ベルン北部、サカ国境付近の森林に、魔方陣が浮かび上がる。黒髪に金の瞳のモルフが、転移の魔法でそこに現れた。直後、どさりと身体が崩れ落ちる。
リムステラは半身を闇に喰われたものの、咄嗟に転移の魔法を使ったため、消滅を免れたのだった。
「ネルガル……様………」
今回の動きで採集できたエーギルは、とうてい計画を実行するに足らない量であったが、直撃ではないとはいえエレシュキガルを受けた身体は、すでに崩壊し始めている。
リムステラにはやることがあった。
「ネルガル様……」
採集したエーギルで、主を復活させるのである。ネルガルのため。その命令が帰結するところであった。
かくしてリムステラはネルガルの“モルフ”を創造する。身体が完全に崩壊する前に、己を構成していたエーギルすらつぎ込んでいた。半分になった身体の断面が、砂に変わっていく。それでも、リムステラはその行為をやめることはない。
「ああ、ネルガル様! ご命令を!」
やがて、完成したモルフにリムステラは跪いた。
「………………………」
「ご命令を、ネルガル様!」
ネルガルのモルフは何も言わない。
リムステラは「ご命令を、ご命令を」と繰り返し、やがて事切れた。
「………ネルガル、か」
ジャファルは育ての親の姿をしたモルフに、銀の剣を振り下ろした。
【第6章・第12話】
サカ騎兵の素通りを見ていたジェミーは、敵は百にも満たない小勢、ナーシェンの軍勢が蹴散らしてくれるだろうと考えた。そして、フレアーにナーシェサンドリアに待機していた竜騎士10を率いさせて、アルフレッド侯爵のもとに派遣する。
アルフレッド侯爵は国境線に物見を立てて二回目のサカ部族の侵入を警戒していた。手勢300を集めて、その内100を国境防備に付けている。
フレアーはアルフレッド侯爵が勝手にサカ部族に報復行為に出ないように、監視のために送り込まれていた。アルフレッドは若手だが、父アウグスタの堅実性を受け継いでいる。短慮に走るとは思えないが、念には念を入れてのことだった。
「アルフレッド様! 敵影を発見しました!」
「よもや、さらなる襲撃ではないだろうな。サカの民とはそこまで愚かであったか」
アルフレッドはやれやれと溜息を吐いて、配下の騎士たちと顔を見合わせた。
直後、別の伝令がアルフレッドの前に跪く。
「ご報告します!」
「話せ」
「あの集団は、サカを追われた流民です」
「……自ら攻め込んでおきながら、敵である我らを頼るか」
―――
「急いで! ベルンはもうすぐよ!」
クシャナ族の族長の娘サラは声を張り上げた。まだ13歳になったばかりのサラにとって、200人の非戦闘員を守り抜くのは酷なことだった。それでも、サラは一族の数を減らすことなく、他部族の略奪から逃れてきていた。
たとえ13歳でも、サラが『草原の狐』と恐れられた族長の血を引いていることは歴然としていた。
サカ部族にはそれぞれの縄張りのようなものがある。栄養価のある草が生えている土地を持てるのは、強い部族の特権だった。
そして、情報とはどれだけ秘匿しようとしても漏れ出すものだ。
クシャナ族から戦える者がいなくなったという噂は、瞬く間に別の部族に伝わってしまった。周辺部族たちは顔色を変えてクシャナ族の女性や家畜を手に入れるために牙を剥いた。中にはこれまで友好的な関係を築いてきた部族すら襲い掛かってきているのだから呆れるばかりだ。
クシャナ族の戦闘員は族長の娘サラをアルフレッドが拉致したため、それを取り戻すために出撃したらしい。実際のところは、乱心した父にゲルに閉じ込められていただけだった。サラが侵攻する名目にされたことは明白であった。
「サラ様。本当にベルンの連中は私たちを助けてくれるんですか?」
「当然でしょ。ベルン北部の騎士はジェントルな方ばかりなんだから」
サラは恋する乙女の顔をして、納得できない顔をしている部族員に言い聞かせる。部族員はどうしてサラがそこまでベルン北部の者たちを信用できるのか理解できない様子であった。
そう、あれは五年前。
サラがブルガルに遊学している時のことであった。
『やめて! 誰か助けて!』
『へへっ。こりゃあ上玉だぜ。高く売れそうだ』『その前に、俺たちで楽しまないか?』『マジか? まだ十歳にもならんガキだぞ』『処女の方が高く売れる。それはやめとこうや』『ちぇ。こんな小さいガキを犯る機会、滅多にないってのに』
露店の並ぶ市を回っていたサラは、気がつけば人気のない通りに入ってしまっていた。すぐさま踵を返そうとしたサラであったが、影から様子を見ていたならず者たちが襲い掛かり、あっと言う間に組み伏せられてしまったのである。
