十数年前のこと。
魔の島のとある遺跡の入口で野兎が駆けていた。遊びまわっている子兎を探しているところで、その兎が野生の勘で危機を感じたのは、とある遺跡の前にたどり着いた時のこと。
慌てて身を翻した瞬間、その兎は水分を奪われたかのように干からびてしまう。それは急速に老いたための死であった。
子兎の死骸が、転がっていた。
それだけではない。
鳥や犬、猛獣の類まで、人以外の野生動物の死体が転がり、白骨化していた。
「足りない……」
「 」は野生の動物から奪ったエーギルで、十数年の歳月をかけて生き返った。意思を持たない生き物から得られるエーギルは、人間から得られるものの百分の一に満たない。気の長くなるような時間。しかし、「 」は諦めなかった。諦めるということを知らなかった。
それは、人形なのだから。
「ネルガル様……」
さらに二年後、「 」は十分に活動するためのエーギルを手に入れ、主君のために動き出すことになる。
【第6章・第5話】
クラリーネは食卓に付くと、ナイフとフォークを手に取った。彼女は貴族として当然の礼儀作法を叩き込まれている。対面のクレインも同様である。
ナーシェンなどは「サンドイッチ伯爵に栄光あれ!」と執務室でハムと野菜を挟んだパンを齧っているそうだが、クレインはその話を聞いて顔をしかめていた。クラリーネはその話を伝え聞いてクスリと微笑んでしまったものだが、クレインから見ればそのような食事は野蛮なものにしか思えないらしい。
かつてパントに気に入られてリグレ家に迎えられていたデュークという剣闘士上がりが、クレインを場末の酒場のようなかび臭いところに連れまわしていたので、クレインはそれほど食事に頓着していないはずだ。
ずばり、その料理がナーシェンの作った物だから、下劣なものに見えるのだろう。
「クラリーネ、お前、どこぞに嫁に行くつもりはないか?」
突然、兄がそんなことを言い出して、クラリーネは溜息を吐くことになる。
よくあることだった。
「はぁ。お兄様、今度はどこの貴族です?」
「カント侯爵がお前を見初めたらしくてな」
クラリーネはまだ十一歳の少女だったが、容姿は非凡なるもので、幾人もの貴族が彼女を嫁にと願い出ていた。貴族社会はロリコンだらけなのである。と言うより、全体的に変態が多いだけで、ロリコンはその一部なだけなのだが。
「カント卿ですか。あの人は家臣の娘を何人も泣かせているそうですわよ」
「……初耳だ」
「女性の情報力を舐めないで欲しいですわ。それに、私はお兄様がしかるべき女性を迎えるまでは、家を出て行くつもりはありません」
クレインがまだ嫁を迎え入れるつもりがないことを見越しての発言だった。
クレインが嫁を入れるのを邪魔しているのは、クレイン自身の潔癖さであった。無駄に高性能な頭脳を持っているため、大抵の貴族の女性を見ると玉の輿を狙っている思惑が透けて見えてしまうのである。クレインがある程度は割り切らなければ、リグレ家に嫁を迎え入れることは叶わないだろう。
「ところでお兄様、本日のご予定は?」
クラリーネは縁談から話を逸らすため、違う話題を振ることにした。
「早朝は練兵場に顔を出す。昼からはイリア地方の傭兵を引き抜くために出向くつもりだ。専属契約という体裁を取らせて貰うが、実質はリグレ家の兵士として迎え入れることになる」
パンを千切っていたクラリーネの動きが止まる。
「どう言うことですの? この家に、そのような余裕はないはずです」
「無駄飯食らいになっている老騎士たちに暇を出した。なに、息子が大きくなれば取り立ててやると誓約書を渡している。問題はないな」
「大有りですわ!」
クラリーネはテーブルに両手を叩き付けた。クレインは煩わしそうに手を振る。
「わかっている。追い出された老臣や、その息子、周囲の同僚たちまでリグレ家から心が離れていくのは理解している。だが……」
最近のエトルリア宰相ロアーツの増長っぷりは、目に余るものがあった。三軍将が窓際に追い詰められ、ダグラスはミルディンの養育係から外されそうになり、パーシバルは将軍位を剥奪されそうになったほどだ。ダグラスとパーシバルが無事なのは、モルドレッドが庇っているからだった。
