ナーシェサンドリアの郊外に建てられた小さな屋敷に『先生』と呼ばれる人物が居を構えている。
初等教育を受ける前の子どもたちに無償で学問を教えたり、剣や槍の手ほどきをしている老人である。近所の人々からは貴族のご隠居だと思われているが、まさしくその通りであった。
「……どう言うことだ?」
よくできた人物として絶賛されている老人は、子どもたちには見せないであろう鋭い目を、来客にぶつけていた。
金属の鎧を着込んだ騎士然とした男である。老人は薄手の衣服を羽織っているだけだった。傍目には騎士が老人を脅しているように見える。
「ブラミモンド卿の元配下バルドス殿。貴殿の知謀が欲しいと言っている」
その騎士はエマヌエルと名乗っていた。
特に珍しい名前ではない。だが、バルドスの意識に上ったのはベルトラン子爵の弟の名だった。
「私に主家を裏切れとでも?」
「“元”主家であろう。今はもうブラミモンド家の禄を食んでいるわけではあるまい」
「断る。私の主君はただひとり。帰られよ」
エマヌエルは溜息を吐いた。やれやれと言う溜息ではない。これからのことが心から楽しみで仕方がないと言った様子だった。
老人の目が細められる。
そんなバルドスに、エマヌエルは屋敷の外に目を向けた。エマヌエルの配下が入ってくる。
無理矢理連れて行くつもりか。バルドスは壁にかけてある剣を手に取って鞘を払った。
が、その手下に引きずられてきた者を見て、バルドスは目を見開いた。
「ハンス!? 生きていたのか!?」
「ち、父上……。申し訳ございませぬ……」
縄で縛られている人物は、奴隷のようなボロ切れを着せられ、そこかしこに殴られたような痕があった。
バルドスには二人の息子がいた。ひとりはエトルリアの敵兵に殺され、もうひとりは行方不明になっていたが、おそらく戦死したのだろうと思われていた。
ハンスはバルドスの家を守るためなら主君をも裏切るようなやり方を嫌っていた。家を守るためにエトルリア、ベルンを巧みに泳いできたバルドスのやり方は、若かりし頃のハンスには汚いものにしか見えなかったのだ。
そのため、バルドスがナーシェンの父に寝返った時に、ハンスは命令を無視してエトルリア側に付き、父親が指揮する軍勢に包囲殲滅されてしまった。ハンスの首は見つからなかったが、敵勢を包囲したバルドスは、逃げ道はなかったと確信していた。
「貴様ら、私の息子に何をした……!?」
「おや、バルドス殿はお怒りのようだ。感謝はされるものと思っていたのだが、批難されることになるとはな。エトルリアの寒村で帰農していたところを、われらが“保護”してやったのだぞ?」
「どの口が言う!」
「ふんっ。まあいい。こいつは返してやる」
エマヌエルはハンスを蹴り飛ばした。
「だが、こいつの妻と息子はわれらのところで“保護”しているのを忘れないようにな。女性と幼子では、長旅は辛かろうと兄上が気遣ってくれたのだ。ほれ、感謝せぬか」
「父上、申し訳ございませぬ! 私が愚かでした! ですから、私のことなど放っておいてくれて構いませぬ!」
ハンスは泣いていた。
「………………」
バルドスは剣を取り落とした。
【第8章・第2話】
ナーシェンは城に帰還すると、すぐさま出兵の準備に取りかかった。諸侯たちにも号令を出し、ナーシェサンドリアに集うよう指示しておく。
同時期、エトルリアのロアーツ派が援軍を派遣しようとしている動きがあると密偵から報告が上がってきたが、予想の範囲内だったため計画に修正の手を加える必要はなかった。
北部同盟軍の各所候たちの軍旗や旗印は、ナーシェンが暇潰しに作って、飽きたため下賜されたものである。旗指物は『一に三つ星』のグレン侯爵や、『島津十文字』のアルフレッド侯爵、『永楽通宝』のベルアー伯爵、『五色段だら』のカザン伯爵などである。イアンは『六文銭』、ブラッドは『地黄八幡』である。
しかし、ナーシェンは『毘の一文字』や『かかれ龍』だけは決して譲ろうとはしなかった。
“義の将”上杉謙信。彼は私欲による出兵は行わなかったという。
そんな綺麗事を信じているわけではないが、“義”をかかげて民からの信望を集めた手腕は見習いたいものだとナーシェンは考えていた。
「……ははっ、場違いな旗だな」
旗を見つめ、ナーシェンは呟いた。
「だが、私の方がもっと場違いだ」
エレブ大陸の異端児、ナーシェンは寂しそうに独白した。その直後、家臣たちが大慌てでナーシェンのところに駆け付けてきた。準備に勤しんでいた兵士たちが、何事かと振り返る。
「ジェミー様が、お倒れになりました!」
「な、なんだとっ!?」
感傷に浸っている場合ではなくなってしまった。ナーシェンは準備もそっちのけで城に走った。
――――
結局のところ、命の心配はないということだった。
「おめでたですな」
「……は?」
家臣たち一同、そろって硬直する。ナーシェンは聞き間違いかと身を乗り出した。未だ信じられないといった様子である。
老医者はそんな者たちを睥睨すると、呆れた様子でもう一度告げた。
「だから、腹の中に子どもがおると言っておるのです。しばらくは安静に。絶対に動かさないように。政務で疲労が溜まっておるようですからな。あとは、滋養の付くものを沢山食べさせることでしょうな」
「……ジェミーに……子どもが……?」
唖然と、ナーシェンは呟いた。
考えてみれば、最初にジェミーを抱いたのは彼女が15の頃である。もう17になるジェミーに、子どもができないわけがない。むしろ遅いぐらいであった。
だが、自分が父親になるという現実が、すぐに理解できなかった。
ナーシェンは22歳。憑依直前の、大学生時代と同じ頃だ。精神年齢はとっくに四十路を越えているとはいえ、心はずっと子どものままだった。無論、することをしているので、子どもができることは覚悟していた。現実の前には、そのようなものは紙のようなものだったが。
「ナーシェン様……ここに、ナーシェン様の子どもがいるんですね……?」
布団の上で、ジェミーが腹をさすっている。ナーシェンは震える手でそこに触れた。
「ああ……そうだ。そうみたいだ……」
涙がこぼれた。
「ここに、私の子どもがいるんだな……?」
「はい……。ナーシェン様のお子が……ここに……」
「そうか……。そうか……!」
ナーシェンとジェミーは抱き合い、人目を憚らず泣き合った。