パントは箱の前で溜息を吐いた。
結局のところ、業火の理フォルブレイズを収めた箱は、開かなかった。封印に関わっているパントは、当然ながら開け方を知っている。里の者たちにも、口伝で開け方が伝わっている。
「ふむ、やはり時期が来るまで開かないようになっているのかもしれんの」
「神将器とは使い手――かつての八神将の意思が宿っているとのことですからね。人海戦術で強引に、力任せに抉じ開けることは無理ではないでしょうが……」
「そこまでしなければ開かないということは、大賢者様の意思に逆ろうておるということじゃろう」
濡れ鼠になったパントと長老は顔を見合わせた。
「ともかく、このまま神聖な神殿に居座る道理もありません。そろそろ戻りませんか?」
と、ただひとり濡れていないイグレーヌが提案するが、二人はじとーっとした目を向けてくるだけだった。
「と言うか、君、わしの頭を踏んだじゃろう?」
「美女というものは水が滴るものではないかな?」
「それはいい男の間違いでは……いえ、何でもありません……」
パントの発言は若干方向性が異なっていたが、二人がイグレーヌを攻めているのは明らかだった。
結局、三人ともずぶ濡れになって地上に戻ると、地下神殿の入口でソフィーヤが待っていた。
「……あ」
「む、彼女は……」
パントは記憶を探るが、思い出せなかった。族長が横から説明する。
「竜の血を引いた娘、ソフィーヤじゃ。多少、未来を読み通す力があるらしくてな。ほれ、ソフィーヤ。どうかしたのか?」
「……大陸の……遥か東で、闇の灯火が消えそうになっています」
「……東?」
族長がまた呆れたような顔をしているが、パントは目を細めて真面目に思案した。大陸東部……ベルンの地では、村ひとつが消えるようなことはまだ起こっていない。唯一、ブラミモンド家が支配している土地でモルフが出現しているだけだ。
「その東にある闇とは、どれだけのエーギルを持っているのかな?」
「……竜に匹敵するほどの、生命の輝きだと……思います」
「ナーシェン殿か」
パントは得心した。ベルンでそれだけのエーギルを持っている者というと、ゼフィールかナーシェンのどちらになる。パントはエーギルを操る術を持っていないので、他人からどれだけのエーギルが得られるのか理解できるわけではない。それでも、あの二人は異質だ。だから、パントはすぐにナーシェンのことだろうと確信した。
ところで、あの金髪の若者は疫病神にでも取り付かれているのだろうか。
「あの……お願いが……あります……」
「……何かな?」
「『冥府の闇』の封印を解いてくれませんか?」
パントは両目を見開いて驚愕した。
【第5章・第9話】
遊牧騎兵とは戦い難い相手だ――。それも予想以上に。
ナーシェンはナーシェサンドリアへの帰還中に、敵遊牧民族と遭遇して、慌てて采配を握ったのだった。その敵は愚直に突撃するだけの、部隊指揮のクソもない連中だったが、個人の武力が高く、何故か戦端を開いていない内から死兵と化していた。
「ベルアー隊、突破されました!」
「そうか。ベルアー殿には体勢を整えてから、敵の背後を突いてくれと言っておいてくれ」
そして、イアンとブラッドを本陣に戻るように伝令を飛ばしておく。
敵は遊牧民と遊牧騎兵、ソシアルナイトの混成部隊。
遊牧民は馬上で弓を扱えるクラス、遊牧騎兵は遊牧民の上位クラスで弓と剣を扱える。ソシアルナイトは馬上で剣と槍を使う、通常の騎兵だ。
ソシアルナイト、遊牧民、遊牧騎兵で、それぞれ3:6:1の比率になっている。10人にひとりが遊牧騎兵といえばわかりやすいだろう。
それにしても、敵は損害など関係なく突撃して来ている。こちらの小手先の戦術など用を為さないというような状況だ。それに、怖ろしくタフである。流石に首を飛ばせば死ぬが、腕を落とされたぐらいでは動きを止めないのである。
そして、遊牧民の弓の存在が厄介だった。主力の飛竜が足止めされているのである。
「剣士隊で確固撃破が上策か。クソッ、こんなことなら50人全部持ってくるんだった……!」
まさか、このような戦になるとは思っていなかったため、剣士隊の半分以上が留守番になっている。
戦はたちまち450 対 60が入り混じる異様な乱戦になった。奇襲を受けたベルアー隊が体勢を立て直すため立ち止まっているとはいえ、七倍以上の兵力を持つこちらを相手に奮戦している光景は異常ともいえた。
やがて、敵の一部がナーシェンに肉薄する。遊牧騎兵がナーシェンに弓を向けた。
「――っ、ナーシェン様!」
わが身を盾にしようと数人が躍り出るが、ナーシェンがそれを制した。
「灰は灰に、塵は塵に……と言えば、まるで葬式のようだな。どちらにせよ、この世の理を捻じ曲げた者どもは、早々にあるべき姿に戻るべきだろう」
ナーシェンの開いたリザイアの魔道書が明滅し、この世の終わりにしか思えない闇が三人の敵騎兵を飲み込んだ。そこには何も残らない。
初めて見る闇魔法の威力に息を呑んでいた者たちは、しかし数秒後に我に返った。返らざるを得なかった。
「ナーシェン様! 後ろです!」
「………お前は」
「………我が主のために。貴様のエーギルを貰い受ける」
黒い髪に金の瞳。モルフだった。
片手には緑色の表紙の魔道書が握られている。風の魔道書エイルカリバーだった。
「カレルは何をやってるんだか……」
主が危険なのだから戻って来やがれと、ナーシェンは溜息を吐きながら魔道書を広げた。
―――
敵の遊牧騎兵はカレルと同じ地方出身の者たちばかりだった。同族ではないが、やり切れない思いを抱いてしまう。背負った人斬りの罪は、何時までも軽くならなかった。本当に平和のために剣を降っているのか、時々疑問に思うことがある。
辺境で隠棲していたら、このような思いは抱かなかっただろう。
だが、今のカレルは、世捨人としての生活が贖罪になるとは思えなかった。
「カレル殿! この敵、強いですなぁ!」
嬉しそうに戦っている義弟に、カレルは苦笑してしまう。バアトルはおのれの力を実感できる戦いというものが好きなのだ。人を斬って、さらなる高みを目指してきた自分とは違う。それもまた、強さの有り方だろう。カレルはそう思う。
カレルは遊牧民の馬をすれ違う瞬間に両断しながら、弟のところに歩いて行った。
「何人?」
「五人。そっちは?」
「十二人」
「おや、負けたか。まだ精進が足らんな」
バアトルが頭を掻いた瞬間――。
「後ろだ!」
カレルはバアトルの叫び声より前に、剣を背に向けていた。金属が擦れ合う音が戦場に響き渡る。
「君は……」
背後から奇襲をかけた相手を見て、カレルは眉をひそめた。
バアトルが弓を向ける。
「どうしてそこにいる! ジャファル!」
暗殺者が、カレルたちに剣を向けていた。