だが、そのモルドレッドでもセシリアまでは庇い切れなかった。現在セシリアはオスティアの駐在武官に飛ばされている。リキア諸侯の子弟たちがセシリアの教えを乞うているため、それに答えたと言うことになっているが、要は体のいい厄介払いだった。
無駄な出兵を行って民を疲弊させた。モルドレッドは民衆からそう思われている。将軍になったばかりで実績の少ないセシリアまでは庇えなかったのである。
「戦が行われる……。民衆からは雑税が徴収される……。そのすべてが国王の責任だ……! 国王が戦を行わなければ……。ロアーツの奴らは巧みに大衆の意見を操っている……。腐敗した政治……。破滅への秒読み……! エトルリアは亡国の階段に片足をかけている……! 退路なんか、もうないんだっ……!」
クレインの言葉に、給仕たちが「ざわ……ざわ……」と騒ぎ出した。
と言うか、その鬱陶しい喋り方はどうにかならないだろか。
クラリーネは頭を抱えた。
「増員人数は?」
「倍プッシュだ――じゃなくて、およそ300人」
「はぁ、もういいですわ」
クレインが何を考えているのか大体わかった。
ナーシェンに対抗しているのである。ブラミモンド家の現在の兵力は800。だが、国力から計算すれば1000人持っていてもまだ余裕があるそうだ。リグレ家の兵力は500。どこからどう見てもナーシェンを意識しているとしか思えない。
最近の兄はずっとこんな調子だった。親友に大敗して以来、誠式訓練が『ナーシェン死ね!』に取って代わったり、大勢の配下の騎士を引き連れて喫茶ナーシェンに乗り込み、コーヒー一杯で半日も居座ったり(もちろん出入り禁止を喰らうことになった)、一度は手紙に剃刀の刃を仕込んだこともある(配達を頼まれた商人が怪我をしたため発覚した)。
クレインの頭は、どうにもナーシェンが絡まるとへっぽこになるらしい。
「ところで、このスープは上手いな。このコクは何なんだ?」
「最近ナーシェサンドリアで流通しているバターというものを使ったスープらしいですわ。ルブラン卿の奥方が絶賛していたから、どんなものかと思ってナーシェンに尋ねてみましたの。そしたら、ナーシェンの領地で作っているものらしくて、大量に送ってくれたのですわ」
「……………いや、違った。不味い、不味いぞこのスープは」
「棒読みですわよ、お兄様」
「ええいっ、こなくそっ! かくなる上は、ブラミモンド産よりも品質のいいバターを作ってナーシェンを困らせてやる!」
「……………はぁ」
クラリーネが頭痛のする頭に手を置いた時、使用人がそっと手紙を差し出した。「ブラミモンド公爵からです」と一声かけられる。クラリーネは「ありがとう」と、頬を緩ませながら手紙を受け取った。
当然自分の分もあるだろうと憮然としていたクレインは、使用人が去っていくのを見て唖然とする。
「え、これだけ? 私のは?」
「い、いえ……他にはご隠居夫妻のものや御用商人のものだけですが……」
「お兄様、最近ナーシェンから手紙が来ても返事を書いてなかったでしょう」
「くっ……いらない……別にナーシェンからの手紙なんて……いらないっ!」
結局クレインはスープを三回おかわりした。
―――
数刻後、リグレ家の領内で干からびた死体が発見された。捜査隊を編成して幾つかの村から不審者の目撃情報を得ている途中、クレインを仰天させる報告が入って来た。
ひとつの村が、魔界と化していたのである。大量の屍がうち捨てられ、死肉をついばむカラスすら枯れ果てているという、この世の地獄としか思えない風景であった。
調べてみると、周辺の諸侯の領地でも同じような事件が起きていることがわかった。
クレインは隠居していたパントに相談することにした。人を干からびさせる魔法があるのか、元魔道軍将の父なら知っているかもしれないと思ったのである。
パントは何も言わなかった。
翌朝、隠居していたパントが書き置きを残して屋敷を抜け出している。パントの妻ルイーズはただ苦笑するだけだった。