パントは渋面を浮かべ、鎖に絡まれた魔道書に手をかけた。
冥府の闇エレシュキガル。
ネルガル専用の魔道書であり、古代魔法の真髄が叩き込まれた書であるが、並の者なら手にした瞬間に発狂してしまうであろう危険な書物だった。破棄できれば最良だったが、無限の使用回数のためか、燃えない、水に溶けない、破れないという末恐ろしい特性を持っている。そのため、封印する以外の方法がなかったのである。
パントは困窮して、長老に助けを求めるが、長老はそ知らぬ顔をしている。イグレーヌもわざとらしく口笛を吹きながら弓の手入れを始めてしまった。
ソフィーヤの電波……もとい、世迷いごとには関わり合いになりたくないといった態度だ。
「……これを、どうするつもりなのかな。流石のナーシェン殿でも、これは手に余るだろう。下手をすると、ナーシェン殿がネルガルのように力にとり付かれる」
「でも……これが……必要になります……」
「それも予知したのかな?」
「いえ」
ソフィーヤは小さく首を横に振った。パントはやり難さを感じながら、鎖に置いた手に魔力を集める。すると、パキンと音がして、鎖が緩んだ。パントはそれを指で持ち上げて、ソフィーヤに手渡した。
「使用する時以外は鎖を外さないように。直接持つと、精神が壊れる。君もその例外ではない」
ソフィーヤはパントに頭を下げると、エレシュキガルを受け取った。そして、要望が叶えられたというのに、ニコリとも笑わない。もう少し可愛げがあればいいのにと、パントは嘆息する。
人前で何度も溜息を吐くというパントの失礼な態度も、どうでもいいのだろうか。ソフィーヤは無言で魔道書を長いローブの下に仕舞いこむと、パントに頭を下げた。
「では……お願いできますか?」
「………?」
何を、と首を傾げるパントである。
「……ナーシェンと言う人のところに……私を送ってくれませんか……?」
「…………ああ、なるほど。転移の魔法で送ればいいのか。…………え、私が?」
パントの額から汗が垂れる。
たしかに、アトスやネルガルはびゅんびゅんとワープの魔法でエレブ大陸を縦横無尽に飛び回っていたが、いくらパントがアトスの弟子とはいえ、千年以上も生きた怪物爺さんたちと一緒にされるのは困る。
「……できないんですか?」
長老とイグレーヌが同調して、ここぞとばかりにパントを攻め立てる。
「あれだけアトス様の弟子と言い張っておったのにのぅ」
「まぁまぁ、長老。仕方がないですよ。エトルリアの貴族は口だけの軟弱者ですから」
パントは「ほんにのぅ」としみじみと頷いている長老を魔法で焼き払いたくなったが、それをすれば転移の魔法が使えないということを自ら証明してしまうことになる。
別に、できないわけではないのである。パントならリグレ領からエトルリア王都アクレイアまでの距離ぐらいなら転移できる。ワープの杖という補助を借りた状態なら、という制約があるが、それでも当代の魔道士では類を見ない長距離転移である。
「……で、ででで、できるに決まっている! 私はアトス様のただひとりの弟子だぞ!」
「では、お願いします」
ペコリと頭を下げるソフィーヤの向こうで、長老たちがハイタッチしていた。
「くそっ、どうなっても知らんからな!」
パントは虎の子のワープの杖を振り上げた。
【第6章・第11話】
ジャファルとニノの旅は、平穏とは言い難いものだったが、二人はそれでも何とかやっていけるだけの実力を持っていた。もとより賞金稼ぎどもに遅れを取る二人ではない。寝込みを襲われても、ジャファルなら撃退できる。
しかし、ここ数ヶ月で、その旅が危険極まりないものに変貌してしまった。
エトルリアのある村で滞在していた時のこと。夜中、不穏な気配を感じて目を覚ますと、村人すべてがモルフと化していたのである。二人は死にもの狂いで村を脱出したが、およそ二百人の追手に狙われることになった。
ジャファルの手には負えなくなるのも時間の問題だった。
『あの小娘を狙うのを止めろと? だが、あの娘は並の者の五百人分のエーギルを持っている。貴様のエーギルも、二百人分には達しそうだな。私が言うことを聞く理由はない。……剣を抜くか。だが、貴様では私に敵わないが』
