息の詰まるような緊張感。静寂に支配された戦場で、ベルトラン兄弟は息を呑んでいた。
整然と構える敵陣は、見ているだけでこちらの士気が萎えてくるほどである。黒備えで統一された軍勢は、一縷の隙もなく統率されていた。兵士たちは身じろぎひとつすることなく、動いているのは風に揺らされている軍旗だけである。
「八陣の法」
ボソリと、バルドスが呟いた。
ゲクランが振り返る。何だそれはと怒鳴りつけたい衝動に駆られていたが、それを何とか押さえて声を出す。
「ブラミモンド公爵が考案された陣形の法でございます。大将を中心に八つの部隊が取り巻く陣形で、前衛の右から地陣右角、鳥陣先鋒、左角風陣。大将の右を虎陣右爪、左を竜陣左爪。後方の右から天陣右牙、蛇陣後陣、雲陣左牙となっております」
「何だそれは」
「各部隊を八つに分けて名付けておりますが、陣形にも八つの型があります。あれは方円座備の陣と申します」
「……それで、どういうことなのだ?」
「方円座備は防御の構え。これより攻撃の構えに移るのでしょう。魚鱗の陣、鶴翼の陣、長蛇の陣、鋒矢の陣、方向の陣、衡軛の陣、雁行の陣、そして――偃月の陣」
バルドスが説明を終えると同時、敵陣がゆっくりと移動をはじめた。
四角い陣形だった部隊が、細長い陣形を作ったのである。
先鋒 イアン ブラッド
次鋒 カレル
ベルアー
アレクセイ
カザン
ラグネル
アルフレッド
フェルディナント
グレン
ルーカス
総大将ナーシェン
殿軍 スレーター
遊軍 フレアー
それが縦に、弓なりになって陣形を形作っていた。見たこともない戦法。すべての兵士たちが居竦んで、尻込みしているのを、エマヌエルですら叱責することができなかった。
「偃月の陣は車懸りの戦法。それを用いるための陣形でございます」
すでにバルドスの言葉は、ゲクランの耳には届いていなかった。
【第8章・第1話】
エレブ歴998年――。
サカ内戦はクトラ族とジュテ族の二極化が進み、戦線は膠着状態に陥っていた。商業都市ブルガルを手中に収めているジュテ族の方が有利かと思いきや、『灰色の狼』ダヤンのゲリラ戦法を用いた後方攪乱により、ジュテ族は徐々に手足をもがれ、身動きが取れなくなってきている。
しかし、大兵力がブルガルに篭ってしまうと、流石のダヤンと言えども容易には落とすこと叶わず、双方睨み合いの日々が続いている。
そんな中、ブラミモンド公爵ことナーシェンは、ベルンの王宮に召還されていた。
「ブラミモンド公爵ナーシェンよ。貴様を正式にサカ攻略の総司令官に任ずる」
国王ゼフィールの命令を受け、ナーシェンは跪いたまま頭を下げた。珍しいことにゼフィール自身が宝剣を取ると、身を乗り出してナーシェンのもとへ歩み寄り、ぐいっと差し出した。
「与力としてブルーニャと500の兵士を預けておく。半年以内にサカを落とせ」
「御意にございます」
うやうやしく宝剣を受け取ると、ナーシェンは居並ぶ諸侯の列に戻った。
作戦としては、こういうものである。サカ東岸――ダヤンが確保している地域へと軍勢を進め、補給路を確保した後に、ナーシェンが指揮する隊はサカ攻略にあたる。マードック将軍率いるイリア攻略部隊はサカ東岸を経由してイリア東部のエデッサを落としてから、イリア全域の攻略を開始する。ゲイルはリキア、エトルリアの動向を警戒して本国で待機――と言うことになっている。
マードックの部隊にはファルス公爵、グレゴリ侯爵などの諸侯軍が加わっている。新参者のブルーニャ将軍やゲイル将軍では、海千山千の諸侯から侮られて、完璧に統率するのは難しいと見られているのだろう。
何れにせよ、これが始まりであった。
ベルンの歴史、その最大の悪名となり得るエレブ戦役の幕が上がろうとしていた。
――――
商業都市ブルガル。部族間の争いを持ち込まずを暗黙の了解として、サカの商圏を一手に担うほどの発展を遂げてきた都市だったが、ジュテ族のモンケが太守として君臨してからは、自由都市としての歴史に別れを告げていた。
ゲクランは石造りの屋敷の前で馬から下りると、守衛に馬を預けて薄手の鎧を脱ぎながら屋敷に入った。ベルトラン兄弟にあてがわれた屋敷であった。ここ二ヶ月ほどはモンケの軍師として戦線に張り付いていたため、ずっと留守にしていた家だったが、ゲクランは帰る場所があるのは悪くないものだと思った。
