「うわっ、このっ、暴れるな!」
青空の下、ひとりの少年の悲鳴が虚しく響いた。
飛竜の雄叫びは鼓膜を引き裂かんばかりのものであり、飛竜の機嫌が悪いのは明らかであった。
「あー、ちくしょう。お前らも笑ってないで何とかしろ!」
ナーシェンは暴れる飛竜に振り回され、それを爆笑している騎士たちに叫ぶ。普段からナーシェンの奇行に振り回されてきた騎士たちは、ここぞとばかりにナーシェンを指差して嘲笑っていたりする。騎士道はどこにいった。
やがてナーシェンは飛竜から振り落とされた。
尻餅をつきながら、ナーシェンは飛竜を見上げる。
飛竜の目が、こちらを嘲笑っているような気がした。
「……ふ、ふんっ! 別に飛竜に乗りたいだなんて考えてないんだからな!」
ナーシェンは捨て台詞を残して、屋敷に逃げ帰った。
執務室に逃げ込むと、机の上に積み上げられた書類が目に入る。
「ぐすっ……いいんだもん……。私は机仕事が似合う男になるんだもん……」
しかし、何故だろう。
ナーシェンはここ数日、飛竜に乗る試みを続けてきた。だが、ほとんどの飛竜がナーシェンを背に乗せたがらなかった。
本来、ナーシェンは飛竜に乗れたらしい。ひとり飛ぶことは許されず、歩き回るだけだったが、それでも飛竜から振り下ろされるようなことはなかった。
「あれか? 憑依したからか?」
ナーシェンは顎に手を当てる。
竜騎士でないナーシェンなんてナーシェンではない。そう思う。
これでは三竜将になれないではないか。
「………………あれ? えっと……いや、別に三竜将になる必要はないのか」
ナーシェンはポンと手を打った。三竜将になれば国王直属の近衛騎士団3000人を操る武将の頂点になれるのである。すべての武人の憧れの的といってもいい。
だが、3000人を三つに分ければ1000人。
三竜将になっても、動員できる兵力は1000人。しかも、この力には大きな義務が伴う。1000人でリキアを落として来いと言われても、常識的に考えて無理がある。
ナーシェンの都市計画は十年で領地の動員兵力を1000以上にできると見積もっている。わざわざ三竜将になる必要はないのである。
と言うか、ナーシェンにとって三竜将就任は死亡フラグなので、絶対に避けなければならない。
まぁ、飛竜に乗れないなら乗れないで、それでいい。
ナーシェン机の引き出しを開けた。
「古代の魔法。……闇魔法か」
【第3章・第2話】
「……はぁ」
整備された街道を馬車が進む。
ベルン北部同盟が発足し、ベルン北部の街道はあらかた整備された。ナーシェンの宝物庫を空っぽにする勢いで道路が敷設されたのである。このため、商人の行き来が活発になり、ベルン北部は空前絶後の急成長を始めている。
トラヒムとの一戦の際、ナーシェンが本陣を構えた喫茶店の周囲は、すでに都市化が始まっている。
本陣を残しておき、自由に利用して構わないと言っておいたため、他国から流れてきた者たちがあっと言う間に村を作り上げ、それが街に発展しかけているのである。
馬車はオスティアに向かっている。
留守中の政務はバルドスに任せてきた。ついでにジェミーに政務を教えてやってくれと頼んでいる。
ジェミーは頭が切れるから、すぐにバルドスのやり方を自分のものにしてしまうだろう。
その点は心配していない。
「………………オスティア、か」
前作の主人公のひとり、ヘクトルの領地である。
原作で、ナーシェンはヘクトルを殺している。
「会えない、な。うん、顔合わせは無理だ」
情が移れば、いざと言う時に戦えなくなる。
三竜将にならない時点で、原作通りに物語が進むとは思えないのだが、万が一ということもある。
溜息しか出てこなかった。
―――
ナーシェンが出した宿題に、ジェミーは頭を抱えた。
「なにか理解できない点でもありましたかな?」
「いえ、そっちじゃなくて……」
そう言うと、バルドスは「ああ」と頷く。何も説明していないのに、ジェミーが何について悩んでいるのか見抜いてしまう。この人は、本当は油断ならない人物なのではないかと時折ジェミーは考えることがある。
彼女は大人の悪意に敏感だ。
「……どうしましたかな?」
「あ、いえ……」
うわの空になっているジェミーを見かね、バルドスは溜息を吐いた。
「今日はここまでにしておきましょう。ジェミー様は、お先にナーシェン様からの課題をお片づけになられて下さい」
ジェミーのことを様付けで呼ぶバルドスに、ジェミーは表情を歪めるしかなかった。最初、やめてくれと訴えた時、バルドスはそ知らぬ顔をして「将来ナーシェン様の奥方になられるかもしれないので、今のうちに恨みを買いたくないので」とすげなく訴えを切り捨ててしまった。
傍から見れば、ジェミーがナーシェンに好意を抱いているのは丸わかりなのだそうだ。
相手は侯爵。それに比べて、自分はただの平民。身分違いにもほどがある。
だから、ジェミーは自分の気持ちを隠してきたつもりだった。
たかが九歳。その内、自分の気持ちも変わっていくだろう、と冷めた気分で考えていた。
なのに、バルドスは「将来奥方になられるかも」と言う。
期待して、いいのだろうか?