事実だった。ジャファルの剣の腕は一流だったが、得物が錆びた鈍刀ではどうにもならない。二人の生活は困窮を極めており、武器を買う余裕などどこにもない。生まれた子どもすら、育てる金がなく、仕方なく孤児院に預けることしかできなかったのである。
ジャファルの得物は山賊や賞金稼ぎから奪ったものであった。
リムステラはネルガルの最高傑作。肌に鉄でも仕込んでいるのではないかと疑うほど、防御力が高い。錆びた剣ではどうにもならなかった。
『提案がある』
戦う決心の付かないジャファルに、リムステラが無感動に言い放つ。
『どうしても見逃して欲しいなら、自分たちの代わりになるものを差し出せ』
どういうことだ、と尋ね返す。
『東、ベルンの地に、竜に匹敵するエーギルを持つ者が存在する』
それは、ブラミモンド公爵ナーシェンを生け捕りにせよと言うことであった。
【第6章・第11話】
「ジャファル、君は幸せとは何だと思う?」
「……………わからない」
「ならば、覚えておくといい。今の質問はとても愚かしいものだ」
二人の間に、殺気はなかった。すでにモルフの大半が駆逐され、戦場は沈黙に包まれている。
カレルは小さな溜息を吐いた。
「彼女が命を落とせば、君は生きる意味を見失うほど嘆き悲しむはずだ。今も、彼女に危機が迫っていないか不安で仕方がないだろう。君と同じように、彼女も君のことを心配しているんだ、ジャファル。衣、食、住、すべてが満たされていても、愛する者が傍にいないというのは、不幸だ」
「………そうか」
「そうだ」
二人は示し合わせもせず、剣を鞘に収めた。
ジャファルが踵を返す。
「剣魔、お前、変わったな」
「よく言われるよ」
カレルは苦笑すると、腰の得物を抜いて、鞘ごとジャファルに投げ付けた。
「……なんだ」
「銀の剣だ。その錆びた剣ではどうにもならんだろう。使うといい」
「……すまない」
―――
フィンブルの魔道書が光り輝き、周囲の気温が下がり始める。周囲の兵士たちが身を盾にしてナーシェンを守ろうとするが、そのような肉の壁など、この魔法の前では何の役にも立たないだろう。誇張が入っているのは否めないが、それでも神将器に匹敵すると言われている魔道書なのである。
「ナーシェン様! ど、どうかお逃げ下さい!」
「もう間に合わん! お前たちは下がれ。私の魔法防御なら、一撃だけならどうにか凌げるだろう。その間に逃げろ!」
「主君を見捨てて逃げろと申されるのですか! お断りします!」
なおも意地を張る兵士たちに、ナーシェンは苦笑して「この馬鹿どもめ」と呟いた。兵士たちは「主君が主君ですから」と憎まれ口を叩く。
その時だった。
「そこまでだ!」
大空から飛来した槍がリムステラの腕に直撃する。フィンブルの魔道書が、リムステラの手を離れて地に転がった。皆の視線が空に向けられる。
「ナーシェン様、ご無事ですか!」
ナーシェンの窮地を救ったのは、三人の竜騎士だった。何時も、一緒に馬鹿をやってきた連中だ。
「………来るな」
リムステラは、竜騎士たちを一瞥すると、エイルカリバーの魔道書を取り出した。
「………こっちに来るな」
風の魔法は飛竜の翼を切り裂いて、竜騎士たちを大地に叩き伏せるだろう。その致死率は落馬の比にはならない。
エイルカリバーの魔道書が光を放つ。
「やめろおおおおおぉぉぉぉ!」
――風の刃が、無情にも飛竜を両断した。
顔見知りの、竜騎士たちが大地に叩き付けられる。周囲に赤いものが飛び散った。
―――
黒髪、金の瞳の男とも女ともつかぬ容姿をした者が、地面の血溜まりを無表情に一瞥すると、そっと右手を翳した。「五十人分、いいエーギルが得られた」と言っている。ナーシェンは身体を震わせた。怒りや悲しみ、己にもどちらなのかよくわからない感情が胸にストンと落下したような心地だった。
悲しみはある。怒りもある。しかし、それは表面的な空虚なものだった。心の奥底から、仲間の死を悲しんでいるわけではない。仲間を殺した奴に復讐の念を抱いているわけでもない。ナーシェンは人の死に触れ過ぎていた。
「……お前たち、よくやった。お前たちこそブラミモンド家の騎士。最後まで私のためにその命を捧げてくれたことを、このブラミモンドの後継者、ナーシェンは、命尽きる時まで忘れない。……くそっ、馬鹿者どもめ。先に逝きやがって」
最後のモルフ、リムステラは無言でフィンブルの魔道書を拾い上げる。
