エトルリア軍の本隊は兵糧の補充に手間取っており、未だオスティア近郊で右往左往していた。
諸侯から兵糧を買い付けるにしても、リキアの諸侯はベルンに睨まれたくないので、間に商人を介して言い逃れができるようにしなければならない。そのため、兵糧の値段がつり上がり、金を求めて遠征に出た貴族たちからは早くも厭戦気分が漂っている。
「オスティアの商人たちから兵糧を買い占めるとは、完全にはめられたわね」
セシリアは親指の爪を噛んだ。急いで本国からの補給ルートを用意しているのだが、どうしてもエトルリアやリキアの悪政を敷いている諸侯の領地を通過するため、山賊から略奪に遭う恐れもあった。
本来なら持参した兵糧とオスティア→ベルン西部の補給ルートで三ヶ月は戦えるはずだったのだ。
だが、この状態でベルンに入ったら一ヶ月も戦えなくなる。本国からの補給が追いつくまで、最低でも一週間はかかるだろう。それまでにパーシバル将軍が耐えられるとは思えない。ベルンの本隊がそろそろ動き出すのだ。
思い悩むセシリアに、貴族のひとりがこう言った。
「リキア地方の諸侯と戦をするわけではないから略奪もできませんからな」
「クレイン将軍。この人をつまみ出して」
いいんですか? と目をやるクレインにセシリアは頷いた。クレインは溜息を吐いて、わめいている貴族に当身を入れると衛兵に預ける。
「ところでクレイン将軍。あなた、敵将ナーシェンとは顔見知りだったわね」
「ええ、まぁ……」
周囲の貴族から視線が集まり、クレインは居心地の悪い思いをしたが、友人だと言わないあたりにセシリアの気遣いを感じた。
そもそも、あの友人は出会いからしておかしかった。
顔合わせは、侯爵家で開かれたパーティの会場である。
ナーシェンは多忙で、クレインは話しかけるタイミングが掴めなかった。しかし、父から挨拶しておけと言われている。父は「彼は変わっている。変人と言ってもいい」と言っていた。クレインは父の方こそ変人なのでは、と思うのだが、あの魔道と妻のこと意外はほとんど興味を示さない父が他人のことを評価するのは珍しい。
クレインは決心し、ホールで給仕たちを統率している少年に声をかけた。
「ああ? 何だよ、こんな忙しい時に……って、美形!?」
面倒臭そうに振り返り、いきなり騒ぎ出した少年に、クレインは面食らった。
「うわ、まぶしっ! 近寄るな、この美形! 妬ましいんだよ!」
無茶苦茶である。
ちなみに、この後クレインはナーシェンに騎士の誓い(お互いの手の平を切りつけて、互いの傷口を合わせる儀式)を提案したのだが、ナーシェンは「そんな痛そうなことやってられるか」と断わってしまった。
二度目の時。
ナーシェンがベルン北部を平定し、内政に力を入れている時。エトルリアに交易品の販路を作ろうと試行錯誤していたナーシェンは、リグレ侯爵の力を借りるのが一番楽だと判断した。アポイントも取らず、いきなり出現したナーシェンに、クレインとクラリーネは口をあんぐりと開けて固まってしまったものだ。
「今日はパント殿に話が……おお、クレインか。久しぶりだな、美形。ところでパント殿は? え、魔道書漁りに外出? なんだよー、じゃ待たせて貰うぜー」
相変わらずの傍若無人さに呆れ果てていると、不意にナーシェンはマトモな目をしてこう言った。
「あのな、お前、武官はやめとけ」
と言い出した。クレインはエトルリアの軍人を目指している。そのための教育も受けている。いきなり何てことを言い出すんだ、と激昂するクレインに、ナーシェンは悲しそうな目をした。
「まっ、そこまで言うなら止めないけどな。でも、戦場で出合ったら容赦はできないからな。死んだ方がマシだって目に遭わせることになるかもしれないけど、その時は寛容な心で許してくれよ。戦場のならいだから」
そして現在。
「あいつは……普段はただの馬鹿にしか見えません。道化を演じているのかもしれませんし、本当にただの馬鹿なのかもしれませんが、ともかく、あいつは時折、私たちが想像もしないことをやってのけます。普段は馬鹿なのですが」
「そう。普段は馬鹿なのね」
感心するところはそこではないと思う。
クレインは溜息を吐いた。
