ヘクトルは両拳を肘掛に叩き付けた。
「どう言うことだ!」
「言葉通りです。リリーナ姫を差し出されよ」
ベルン西部の巨人ファルス公爵が平然とのたまう。この男、合戦より外交の方が得意であり、ゼフィールがよく使者に使っていた。ヘクトルとも面識があり、仲良く酒を飲み交わしたこともある。だが、交渉ではそのようなことは関係ない。
「このようなことがあってたまるか! エトルリアが侵攻してきた時、オスティアは何もしていないのだぞ!」
「何もしていない。そう、何もしていないのです」
ファルスはそれがいけないと説明する。
「諸侯がエトルリア軍に兵糧を提供しても見て見ぬ振りですか。リキアの盟主なら、それらの軽挙を咎めなければならないでしょうに。盟主の椅子に座り続けるなら、せめてその責任を全うするべきでしょう」
エトルリアの敗北から半年。今回の事態に至るまで、それだけの時間があったはずだ。何時までも日和見しているからこのようなことになる――とファルスは呆れたように言う。
さっさと先の戦で援軍要請に応える用意をした諸侯を叩き潰してベルンに土下座しておけば、このような事にはならなかったはずである。贓物という消極的な和平策しか取らないから、このようなことになる。
「なぜわしが軽挙妄動に出た諸侯どもの尻拭いをせねばならん」
これが、リキアの害悪だとファルスは思った。リキアは諸侯の共同体なのだが、それぞれの諸侯は自分のことしか考えていない。
リキアの盟主は、他国では国家元首と同格の扱いを受けているし、オスティア候はそれを享受してきた。なのに、国家元首としての責任を問われたら、そのような義務はないと答える。そのような都合のいい話が何時までも許されるわけがない。
「だが、だからと言ってリリーナを差し出せというのはあんまりではないか……」
「お気の毒としか言いようがありませんが、嫌なら盟主の座から降りられればいいでしょう」
「オスティア家はどうなる……?」
「新たに子どもを作るか、養子を入れればいいでしょう」
ヘクトルの目から涙が、両拳から血が零れた。
【第5章・第2話】
ナーシェンは午前中は官営工場を見て回ったり、練兵場や学問所に顔を出したり、街に遊びに行ったりして時間を潰す。朝は結構暇なので、ナーシェンは好きなことをしている。
午後からは文官が作成した報告書に目を通す。夕方までに各方面への指示を文書にまとめて、翌日の朝までに届くように早馬を飛ばした頃には夜になっている。とはいえ、昼からの政務はどうしてもという用事があればジェミーに任せることができた。
飯食って風呂入ると、そこからはナーシェンの自由時間になる。
これが、最近のナーシェンの基本的なスケジュールである。
「ちーちちっち、おっぱ~い!」「ぼいんぼい~ん!」「ぼいんぼい~ん!」
この日の夜中、自由時間――ナーシェンは配下の竜騎士Sを連れて、ナーシェサンドリアに繰り出した。夜になっても道の左右にかがり火がたかれている街。俗に言う色町である。
「もげ! もげ! もげ!」「ちちをもげ~!」「「もげ!」」
配下の騎士たちとお下劣な歌を口ずさみながら、ナーシェンたちはある妓楼の前で立ち止まった。
「諸君、私たちは今までどれだけこの時を待っていたのか……。この時だけのために生きてきたといっても過言ではない。我が人生の大計は今日成就するのである」
ナーシェンの言葉に、騎士たちはそれぞれの思いを語り出した。それは人生の苦難であり、世の中への怒りであり、漢としての有り方であった。皆で声を揃えて「ナーシェサンドリアよ、私たちは帰ってきた!」と叫ぶ。
「ついに、我が街にも娼館ができたのだー!」
ナーシェンにとっては今更だったが(と言うのも、建設許可を出したのはナーシェンだ)、配下の騎士たちの中には初耳の者もいたらしく、彼らは狂喜して服を脱ぎ出した。先走りすぎだ。
「全軍突撃ー! よし、私も行くぞ――! ………………ぷぎゃ」
ここが戦場だったら剣を抜いて、突撃の合図のように振り下ろしていただろう。
そんなナーシェンの叫びに従い竜騎士Sが娼館に突撃する。
突撃……する?