サカは部族自治という性質上、領地ごとの通行の制限がない。ブルガルはサカ最大の商業都市だったが、それ故、犯罪者が誘蛾灯のように吸い寄せられて来るのである。商業都市という表の顔を捨てれば、犯罪都市というもうひとつの顔が露になるのである。
『やだぁ! お父さん! お母さん!』
『るせえな! 黙らせろ』
下卑た面をした男が、襤褸切れをサラの口に押し込もうとする。
その時だった。
『いたいけな娘に何をしようとしている。女は愛でるもの。暴力を奮う相手ではない』
渋い男性の声がした。
直後、サラの傍にいた男が、鞘に入った剣で肩をしたたかに打たれて、泡を吹いて気絶した。そこからは一方的だった。男たちが口を開く前に、流れるような剣が男たちの意識を刈り取っていく。反撃を許さない、見事な一撃だった。
『もう大丈夫だ』
すべてが終わった後、男は泣きじゃくるサラを抱きしめると、その頭をゆっくりと撫でた。
その後、恩を返すために夕食に招待しようとするサラであったが、男はやんわりと断わると、サラを下宿先の宿の前まで送ってから去ろうとした。せめて名前だけでもとすがり付くサラに、男は「ベルン北部のしがない騎士、フレアーだ」と名乗ってから去って行った。
「はぁ。つまり、一目惚れだったんですね」
「そ、そそそ、そんなわけないでしょ! わたしなんかがあの人に言い寄っても、迷惑がられるだけよ! こっちはサカの民。向こうはベルンの騎士なんだから」
「そう言うことにしておき……サラ様!」
「きゃ! な、なに!?」
部族の若者は微笑ましげに苦笑して――サラに飛び掛った。その肩に矢が突き刺さっているのを見て、サラは状況を理解する。
「敵襲ーっ!」
「全員、騎乗! 少しでも戦える者は弓を取りなさい!」
サラは自分は置いていけと言い張る部族の若者を馬に乗せると、その横腹を殴り付けた。それを見届ける前に、自らも弓を取って隊列の後方まで全力で駆ける。
精強な騎馬部隊が、後方に迫っていた。クシャナ族の方は、引退した老人や、年端も行かない子ども、非力な女性までもが弓を構えている。
最初の襲撃を脱したのは、咄嗟に家畜を解き放ったからだ。二度目の襲撃では、金品や家財道具を放置した。だが、三度目はもう囮になる物はどこにもない。
「フレアー様……もう一度、お会いしたかったです……」
サラは覚悟を決める。
そして、大空から舞い降りた飛竜の軍団が、敵騎馬部隊を鎧袖一触に蹴散らした。
「え……? フレアー様?」
その戦いぶりは、あの時のように『もう大丈夫だ』と語っているようであった。
これが、13歳のサラと32歳になるフレアーの二度目の邂逅であった。
―――
「えっと……ナーシェン様。その方はどちら様でしょうか……あ、ソフィーヤさんと言うんですか。あはは、よろしくお願いしますね。あはは、あははっ……」
「また新しい女を連れてくるなんて! 私じゃ満足できないって言うの!?」
半死半生のナーシェンは帰還した途端、妻たちに締め上げられて意識を昇天させた。
―――
「ジード殿。ご無事で何よりです」
「フィル殿か。君はあの戦いに出ておかなくて、正解だったかもしれん。あの戦闘で、ナーシェン様が死にそうになった。大切な者が傷付いて、己だけが無傷ということが、最も辛いことなのかもしれんな」
「ジード殿……」
屋敷の中庭では、悩める男と、かける言葉の見付からない少女が見られた。
―――
「リーザ。ああ、会いたかった!」
「い、イアン様! み、みんなの前で抱きつかないで……あっ、そこは駄目……まだお昼ですよ……」
「いつものようにイアンと呼んでおくれ。俺の愛しいリーザ」
ノーマルであることに喜びを覚えるイアンであった。決して鬼畜ではない。純愛である。
―――
「ああ、ブラッドさん! ブラッドさぁーん!」
「愛い奴め。そうか、戦場での昂ぶりがまだ収まらんか。ならば、俺がすべて受け止めてやる」
「ブラッドさん! 僕も……僕も……!」
エトルリア組の宿舎は爛れていた。
―――
「……フレアー様。お久しぶりです」
「君は……そうか、あの時の」
「……どうか、サラとお呼び下さい」
あるところでは、ブラミモンドの柴田勝家が産声を上げようとしていた。
―――
そして、再会があった。
「ニノ……すまなかった」
「……ジャファル」
ニノの目尻に涙が浮かぶ。
「ごめん。一発だけ殴らせて」
パチン、と乾いた音がした。それから、ニノは「うわあぁぁん」と泣きながらジャファルに抱きついた。