「私見ですが、あいつは自分が必ず勝てるという体勢を整えるためには手段を選ばないと思います。言い換えれば、必ず勝てる体勢を整えるまでは仕掛けて来ないと言うことになりますが、裏の裏をかくのも得意なので油断はできません」
あと、これは皆の前では言えなかったのだが、ナーシェンは自分のことを『知将』だと思っている節がある。だが、エレブ大陸の共通見解は『ナーシェン=謀将』である。戦場で華々しく采配を握る知将ではなく、暗闇の中で敵を陥れてほくそ笑んでいる謀将。どちらの方がマイナスイメージが強いのか、答える必要はないだろう。
【第4章・第8話】
ナーシェンは大陸中の貴族たちからオーベンシュタインのごとく畏怖されているとも気付いていなかった。ナーシェンの周りの者たちも、謀将どころか知将とすら思っていない。ナーシェン様は美しい、と部下に言わせて悦に浸っている馬鹿である。道化と言うのが正解だろう――と真実を言い当てていたが、敵対する貴族は絶妙なる勘違いでナーシェンを恐れている。
ナーシェンは軍勢を揃えながら、前方を見据えた。一両日中にパーシバル将軍が到着する。ナーシェンの兵力800とファルス公爵の500で押し潰してしまおうと言う作戦だ。
ナーシェンは万全の陣形を見て、ニヤリとほくそ笑んだ。
「たまには正々堂々とぶつかるのも有りだよな」
ジェミーは何を言っているんだこの人は――とジトーっとした目を向けてくる。
「パーシバル将軍の兵士は連日の戦闘、休む間のない行軍で疲れ切っていますよ。さらに、兵糧の補給も心細くなっているはずです。そこを万全の陣形で迎え撃つのに、なにが正々堂々ですか」
「い、いや……でも、私はまだ正規兵を相手取った普通の戦をしたことがないんだから……」
「だから策を弄する、ですか」
ジェミーはすでに敵兵がナーシェンのことを謀将と恐れていることを知っている。
これでまたその異名に箔が付くのだろうなー、と思って呆れるばかりである。
と、上空から竜騎士が高々と叫んだ。
「パーシバル将軍の軍勢およそ500。距離2000。我が軍の正面に出現!」
ナーシェンの顔に狡猾な笑みが浮かんだ。
「さて、お手並み拝見といこうか」
―――
パーシバルを迎え撃つナーシェン。その陣形は魚鱗の陣であった。
魚鱗の陣や鋒矢の陣など、日本の歴史を紐解くとこのような「八陣」が見付かるだろう。これら陣形は中国式軍制と共に律令時代に日本にやって来たと言われている。しかし、大陸とは地形も異なり、恒常的な集団訓練を行わない戦国期の軍隊が、こうした整然とした陣形を作ることは不可能だった――という説がある。
ヨーロッパでは(古代ギリシア、ローマはともかく)近代的な常備軍が創設されて、初めて陣形が形勢できるようになった。そうした面で見れば、「八陣」は机上の空論か、軍記物の形容詞にすぎなかったと言われる。
「其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如し、動くこと雷霆(らいてい)の如し」
だが、ナーシェンはこの陣形術を否定しているわけではない。三方ヶ原で武田信玄が魚鱗の陣を敷いて徳川家康を迎え撃ったと言うエピソードにはロマンがある。その上で、ナーシェンはこの「八陣」とは別の陣形を組み上げた。
「全軍突撃!」
以前に使っていた『毘』とは異なり、『疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山』の『風林火山』の旗指物である。
ナーシェンが采配を振り下ろした。
兵士たちが雄叫びを上げながら突撃を開始する。パーシバル軍の兵士は極限の疲労に達しており、とてもナーシェンを迎え撃てる状態ではなかった。
そして、ナーシェンの兵士800がすでに援軍に駆けつけているという誤算。ファルス公爵の500だけなら、まだ何とかなったはずだ。だが、1300の軍勢に襲い掛かられては、流石の騎士軍将もお手上げだった。
「――くっ、相手の方が一枚上手だったか。覚えておくぞ、ナーシェン。貴様の名はこの胸に刻み込んだ! 次に見える時は覚悟しろ!」
パーシバルは撤退を決め、本隊と合流することにした。だが、それまでに何人の兵士が生き残れるか。戦いで最も損害を出すのは撤退時である。