「ようやく始まったようだな」
グラスでぶどう酒を傾けながら、ゼフィールは詰まらなさそうに呟いた。
ベルンの王宮。ゼフィールの寝室である。
傍には、忠臣マードックが控えていた。ベルン三竜将の筆頭であり、戦場では解き放たれた猪のように暴れまわるこの男は、普段はほとんど口を開かない寡黙な男だった。特にゼフィールの御前になると、寡黙っぷりはさらに磨きがかって、まるで彫像のようになってしまう。
「マードック。お前は、勝利するのはどちらだと思う?」
「……僭越ながら私見を述べさせて貰えることを許されるのなら、私はナーシェンが勝つのではと考えております」
「何故だ?」
「すでに小僧が行ってきた数々の政策についてはお聞き及びでしょう。あの小僧が、二ヶ月の準備期間をただ無為に過ごしてきたわけではないことは明白」
ゼフィールは頷く。
おそらくだが、ナーシェンは負けたときのことも考えている。たしか、あの小僧はエトルリアのリグレ公爵と昵懇の間柄だったはず。亡命先として渡りをつけていると見て間違いあるまい。
あれほどの人材だ。魔道の狂人パントでも、その有用さは理解しているだろう。
「わしとしては、どちらが勝っても構わないのだがな」
「………………………」
今回、ナーシェンの父を暗殺したのはゼフィールである。
ナーシェンの父が倒れれば、戦が起こるのは目に見えていた。この戦でトラヒム卿が勝利すれば、ゼフィールは大きな力を持った味方を作ることができる。ナーシェン他、アウグスタ卿などの領地は、王族領に組み込まれることになるだろう。
だが、ゼフィールとしてはナーシェンが勝利しても問題ないのである。
内戦を黙認してやった、という事実が残るのである。普通なら改易されてもおかしくない。
加えてトラヒム卿の領地を半分ほど加増してやれば、ほどほどに恩義を感じて少なくとも軍拡については反対することはなくなるだろう。
どちらが勝っても味方ができる。
ゼフィールは退屈そうに「高見の見物とでもいくか」と呟いた。
マードックは無言である。
【第2章・第11話】
派遣した斥候はこう言った。ナーシェンは喫茶店の真横に陣場を築いているらしい。トラヒムはそこから二キロ離れた川辺に布陣している時に、その報を受けた。
「戦をする気がないのかもしれんな、あの薄汚い商人は」
トラヒムは貴族とは戦場で槍を奮うことが本懐だと考えている。小銭を勘定して領民の人気稼ぎをしているナーシェンは、トラヒムにとって商人と同じかそれ以下にしか思えなかった。
商人ごときに遅れを取るわけはない。
トラヒムは自尊心を満たしつつ、馬上から周囲を見渡した。
「まだ布陣は終わらんのか?」
「あと一刻はかかるかと思われますが」
米搗きバッタ、フリッツ侯爵が額の汗を拭いながら答えた。トラヒムはフリッツにもっと急がせろと命じると、懐から干し肉を取り出し口に含む。
トラヒムは、戦の直前の空気が好きだった。
幼い頃より父に引き連れられ、山賊相手に戦ってきたことが思い出される。この頃に、トラヒムは戦争の味を覚えた。
イギリスのエドワード黒太子が百年戦争で切り取ったフランスの領地を経営していた時、増税しようとして周囲に反対されたのだが、「いいや、俺は好きな時に出陣するんだぜ。そのためには金が必要なのさ。財政が圧迫されてる? しったこっちゃねーよ」と言ったそうだ。
これが、いわゆる戦争馬鹿である。
トラヒムも戦争馬鹿であった。
「……おっと、忘れていた」
トラヒムは馬をくるりと反転させる。そこには、戦場の空気に途惑っている法衣を着た男がいた。
「お疲れでしたらお休みになってはいかがですか?」
「そうですな。まだまだ若い者には負けんと思っていましたが、歳は取りたくないものですな。疲れがすぐに身体に溜まる。想像以上に骨が折れました」
