エトルリアの王都アクレイアでは、各地から諸侯が集結していた。
クレインは父の代わりに300の兵士を率いて参陣している。出陣前に父パントから、この戦が終われば正式に公爵家の爵位を引き継ぐと伝えられていた。すでに王家にもこのことは伝わっており、クレインに将軍位が与えられている。
エトルリアの軍事システムは三軍将をトップ、その下に将軍が従っているというものになっている。将軍は各諸侯をまとめて指揮する権限を持っていた。このシステムのお陰で大規模な軍勢を速やかに編成することが可能で、さらに指揮権がどこにあるのか混乱するケースが減るということで、エトルリアの軍事システムはベルンのそれより進歩していると言えた。
「クレイン殿は第三陣の副将になります。至らぬところも多かろうと思いますが、どうか私の補佐をよろしく頼みます。えっと、暗い顔をして……何かあったの?」
「い、いえ……! そ、そのようなことなど……」
クレインはセシリアに瞳を覗き込まれ、慌てて両手を振る。
美形ではあるがクレインは同年代の美女と話す機会があまりなかったので、言葉にできない気恥ずかしさを感じていた。
「ちょっと、恥ずかしいことなのですが、出陣前に妹と喧嘩をしてしまいまして……」
「まぁ」
両手を口に当てて驚いているセシリアに、クレインはとぼとぼと話す。
そう、あれは屋敷で輜重兵に運ばせる物資を点検していた時のことだった。
「お兄様! ベルンに侵攻すると聞きましたけど、それは本当ですの!?」
クラリーネに詰め寄られ、クレインは返答に窮した。
妹は戦争そのものを忌避しているわけではない。
クレインの身を案じている、それもあるだろう。
「お兄様はナーシェンと矛を交えるつもりですの!?」
そう、ナーシェンだ。クレインは頭が痛くなった。
「戦場では、個人の友情なんて紙屑のようなものだよ。私もナーシェンも国に忠誠を誓っている者。何時かはこうなると、お互いに覚悟していたはずだ。……戦場で出会えば、私はナーシェンを討たなければならない」
「―――っ! お兄様の馬鹿! 大嫌い!」
大嫌い。大嫌い。大嫌い。
クレインの脳内で妹の声が響いていた。
その後、クレインは瞳を灰色に濁らせたまま出兵の準備を続けた。
以上である。
セシリアは気の毒そうにクレインの話を聞いていた。戦争前に身内の愚痴を聞かされる方が気の毒なものだが、彼女は母親のルイーズを思わせるほど優しかった。同い年の女性に母性を感じるのもどうかと思うのだが、クレインはころりと参ってしまいそうな自分を意識した。
セシリアが邪心のない優しげな笑みを浮かべる。
「では、必ず生きて帰らないといけないわね」
「ええ、そうですね」
セシリアの近衛騎士団500とクレインの300。その他、諸侯の軍勢が200。
合わせて1000。それが第三陣の編成である。
第一陣は宰相ロアーツ公爵とアルカルド侯爵率いる1500。
第二陣は大軍将ダグラス率いる1000。
パーシバル将軍率いる先遣隊の500がすでにベルン西部に進軍している。
合計4000の軍勢がベルンに出撃した。
【第4章・第6話】
ブレン卿の要請により重い腰を上げたエトルリアの精鋭、国王直属の騎士500が騎士軍将パーシバルに率いられ、驚くべきことにリキア地方を素通りしてベルン西部を強襲した。
普通ならサカ地方の国境のあいまいな場所を進軍経路にするものである。過去の歴史でも、このサカ・リキア回廊が用いられてきたものだ。あまりサカ深部に侵入すると、サカの各部族の連合軍から敵意ありと見なされ補給網をズタズタにされるので、サカの浅いところからベルン西部、または北部に進軍するものだと、ナーシェンや各諸侯たちは考えていた。
エトルリア軍500は奇襲によりブレン卿の領地を強奪。そこで進軍をやめて周囲の貴族たちを調略し始めている。すでに寝返った諸侯も数多く、ファルス公爵が粘っているが、戦線は押され続けているという現状であった。
ナーシェンはベルン東部の港から輸入した魚介類を干物に加工するために試行錯誤している最中にその報を受け、思わず伝令の兵士に魚の目玉を投げ付けてしまった。「うわっ、グロッ!」と叫ぶ伝令に目もくれず、ナーシェンは執務室に走ると、すぐさま出兵の準備を始める。
「流石は騎士軍将パーシバルと言ったところですね。神速の行軍には恐れ入ります」
アウグスタが隠居したため、侯爵を継いだアルフレッドが軍勢を率いてかけつけていた。
グレン侯爵、ベルアー伯爵、カザン伯爵などが集結し、すでに軍勢は1000に膨らんでいる。
「しかし、状況はこちらの不利か。ベルン西部を切り取られたままでは和議もできんからな」
