File_1926-04-001D_hmos.
日蓮聖人伝。
日蓮大師は、国聖である。
日蓮大師は、日本民族の完全なる理想的人格であり、国民として求むべき完璧なる標準である。
皇紀1882年2月16日。日本国安房の邦、長狭の郡、東條郷市河村という海浜にて生誕なされる。
聖父、貴名重忠氏は、聖武天皇の末裔であった。
常に日輪を拝み、良児を授けたまえと念じた結果、聖母日輪が蓮華に乗って夢に現れ、晴れて御懐妊さる。
生を受けられたその日、庭先には清泉が湧いた。
聖人は幼名を、善日麿と称された。
すくすくと育ち、18歳で、日本国行政の中心地である、鎌倉へ留学。
勉学の末、法華経こそが釈尊の本懐なると悟る。
「諸宗はすべて謬りである。法華経を奉ぜざる国は亡びる。法華経に従うを大善、法華経に背くを大悪とする。この旨に違うものはすべて悪魔の眷属である」
しかし鎌倉では、同意得られず。
安房へ戻り、日輪に向かいて南無妙法蓮華経と唱え、名を日蓮と改むる。
30歳になり聖人は鎌倉の松葉ヶ谷に庵室を構える。
巷では念仏さえ唱えればよし、とする悪法が世を惑わせていた。その最大の執心者たるは政府の役人、地頭の東條左衛門景信。聖人を斬らんとするが、失敗する。
聖人は日々、辻説法に精力を傾ける。道往く人に問答を投げ、懇々と教えを説く。
一日たりと迫害のない日はなく、されど聖人は一日も怠らない。
鎌倉の町中が沸き立ってきたァ。
初の著書『立正安国論』で正々堂々と、邪法禁圧・正法帰依を諫告する。
これに従わねば天災が起き、国中で同士討ちが始まり、外国が攻め来たるぞと予言する。
鎌倉では、最高権力者である北條時頼が、まだ天魔たる禅宗を信じていた。
日蓮の庵は焼き討ちされるが、聖人は無事逃げ出し、焼ける自分の家を見て、悲しむべき亡国の民よと暴徒らの転迷開悟を祈りつつ、巧みに避難した。
山へ登り、難を避ける。山奥で白猿たちに導かれ、岩屋へたどりつけば日吉山王が祀られてあった。これは比叡山山王権現の守護であるぞ。
北條は、焼き討ちをした社会不逞の輩を処罰もせず。却って聖人を流罪にすべしと息巻いた。
良識ある人々は憤ったが、流刑地の伊東へ送られる船の上で聖人は終始、冷静であられた。
「我れは天日と共なり。旭日東天に出づれば、日蓮伊東に在ると思え」
この船は出立した日の夕刻に座礁し、冷血性の官人はここより勝手に伊東へ行けと聖人を海へ放り出す。
聖人は折り良く通りかかった舟守の彌三郎に助けられ、伊東まで送ってもらう。
伊東で三年暮らし、幕府の赦免となりて鎌倉へ戻る。
父は七年前に亡くなっていたが、今度は母が危篤ときき、すぐ駆けつけるが、すでに息絶えておられた。天に叫びたるや、たちまち母生き返る。鎌倉へ戻る。
東條景信の手勢数百人が立ちはだかり、大乱戦。このとき聖人は眉間に三寸の傷がついた。
予言から九年、蒙古の襲来がはじまる。多くの兵が九州で戦死した。
ほれ見たことかと聖人。北條との決着をつけにいく。時頼は邪宗の祟りか若くして没しており、息子の時宗が実権を継いでいた。
こいつも、禅宗に毒されておる。
雨乞いをして、雨を降らせたら時宗の勝ち。予が負けたら貴僧の弟子とならん。黒白邪正を決しようではないか。
時宗、極楽寺良観和尚を召喚し、公場で雨乞いを始める。
七日間与えたが雨降らず。さらに七日与えたが日照りは続いた。
では時宗よ、予の弟子となれ!というと時宗は三百余りの兵をさしむけて日蓮を逮捕させた。
死刑じゃ!
市中引き回しの上、夜、瀧口の刑場でいざ首を刎ねようとしたそのとき。
江ノ島方面より一迅の光る物体が現れ、人々は恐れおののく。死刑は寸前で中止となる。
この怪現象に聖人の評価はさらに高まり、帰伏する者は数千人に及びし。
しかし幕府の怒りはおさまらぬ。聖人へは、佐渡への流刑が言い渡される。
佐渡とは、ひとたび流された者、生きて帰れぬ獄門の島なり。
荒くれた生活の中で、さらに聖化を研ぎすませ、島の住民を次々帰伏するに至る。
一ノ谷に庵を構え、入魂の大作『歓心本尊抄』次いで『開目抄』などを完成させる。
ここで赦免を迎え、鎌倉へ凱旋。
「日蓮に治世の術を習え」の大合唱。この声におされて幕府は聖人に栄爵を与えるが、聖人はこれを拒否。
「己れの非を改めず他を賞揚することは侮辱である」
61歳となっていた聖人は、その生涯を世界統一のための準備であったと述懐し、長くもあらず短くもあらず、大事は既に成弁した、と諸国の弟子を集め、安詳として御入滅なされたのである。完。
田中智學先生・著
唯乃暇人・訳