辟易とした顔をしている聖職者に、トラヒムは嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
これで、司教らしい。エリミーヌ教会も終わっているな、とトラヒムは内心で吐き捨てる。
だが、この戦争の最大の功労者は、今のところはこの老人なのである。
トラヒムは出兵まで二ヶ月の時間を要したが、それは軍資金が調達できなかったためだ。すでに山賊を討伐するために出兵を繰り返していたトラヒムの領地には、今さら外征に出れるほどの余裕はなくなっている。増税すれば領内で一揆が発生し、また出兵しなければならない。軍資金が溜まらず、トラヒムは発狂しそうになっていた。
そこで「ナーシェンの小僧を殺してくれるなら、いくらでも援助しますぞ」と金を出してきた聖職者がいた。それがオルト司教である。
トラヒムの持つ兵士350のすべてに銀製の武器が渡っている。
いかにオルト司教がナーシェンを目障りに思っていたのか、その装備を見ればよくわかる。
ともかく、これだけの装備があれば野戦ではまず負けることはないだろう。
トラヒムは満足げに頷いた。
―――
「ふむふむ。これは眼福だな」
アウグスタ侯爵は本陣から離れた森林の中に二百の兵を伏せていた。
自ら伏兵を指揮し森の中で兵士たちと寝食をともにしている。
兵士たちと同じ食料を採り、同じ寝床を使う。このことも、アウグスタが声望を得ている要因のひとつである。
アウグスタは視野が広く、大軍をまるでひとつの生き物のように動かせる。防御の薄い場所をすぐさま見て取り、そこに兵士を投入する技術に長けている。いわゆる防御の天才なのだが、防御では目立った武功を上げれず評価され難い。
今でこそアウグスタは『鉄壁将軍』と謳われているが、若い頃のアウグスタに名声はなく、行動で兵士の心を掴まなければならなかった。その時に指揮官だけ特別扱いでは兵士たちは納得しないだろうと思いつき、実行したのが始まりだった。
「……侯爵。何をなさっているのですかな?」
カザン伯爵がアウグスタに話しかける。
アウグスタは声の方を振り返ると、巌のような顔を恥ずかしそうに崩した。
「いやぁ、ナーシェン殿が『よろしければどうぞ』と言って渡してきたものでな。これが、意外とよくできている。この老木、年甲斐もなくはしゃいでしまったわい」
と言ってカザンに見せたのは、ナーシェンが著した官能小説『学校日和(R18)』や『戦国槍男』、絵師が仕上げた艶本である。
ナーシェンは援軍にかけつけた侯爵たちに大量の書物を進呈している。
すでに兵士たちの手に渡っており「誠死ね!」や「そうか、あの旗は謙信ちゃんのものだったのか」などの声があがっている。
カザンはそれを見てニヤリと笑う。
「ナーシェン殿は見かけによらず色を好むようですな」
「英雄色を好む、だな。私もこの歳になって思い知らされたよ。男とはこうありたいものだ」
アウグスタは書物を握り締め、両目を閉じる。自分も幼かった頃は、屋敷の女湯に忍び込んで侍女たちに袋叩きにされたものだ。あれから四十年が経ち、アウグスタはすっかり助平心を失ってしまっていた。
この書物が、悪ガキだった頃の心を思いださせてくれた。
「領地に帰ったら、女湯で汗を流すことにしよう」
「私は、ホコリを被っている女物の下着を洗濯することにします」
二人して地味に死亡フラグを立てている時、伝令の兵士が彼らの前に走りこむ。
「狼煙が上がりました!」
「おや、もう動き出したのか。敵さんもせっかちなことだ。がっつく男は嫌われるのにな」
「では、ナーシェン殿の作戦通りに動きますか」
アウグスタは頷く。
「そうだな。ナーシェン殿が死ねば、続編の『真夏日和』が読めなくなる」