集まった各諸侯の軍勢を、ナーシェサンドリアの兵舎で整えながら、ナーシェンはぼやく。
この状況で講和すれば、エトルリアの国王はベルン西部の土地の一部を要求してくるだろう。ベルンは喉元にナイフを突きつけられた状況になるわけだ。こうなることがわかりきっているので、どうにかしてベルン西部を取り戻さなければならない。
リキアの連中は、今のところは静観している様子だった。領地を通過するエトルリア軍に兵糧を渡している諸侯もいたが、少なくともオスティア候はそこまで軽率ではなかった。
ナーシェンは国王からの命令に従い、ベルン北部同盟の諸侯をまとめた1000の兵士を率いて(300を領内の防備に置いておく)ベルン西部に出撃する。
一方、本国ではマードック将軍を主将、マードック配下の武将ゲイルを副将にした1500の軍勢が編成された。
東部と南部の軍勢1000もすでにベルン王宮に到着している。
さらに、状況次第ではゼフィール自身が2500の兵(マードック・ゲイルの1500と東部・南部の1000を合わせた軍勢の指揮権を奪って)を采配する可能性もあった。
マードックとゲイルの1500。
東部、南部の1000。
西部のファルス公爵の500。
北部のナーシェン公爵の1000。
合わせて4000の軍勢がベルン西部に集結する。
モルドレッド王の目論見は外され、決戦の気配が漂って来ていた。
―――
ナーシェンは1000の軍勢を揃えて、ベルン西部に進軍したが、その途中で行軍をやめて陣を張った。国王から「さっさと戦闘しろ」と矢のような催促が来ているが、ナーシェンはカツオ節を齧りながら、時を待っていた。
今回の戦は「働きたくないでござる(意訳)」と叫んでいるカレルも参加させるつもりでいる。
さらに、カレルが手塩にかけて育ててきた剣士隊50人が軍勢に加わっている。
全員キルソード装備である。財力に言わせて編成した悪夢のような軍勢だ。
「トリスティア侯爵が寝返ったようですね。このままではファルス公爵が孤軍と化してしまいますが」
「あとで詫びを入れる。それより……」
「オスティアの兵糧買占めは終わっております。物価が高騰して、オスティア経済は大混乱に陥っていますけどね」
「で、あるか」
報告をまとめるジェミーにナーシェンはにんまりと笑みを浮かべる。
我、勝てり――そのような声が漏れてきそうな表情だった。
これで、リキア領内を通過する後続隊の進軍速度が鈍るだろう。
「トリスティア侯爵が守るハイルダン砦には、すでに大量の矢文を投げ入れています」
「で、あるか」
トリスティア侯爵が守っているハイルダン砦は、ベルン西部の中央にある要地であった。この地を持っている限り、ベルン西部は落ちないという砦だ(今は奪い取られているわけだが)。
そのため、難攻不落とは言い難いがそれなりの要害で、過去の歴史で、名将が守れば八倍の兵力に囲まれても落ちなかったことがある。小田原城とまでは言わないが、稲葉山城と言うほどには落ちない城なのである。
「では、トリスティア侯爵の砦を抜くぞ。パーシバル将軍が援軍に駆けつけるまでにな」
トリスティア侯爵家にはレイダンとグレイドという二人の剛勇の騎士が居たが、ナーシェンはこの二人に向けて、それぞれ別の矢文を大量に射ち込んでいた。
『レイダン殿の武勇はこのナーシェンも聞き及んでいる。前からトリスティア侯には勿体ないと思っていた。私が砦を攻めた時に、内応してくれまいか。男爵の爵位を用意しているので一考されたし』
『グレイド殿の武名はこのマードックも前々から気にはなっていた。この程度の戦で死なせるには惜しい武人だ。ついては私が砦を攻めた時、城門の扉を開けておいてはくれまいか。すでにゼフィール様から男爵の位をやっても惜しくはないと許しを得ている』
巧妙な内応策である。
この矢文により、二人の名将の結束に亀裂が生じた。お互いが裏切り者ではないかと疑心暗鬼になり、さらに自らも寝返りを考え始めたのである。そんな二人を見た兵士たちは、この戦に勝ち目はないのではないかと弱気になり、士気は下がり続けた。
トリスティア侯爵が名将なら、何らかの有効的な対策を講じただろう。だが、侯爵の対策はその場しのぎにもならなかった。
砦は戦わずして落ちた状態になった。
ナーシェンが砦に到着した頃には、すでにトリスティア侯爵は自害しており、砦の内部でレイダンとグレイドが戦闘行為を行っていた。ナーシェンはすぐさま砦を攻め、レイダンとグレイドの首を上げると、砦を空にしたまま後退した。
援軍に駆けつけたパーシバルは警戒して、中々砦を攻めようとしなかった。
パーシバルは「待て、これはナーシェンの罠だ」と部下に漏らしている。
しかし、この砦は無策で放置されていた。
空城計である。