竜騎士たちは恐るおそる背後を振り返った。そこには丸コゲになったナーシェンの姿が。
そう言えば、ジェミーが新しい魔道書を手に入れたと言っていたような気がする。彼らは「ジェミーちゃんサンダーストーム」と聞いたような気がした。空耳だが。
翌朝「ピンポイントで雷どっかーん、どんなトリックぅ?」と詰め寄るナーシェンに、ジェミーは「嫌な予感がしたんですよ」というわけのわからない返事をしたそうだ。
ちなみに、娼館の建設にあたって、ナーシェンは江戸時代、幕府が大火事を切欠にすべての娼館を吉原に封じ込めたという話を思い出して、その話にあやかって建設場所を指定した。また、勝手に別の場所で運営していた出会い茶屋(この表現もおかしい。現代風に言うとブルセラショップ?)を禁止し、指定した営業場所に移動させたそうだ。
縄張りを始めると、大量の風俗業経営者が流れ込んできて、でっかい遊里ができてしまった。
ナーシェサンドリアの商圏はごっついのだ。
―――
黒コゲになって担ぎ込まれたナーシェンに、ジェミーは溜息を吐いた。ピクピクと痙攣している馬鹿をベッドまで運ぶ。オスティアの公女が嫁いでくるというのに、どうしてこのような阿呆なことをするのか。
小一時間ほど問い質したかったが、そのナーシェンは気を失っている。
多分、何も……考えていないのだろう。普段はこの人、馬鹿だから。
「ホントに、馬鹿なんですから」
ナーシェンの寝顔は穏やかであった。
ジェミーはナーシェンの口元に顔を寄せる。
「んっ」
「……………ん。って、ちょちょちょ、ちょいまてぇぇぇい!」
ナーシェンは飛び上がって、壁際まで後ずさった。押し退けられたジェミーは自分の行動が信じられないといった様子で、自分の口元に手を当てている。
「え、あれ? ナーシェン様?」
「き、きしゃまは何てことをしてくれーるのですか! こう言うことは好き合っている者がやることであって、うほほっ、最高だったじゃないか……じゃなくて、えっと、……マジですか?」
「……ホントに、鈍感なんですから」
ジェミーは溜息を吐いた。
「あのさ……」
ナーシェンは立ち上がる。どこか虚ろな目をしながら、明後日の方向を眺めてこう言った。
「私は現実から逃げる。あらゆる現実から逃げるよ」
そう言って、ナーシェンは額を壁に叩き付け、白目を剥いてぶっ倒れる。
この程度の行動は予想済みだったジェミーは、すぐさまナーシェンの服を脱がすと、自分の服も脱ぎ捨ててベッドに入った。ジェミーの服から五冊の魔道書がゴロゴロと転がり出たのが絵的にシュールである。
―――
数刻後、目覚めたナーシェンは隣にジェミーが寝ているのを見て「何だかなぁ」と呟いた。
ジェミーのさり気ない好意に、ナーシェンは気付いていた。決して鈍感というわけではないのだ。ただ、どう答えていいのかわからなかった。ここまで露骨に好意を示されたのは、ナーシェンの人生では初めてである。
ナーシェンとジェミーは全裸だったが、やることをやった記憶はない。
「………この物語の登場人物は十八歳以上です、ってか」
まぁ、この世界の女性は十五歳になれば嫁に行く。十四歳のジェミーとやることをやってしまっても、何の問題もない。それに、普通の貴族は使用人に手を付けている。ナーシェンのやることを咎める者はいないだろう。
でも、それではナーシェンの筋が通らないのだ。
「私はナーシェンなんだけどなぁ」
こんなことが許されるのだろうか。ひとつ間違えば死ぬ運命にあるのだが。
ナーシェンはジェミーの髪を撫でた。ジェミーはくすぐったそうに身をよじる。
翌朝、ナーシェンは家臣を集めてリリーナの輿入れの二ヶ月後にジェミーを側に入れることを宣言する。突然そのようなことを聞かされたジェミーは、ナーシェンに「おい、私では不満か」と言われ、涙を浮かべながらナーシェンに抱き付いた。
その後、衆目を気にせずに唇を押し付けた。