「準備はできたか。覚悟はできたか。ネルガルの妄執、忘れ去られた遺物、リムステラ。物語の脇役にすらなれぬ、存在すら許されざる人形。糸を繰る者がいなくなった操り人形は、無様に朽ち果てるのがお似合いだ」
「………………風よ」
「闇よ!」
向かい来る風に、力任せにリザイアを叩き付ける。
二つの魔法が衝突――相殺される。荒れ狂う魔力の衝撃の並が、固唾を呑んで見守っていた兵士たちを吹き飛ばす。踏み止まった者は、ナーシェンが烈火のような形相を浮かべていることに気付いた。普段の昼行灯のようなうだつの上がらない人物とは思えない形相。鬼気が立ち上っていた。
表情が語っていた。
――私の民、私の兵、私そのもの。貴様はすべてを脅かした。
「搾取せよ、略奪せよ、強奪せよ! リザイア!」
「……風刀乱舞、エイルカリバー」
しかし、どれだけ力をつぎ込んでも、リザイアの魔法ではリムステラにダメージが通らない。一太刀、二太刀、風の刃がナーシェンを切り刻んでいく。
雄叫びが上がる。対するリムステラはまったく表情を動かさず、淡々と魔法を唱え続ける。
やがて、ナーシェンが膝を付いた。
「くそっ、血が足りん……」
毒づいて、ナーシェンは魔道書を放り捨てた。魔道士にとって、魔道書とは演算補助装置で、使用するごとに劣化していくものだった。規定されていた使用回数を越えると、威力が百分の一まで低下するのである。
予備のミィルの魔道書を取り出すために、懐に手を入れた瞬間、目の前に現れた風の刃が、ナーシェンの右腕を筋繊維に沿ってバッサリ切り裂いた。腕から力が抜ける。新たな風がナーシェンの肩先から袈裟がけに切り裂き、その身体を吹き飛ばす。
「……ここまでか」
ブラッドとイアンが何かを叫びながら乱入しているが、ナーシェンは気が遠くなって何を言っているのかよくわからなかった。お前たちの敵う相手ではないと言ってやりたかったが、上手く声が出せない。
ナーシェンは口元を歪める。物語に存在してはいけないのは自分の方だというのに、よくもああ啖呵を切れたものだ。本来なら、イアンやブラッドにはどのような未来があったのだろう。ナーシェンは地面に大の字になって横たわりながら、皮肉な笑い声を上げた。
ふと、地面に転がっているリザイアの魔道書が目に入った。
最初のページの空白部分に、あとから書き加えられたメッセージがある。
『誕生日おめでとうございます、ナーシェン様。今年で18歳ですね。折角なので、以前から欲しがっていた魔道書をプレゼントすることにします。ナーシェン様って物欲が少ないので、どんなものを選べばいいのかわかりませんでしたよ。あと、自分の誕生日ぐらいは覚えておきましょうね』
気付けば、立ち上がっていた。
「なんだ、まだ戦えるじゃないか」
クッ、と愉悦に喉を鳴らす。ミィルの魔道書を持ち上げる。その手に、細い指がからめられた。朦朧とした意識で振り返る。髪の長い少女が、後ろからナーシェンを抱きしめて、その身体を支えていた。そして、ナーシェンの手に己の手を重ねていた。
「立てますか?」
ナーシェンは頷いた。
「これを……使って下さい……」
魔道書が差し出される。ナーシェンに返事をする余裕はなかった。
ほとんど気力だけで立っているような状態で、鎖で雁字搦めに固められた魔道書を受け取った。じゃらりと音を立てて鎖が地に落ちる。瞬間、脳の血管が破裂しきれんばかりの情報の奔流がナーシェンに襲いかかった。
「ぐっ、がっ……くそっ、俺の中から出て行け! って、リアル中二病かよ!」
ナーシェンは傷口に親指を突っ込んだ。激痛に意識が一瞬、真っ白に染まる。
「とにかくテメエら! そこから離れろ!」
―――
それは暴虐の闇だった。リザイアとは比べ物にならない巨大な闇の塊であった。遠くで様子を窺っていた者にすら破滅の足音を感じさせた、災厄の塊であった。背筋が凍るような、無茶苦茶な威力の魔法であった。
これが、対人魔法ではなく、対軍魔法であった。
「………! ネルガル様!?」
リムステラはその魔法を見て、初めて動揺を顔に浮かべた。
直後、リムステラの姿が消えた。
荒れ狂う暴風、大地は鳴動し、大気が闇色に染まる。
兵士たちはその元凶たる主君に畏怖の視線を送った。だが、その背中に美少女が抱き付いており、しかも密着していたので、畏怖の視線はすぐに立ち消えることになった。