兜を外すと長い髪がバサッと垂れて、すれ違う侍女たちが顔を染めている。
ゲクランは鎧兜は重たいため、あまり好きではなかった。ダヤンによる奇襲が何時あるかわからなかったため、エマヌエルに窘められて装着しているが、全身の疲労は如何ともし難い。睡魔に吸い寄せられそうになるが、まだ眠るわけにはいかなかった。
「ナーシェンめ、中々にやりおる」
独り言を呟きながら、椅子に腰掛ける。
ブルガルの税制、物資の輸出入、番所と警備兵の配置など、モンケは商業都市を治める知識をまったくと言っていいほど持っておらず、その手の雑務はすべてゲクランに任せられていた。モンケは戦場で弓を引くことしか能のない猪武者だった。予想はしていたので衝撃は少なかったが、ゲクランのモンケへの侮蔑の念が増したのは確かである。
(まぁいい。あれは、戦場ではそこそこ働ける奴だからな)
モンケが戦場にいる間に、ブルガルをエトルリアの支配下に置くことができたのである。現在はブルガルでエトルリア本国から秘密裏に召還した文官が、水面下で実権をかすめ取っている最中である。味方が無能なら、その無能すら利用させて貰う。それがゲクランの思惑だった。
「あ、あの。ゲクラン様……」
「……ああ、お前か。入ってもいいぞ」
「あ、はい。失礼します」
ゲクランの私室の扉がゆっくりと開き、瞳に悲哀を讃えた女性が姿を現した。
ルル族を滅ぼした時に貰い受けた、白い法衣を身にまとったシスターである。名前をクラリスといった。菫青石の瞳が心細そうにゲクランに向けられている。
触れれば手折れてしまいそうな切花のような女性だった。その儚さがゲクランの内側に秘められた暴力と庇護欲の両方を刺激していた。
巡礼の途中でルル族から宿を借りたのが、クラリスの不幸の始まりだった。
(まさか、私のような奴に見初められるとはな)
クラリスは没落したエトルリア貴族の娘である。口減らしのために修道院に入れられ、将来は両親が貴族として返り咲くために政略結婚に使われるはずだった。それが、教会の上層部の方針で、彼女の修道院にエリミーヌ教の教えを受け入れないサカ地方の調査を命じられ、そこにクラリスが組み込まれることになったのである。
ジュテ族の襲撃に遭い、仲間の神官は殺され、友人のシスターはサカ部族の慰み者になり、クラリス自身もゲクランの所有物になってしまったということだった。彼女の悲しみは推し量ることはできまい。当事者のゲクランが言えた義理ではないが。
ゲクランの私室を訪れたクラリスは、口を開こうとして、それを閉ざしてしまう。
言っていいものか、迷っているのだろうと見当を付けたゲクランは、手に持っていた書類を床に投げ捨てると、クラリスの肩を押さえつけてベッドに押し倒した。
「きゃ……あ、あの……ゲクラン様……?」
「どうした? 用があるのだろう?」
「あ、あの……また、民に雑税が課せられるとお聞きしたのですが……」
「ふん、そのことか」
ゲクランは彼女の法衣を片手で引き裂いた。クラリスは顔を背けて、されるがままにされている。
抵抗したのは最初だけだった。ゲクランは己の中に獣を飼っている。両親や兄たち、ゲクランの家督相続に反抗的だった重臣など、邪魔者を殺してきたのも彼の中の獣だ。ゲクランはクラリスにだけは、己の獣を隠さなかった。クラリスは処女だった。それでも乱暴に抱いた。
「仕方ないだろう。本国の援助が減少し続けているのだ。向こうの言い分は兵力増強のためにこちらに回す余裕がないと言うことらしいがな。対するブラミモンド卿は底が見えぬほどの支援をクトラ族に送っている。ならば、サカの民に割を食って貰うしかないだろう」
「ですが、度重なる増税は……!」
「神の意志に反しているとでも言うつもりか?」
「………………」
「貴族は神権を委託されただけの、ただの代行者にすぎないと言っている坊主がいたな。ヨーデルと言ったか。もっとも、貴族受けが悪くて司教になれぬようだが、その教えがお前の心のより所というわけか?」
返答はすすり泣きだった。
この日もゲクランは彼女を乱暴に抱いた。