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驚いたものだ。
儂は、丸一日休みをつくって、小僧のところへ会いに行った。
奴は、操典を何度も読み返したものと思う。まず感想を聞いてみた。
「面白かったのですが、今ひとつ実感がわきません」
あたりまえだ。お前は実戦はおろか、基礎訓練だってしたことあるまい。
「精神論についてが長すぎます。具体的な戦術、作戦についての方がずっと重要なのでは?」
お前は極めて実務的だな。よいぞ。
「今年から、砲兵操典も登場したように書いてありますが、お持ちではないですか?」
ははははは。実は今日、それも持ってきた。いや愉快だ。お前は本当にすばらしい。
歩兵操典は昨年、大改訂されたばかりなのだ。
かつての白兵決戦主義のままでは、突撃した瞬間に火砲で即全滅だ。欧州ではこれがすでに常識となっている。
航空機との協働。砲兵との連携の重要性。夜間戦闘や遭遇戦も想定し、運動戦を効率的に行う。
そのために各級指揮官の権限を大幅に向上させた。
儂の仕事は、古い肉弾精神に凝り固まった士官どもの意識を改革させることなのだが、これが存外、骨の折れるものでの。
その点お前は、古い考えを知らないせいもあろうが、近代戦の考え方を、少なくとも頭では理解しているようだ。
すばらしい。まったく、すばらしい。
その後、儂は授業で実際に使っている、作戦想定問題を机の上に広げた。
地図と、各兵科を表した駒。状況を設定し、それについて作戦を考えさせ、評価する。
より近代戦に即した将棋だと思ってもらえばよい。
これに、小僧は目を輝かせた。
そして、儂を驚愕させた。
小僧、将棋はしたことがないという。
駒の動かし方くらいまでは覚えたが、遊んでくれる大人に恵まれなかったようだ。
だが、そもそも小僧の考える作戦は将棋の考え方に根ざしたものではない。
いるのだ。将棋や囲碁の定石を知っているが故にその平面的な発想から抜け出せない輩が、山ほど。
高地を取る重要性は、誰しも解ろう。子供が軍隊ごっこをするときでも、小高い丘があれば最初にそこを手に入れるべし、くらいは本能的にわかるものだ。
敵に奪われた高地を我方が奪取せねばならぬ状況で、小僧は斥候隊を二班出すことを立案した。
一班は攪乱、もう一班が実行部隊だ。先に気付かれた方が、曳光弾を発射して、逃げる。このとき、坂を上がる速度と、降りる速度を、その時点での装備量に即して計算して、必要な人員数を割り出すところまで、小僧、考え始めた。
今期の学生に、一人として、こんな奴はおらん。
「しかしこれは、あくまで机上の想定です。人員に余裕がなければ、一人倒されただけで作戦自体が瓦解します」
完璧な解答をしてみせた上で、そこまで言ってのける。
お前は作戦参謀向きかもな。そのうち、統帥綱領でも手に入れて持ってくるか。
とはいうものの、現実に参謀本部へ入るためには、頭がいいだけではならぬ。
連隊付で最低半年の実務経験も必要であるし、派閥争いも醜悪だ。
なあお前、軍人さんになりたいか?
小僧、虚ろな目をして考える。作戦を考えるときの目の色ではない。
厭な質問をされた。そんな目だ。
「私は、体が丈夫ではありませんし、研究分野であれば、貢献もできるかとは思いますが……」
研究で貢献するか。なるほどな。
派閥に与さず力をつけられれば、それに越したことはない。
薩長閥は言うに及ばず。今の陸軍には、無駄な派閥が多すぎる。
シベリア出兵も三年目になるが、いつまでも片付かぬうちに純粋な作戦立案をできる者がいなくなり、縁故が物を言うようになった。
小僧を陸幼へ入れることも考えていたが、今の状況では、そこで何にかぶれさせられるかわからん。
儂が道をつけるか。このまま。
帰る前に、宮本へ伝えた。
小僧がなにか欲しがったらできるかぎり与えてやれ。
無闇なわがままを言う子ではない。もっと言えと言いたいほどだ。
宮本は、心得ましたと了承してくれた。
儂には次の企みもできた。今度は、日露戦争についての史料と書籍をありったけ持ってこよう。
小僧なりの視点であの二年間を語らせ、分析させてみよう。どんな物語になるか、実に興味深い。
陸大の仕事も、国柱会の活動も忙しくなるばかりで、いつ来れるやらだがな。
まとまった時間がとれんと、なかなかな。
つらいぞ。ああ、つらくて、もどかしい。