File_1921-12-001D_hmos.
満洲。
満洲は、万里の長城を境として、支那大陸の東北部一帯を指す広大な地域です。
支那では東三省とも呼ばれます。遼寧省・吉林省・黒龍江省の三つです。
280年前に満州族の皇帝が北京の明王朝を征服し、大清帝国が誕生しました。
清王朝が滅亡するまでは、歴代皇帝の出身地として、満洲は支那の中でも第一級特別区でした。
清王朝は近代以降、欧米諸列強による不平等条約に翻弄される中で、中央政権の統帥力を失っていきます。
満洲においては北辺を接するロシアからの長年の圧力により、遼東半島および大連港がロシア領となり、そこから国境まで縦断する東清鉄道と付属地がすべてロシア人の権益となっていました。
木材や鉄鋼の採掘権はロシアが独占し、関税もロシアが一方的に決め、一部の町ではロシア人以外の居住が許されませんでした。
日露戦争より4年前。北京で大規模な外国人排斥暴動が起こり、外交官も殺されます。これに対し、日本を含む8ヶ国が協同で報復措置をとりました。
清王朝最高権力者の西太后は、8ヶ国に対し宣戦布告。清は滅亡への道を早めます。
このときロシアは満洲へ攻め込み、支配地域をさらに拡大します。清国人25000人が殺戮されました。
日露戦争は、実質的にロシアの領土ともいえた、この満洲を主戦場としたのです。
ポーツマス講和条約で、日本は遼東半島のロシア租借地をそっくりいただきます。
東清鉄道のうち、旅順口から長春までの鉄道と付属地も手に入れました。
遼東半島一帯は、万里の長城最東端である山海関より東という意味で、関東州と呼ばれています。さっそく日本は関東総督府を設置し、領地の防衛と治安維持を開始しました。
大連は、清朝時代は青泥窪、ロシア領時代はダルニーという名前でした。パリをモデルにいくつもの円形広場を組み合わせた一大都市をロシア人が建設中だったのですが、都市計画ごと日本が引き継ぎました。
翌年には、安東市と奉天市に領事館を開設し、南満洲鉄道株式会社も設立して、国を挙げて満洲の発展に寄与する態勢を整えます。
関東総督府も、都督府へ改組。
さらに13年後、つまり現在より2年前に、関東庁へと昇格します。
このとき、陸軍部と独立守備隊は関東庁とは別組織として再編。関東軍となりました。