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クラウスのビュイックが、また調子悪くなってきた。
クァールに言わせると、クラウスの、自動車に対する愛の無さは、度しがたいらしい。
それでも物理学者としては優秀だし、誠実さにかけてはジュリアスの信頼も厚い。
しかし、興味の無いことにはとことん、興味を持たない。社交も苦手だ。
クルマも欲しくて買ったはいいが、それ以上のものではなかったようだ。
僕にはありがたいが、もったいない。
クルマの扱い方を見れば、そいつの、女性への接し方がわかる、なんて言われる。
そんなつもりでクラウスを眺めていると、確かに、挨拶以上の会話になると、ぎこちない。
クァールはどうだろう。今の理屈なら、女の扱いも手際よいことになるが。
スタンリー。クラウス。クァール。
似たもの同士の気もするのだが、何かが決定的に違う。
なんだろう。わからん。
対極は、エンリコだ。
サイトYで、いや世界で最もやんちゃな物理学者、エンリコ。
彼の仕事はもう、終わったようなものなので、最近はしょっちゅう、愛車を乗り回しては、川で鱒釣りに明け暮れている。
クァールを誘うことも、頻繁だ。
やっぱり、とられてしまった。
こっちの仕事が、そのたびに遅延する。
クァールから聞く、エンリコの人となりは、味わい深い。
中性子で核分裂を起こせることを実証しようとする物理学者は、世界中に、それなりにいた。
エンリコも、イタリア王国時代、ありとあらゆる原子に中性子をぶつけて遊んでいたそうだ。
しかし、発見者にはなれなかった。
ドイツの素人学者に先を越された。
でも本人は、平然と言ってのける。
「もし自分たちが発見してたら、ファシストにとられてた。枢軸国のための兵器をつくらされていた。
だから、成功しなくてよかったんだ。
しかも、試行錯誤してきた山ほどの失敗データを自分は持っている。
一度きりのまぐれ当たりより、こちらの方がはるかに重要だ。
何だって賭けてやる。連中が、我々に追いつけるわけがない」
そう得意気に言う。
奥さんがユダヤ人だったから、エンリコ一家は、早々と国外へ逃げた。
合衆国へ渡り、コロンビア大学で、数々の業績を打ち立てた。
もちろん、プロジェクトが始められたとき、エンリコは核物理研究の第一人者として、真っ先に召集された。
シカゴ大学へ集められ、そこで、連合国では史上初の臨界実験を成功させる。
どこにも発表されてないが、完全な制御下で、連鎖反応を最後まで導いた。
しかも計測値が、ことごとく、事前予想に一致していたという。
エンリコの名声は、世間に知られることなく、不動のものとなった。
しかし合衆国にとって、彼の祖国は、敵である。
家族の生活にも、屈辱的な制約がつきまとう。
エンリコは、合衆国国籍を手に入れ、忠誠を誓った。
英語を習得し、ユーモアで反論し、数限りない偏見と、中傷とも、闘い抜いてきた。
その果てに、今、ようやく、釣りを愉しむ自由を手に入れたんだ。
のんびり遊んでいるわけでもない。
実験を、我々一同、現地で見学する予定だが、爆心地から半径5マイル以内の観測機器はすべて吹っ飛ばされると、エンリコは予想している。
そこで装甲板を全面鉛でコーティングした特注戦車を準備させ、それに乗って当日のうちに爆心地跡を調査したいそうだ。
なぜかクァールは戦車にも詳しい。
二人して、陸軍へ要請する改造戦車の仕様書を作成しているということなんだが。
そろそろ戻ってきてほしいものだ。
エンリコは、生まれ育った王国への愛着を、完全に断ち切ったのだろうか。
僕には、その感覚がわからない。
故郷と訣別するって、いったいどんな気持なんだろう。
ニールス博士は、今月中にも、故郷のデンマークへ帰ると言っている。皆、それぞれだな。
サイトYも、実験が終わったら、解散されるだろう。
僕たちも、ロングアイランドへ帰る。
クァールは、どうするつもりかな。
アル博士と、エンリコとで、綱引きが始まれば、僕の出る幕は、なさそうだ。
ジュリアスが言っている。
実験が成功し、その結果を公表すれば、日本も戦意を喪失し、白旗を揚げるだろう。
それ以後、戦争を起こそうなんて国は、なくなる。
すべての国家が、戦争そのものを回避する手段を考えざるを得なくなる。
私たちの赤ん坊は、世界に永遠の平和をもたらした象徴として、記憶される。
大団円は、まもなくだよ。皆さん。