四カ国。尾張に美濃に伊勢に伊賀か・・・。
貰ってテンション上がったのはいいけど、半年後には九州征伐か。
聚楽第の建造も始まったし、秀吉は関白になることが内定したし。
・・・征夷大将軍になるかと思ったけど、最初から関白になるつもりだったみたいだな。武家の頭領になっても所詮は百姓の子。
どうせ見下されるなら、公家の権威を利用して武家を統率するつもりか。面倒だのぅ、格式だの権威だの。
俺も九州征伐までには中将になるらしい。九州征伐では秀勝と家康の長男であり養子になってる秀康の初陣もある。
俺が面倒見ることになるんだろうか・・・秀康は将器があったという話だけど、まだ子供だしな。
さて、俺も九州に出発する前に領地経営をせねば。
その前に家臣を増やさないと。侍は信雄の浪人が山ほどいるからそのまま雇って問題ないけど。
問題は家老か。舞兵庫と田中吉政に五十万石づつ渡して解決! だめか・・・。
兵農分離政策が始まってるし、家康の抑えとして置かれたのは間違いないから清洲城も増築しないと。
やること多い。まあ、これも生き残るためだ。
秀吉が最近、茶々の元へ通い始めたらしいから、いよいよ俺の死へのカウントダウンも始まったのかもしれん・・・史実より功績あるからそう簡単には排除できんだろうけど。
結局、色々考えてもなるようにしかならんと割り切った秀次は、家臣集めに乗り出す。
とりあえず、舞兵庫の義父である前野長康とその息子、前野景定を家老として召し出す。
さらに史実では小牧・長久手で死んでいたはずの木下祐久・木下利匡兄弟を家老とする。
筆頭家老には田中吉政を置いたが、相談役として秀吉の御伽衆から宮部継潤と三好康長を迎えた。
舞兵庫には十万石を与え、戦場では采を取る役目を申し付ける。
可児才蔵も出世させようとしたが、現場で槍を振るうのが仕事、と固辞されたので禄は千石のままとし、代わりに秀吉より下賜された名刀・二つ銘則宗を与えた。
秀次は名刀だから喜ぶだろう、くらいの気持ちで与えたのだが、愛宕神社に奉納してあった刀なので愛宕権現の厚い信仰者である可児は落涙するほど喜び、この殿のためならいつでも死ねる、と朋輩に語ったという。
その他、三好康長の紹介で牧野成里、森九兵衛、安井喜内、高野越中、大山伯耆などを家臣団に加えた。
家臣団をある程度形にした秀次は、領地経営に取り掛かる。
まず彼は伊賀の道を整備する。秀長の大和国との交通の便を大幅に向上させ、尾張~大坂間の移動時間を短縮したのだ。
この道は商業的にも大いに役立つこととなる。
同時に伊勢・尾張の港を拡張。この時代、港によって商業規模が決まるのでこれは重要であった。
さらに尾張に京や堺から招いた鉄砲鍛冶、船大工、刀鍛冶、窯大将などを集めた工業都市というべき街を作る。
これは秀次が単純に作って運んで売ることを目的に津島港に隣接するように作られた。
また津島の港は拡張され大規模な造船所が作られることになる。秀次が単純に水軍が欲しかったのである。
大名である九鬼嘉隆の協力を得て、軍船の建造ができる技術者を移住させてもらったのだ。
安宅船のほかに、彼はバテレンの船を検分させガレオン船を作ることを命じる。
仙台の伊達政宗が慶長遣欧使節を江戸幕府初期に行っていることを思い出したため、たぶん作れるだろうとの目論見である。
最も、秀次はガレオン船を作っても何に使うか考えていなかったが・・・。
検地も順調に進み、清洲城改築にも着手した。津島港の拡張工事も始まったし、伊賀の街道整備も始まった。
工業都市も賑わい始めたから、今のとこ順調だな。
可児に新たに召抱えた信雄の浪人の中から腕の立つ者を集めて精鋭部隊も作らせてるし、新しい家臣団も機能している。
やっぱ、宮部の父ちゃんと三好の爺ちゃんを相談役に迎え入れたのは正解だったな。若い力だけでは組織はうまく機能しないのだよ。
現代の会社だってそうだったし・・・あの二人が人格者なだけの気もするが。
さて、九州征伐か。史実では秀吉本隊と秀長さんの別働隊という構成だったが、どうなることやら。
・・・あ、戸次川の戦い忘れてた・・・まあ、史実とすでに時期も異なってるから起こらないかも・・・。
新年明けて1585年。天正13年である。
秀吉は九州征伐を開始。自身が率いる本隊と秀次率いる別働隊の出発に先立ち、仙石秀久を軍艦とする先遣隊を九州へ送り込む。
毛利、長宗我部の部隊も大友と合流。九州征伐が開始される。
ちなみにここ最近体調を崩しがちな秀長は大坂留守居役となり、当然のように別働隊を率いるのは秀次となった。
秀吉本隊が十二万、秀次率いる別働隊が九万という、総勢は史実の二十万を超える二十二万に達するほどであった。
しかし史実通り軍艦の仙石が功を焦って暴走。これまた史実通りに大敗し、長宗我部信親が討ち死。先の四国征伐での失態を挽回すべく先遣隊に参加していた十河存保も討ち死。
激怒した秀吉は仙石秀久を蟄居させる。
一応、仙石に対して「本隊が行くまで戦闘は行わないように」と言っていた秀次も、それを無視して戦闘を開始し、大敗した仙石をかばうほどの度量は持ち合わせていなかった。
仙石秀久は秀吉が織田の一将校に過ぎなかった頃からの部下であり、譜代の家臣でもあったが、史実を知っている秀次はどうせ北条征伐で戻ってくるからいいか、と特に言及しなかった。
三月、秀吉本隊と秀次別働隊は九州へと上陸する。
世に言う九州征伐の始まりである。
ちなみに秀次は「島津と正面からぶつかるのはやだ」と舞兵庫に言っており、兵庫を呆れさせていた。
鬼とか西国最強とか言われる島津の兵と戦うのが怖かったのである。
逆に可児才蔵は新たな強敵とまみえる予感に胸躍らせていた。
とりあえずこの九州征伐が終われば北条征伐まで戦はない。その間に鶴松が生まれるけど、奴はほっとこう。
俺の最大の障害は秀頼だし。
北条征伐までは領地でのんびりできるかもな~。
そんなことを考えつつ九州に上陸した秀次。
九州征伐が終わったら秀次に嫁を取らせようと秀吉が考えてることなど、彼はまだ知らない・・・。