高望みでは、ないだろうか?
「では、失礼します」
バルドスは書類を抱えて執務室を後にする。
ジェミーは我に返った。
「はぁ、たった二日なのに……」
執務室の主は不在だった。
ナーシェンがオスティアに旅立って、まだ二日である。
―――
ナーシェンがジェミーに出した宿題とは『学問所』の建設である。
学問所……つまり、教育機関である。ナーシェンは領内に、最低でも初等教育を行える環境を整えたかった。ナーシェンは「難しいだろうが、数年後には領民の生活に余裕が出てきて、教育を義務にできれば最善だけどな」と話していた。
とりあえずのところは、裕福民の子弟が通う学校にすると言うことらしい。
そして、今回のナーシェンのオスティア遠征の目的のひとつに、オスティアの知識階級のスカウトがある。ナーシェンの領内には、もう学のある者は残っていないのだ。
……と言うと語弊がある。ナーシェンは文字が読める者などを下級役人に取り立てているのである。
「ナーシェン様が留守の間に、最低でも建物の建築計画は済ませておかないと……」
ジェミーは領内の地図をめくる。
建設予定地はすでにナーシェンが確保している。喫茶店の真向かいである。ナーシェンはここは領主館と学問所を建設するので勝手に家を建てないように、と村人たちに述べている。
ついでに予算も確保してくれている。
つまり、ジェミーは建材――できれば石材と、設計図を引ける大工、あとは大量の労働力を用意すればいいのである。
なんだ、簡単だ……とは思えなかった。
教室数は最低で二十個、教員室、実験室などを含めると部屋数は四十個にも及ぶ、三階建ての大規模建造物である。ジェミーはナーシェンの屋敷を建てた人物などを資料から探してみたが、いずれも故人である。
「どうしよう……」
ジェミーは頭を抱えた。ナーシェンの頭痛薬を愛用している気持ちがわかる気がする。
九歳の少女に政務を任せるナーシェン、すでに末期である。
―――
カレルは剣を振る。血が飛び散り、廊下を汚した。
侍女が悲鳴を上げているが、カレルは構わず死体の持ち物を探る。
気配を消して歩いているので気になって声をかけてみたところ、いきなり斬り付けられたのである。
「盗賊か、それとも密偵か」
毒塗りのナイフや盗賊がよく使うカギなどが見付かり、カレルは首を捻った。
おそらくだが、彼は盗賊ではない。すでに領内には、先代が溜め込んできた宝物を、ナーシェンが売り払い、その金で領内が開発されているという噂が流れている。それに、実際には直接ぶつかったわけではないが、戦争に勝利したばかりの家に侵入するほど、盗賊は肝が座っていない。
なら、密偵か。
カレルは剣を鞘に仕舞う。
「何事ですかな?」
「侵入者のようです。行き成り斬り付けて来たので、咄嗟に斬り返してしまいました」
バルドスはカレルの返答に苦い顔をした。生かしておいて欲しかったとでも考えているのだろう。拷問にかけられなかっただけ、彼はまだ幸せだったかもしれない――と思いながら、カレルは死体を見下ろした。
「おお、抜刀斎は人を斬る時には凍りのような目をするって聞いていたんだが、本当みたいだな」
「人斬り抜刀斎、恐るべし」
「私見ですが、おそらく彼は密偵でしょう」
カレルは野次馬化している騎士たちを剣魔の目付きで追い払う。
「そうですか。しかし、どの国の密偵でしょうな。こんな深いところまで忍び込んでくるなんて」
カレルが偶然遭遇していなければ、この密偵はあっさり情報を持って帰っていただろう。
あっさり斬ってしまったが、この密偵はかなりの実力を持っていた。今までも何度か忍び込んでいたのかもしれない。