだろうし、サカ攻め中、やっぱりイリアを攻めていれば――と、戦意が崩れてしまう。兵士たちにそれと悟られないように、最初の目標通りイリアを攻めるしかないのだ。これもナーシェンの奸計なのかこの野郎。
「くそっ、ナーシェンめっ。ナーシェンの儒子めっ。おのれ、ナーシェンめっ」
「そう言えば、姫様も一度お顔をお見せになるとか」
「……………………そっ、そうだな」
ヘクトルの目が泳いだ。
リリーナが嫁いでから四年。辛酸を嘗めさせられ、臥薪嘗胆、血の涙を流し堪え忍んできた歳月。ヘクトルは書面の下の方の臭いを嗅いでみる。愛娘が追記した部分。インクの臭いがした。ヘクトル、鼻息が荒くなる。
「ようやくだ。大きくなったんだろうなぁ。楽しみだなぁ、リリーナ」
主君の奇行に、オズインは見なかったことにしようと顔を背けた。
そうしてふと目に入るのが物陰に控えていた密偵アストール。
オズインは腹を抱えて床を転げ回っている密偵を蹴飛ばした。