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ドイツ料理の店、ローマイヤ。奥の小部屋へ、通されました。
ゾルゲ氏は、さきほどよりもずっと厳しい眼差しで、私を観察しています。
「オネーギンと呼べばいいかな?その意味は察しよう。ハルビンということは、反コミュニズムかね?」
ロビンと呼んでください。
ただの商売人です。自由と責任を愛し、束縛と無能を嫌います。
ゲオポリティクを愛読してました。ファンレターを送ったこともあります。
お会いしたかった。あなたが今、苦しい立場でいることを理解しています。
「ソヴィエトと、ドイツの行く末を、どう予測する?」
ドイツは勝てません。
十日前に初雪が降りました。進攻は停滞します。包囲殲滅されます。
ソ連の国土と兵力を甘く見積もりすぎたヒトラーの限界です。
「それでもドイツは簡単に白旗を揚げまい。あと何年かかるだろう?」
まもなく、日本がアメリカを攻撃。アメリカは参戦し、東洋にも欧州にも軍隊を送りこみます。
形勢は完全に逆転しますが、それでも1945年頃まではかかるだろうと思っています。
すべての枢軸国が武装解除されるには。
ゾルゲ氏は動揺を隠せないようです。
ごめんね、フェアじゃなくて。
それにしても、ハンサム。
ずっと憧れていた、世界屈指のアナリストが、私を解析しようと灰色の脳細胞をフル回転させてます。
こんな緊張感、将棋でも味わったことない。
「……組織とのつながりはあるのかね?君は、その……コミンテルンか、第四本部か、どちらかと関係しているか?」
ゾルゲ氏、ミスを犯しました。
専門的な固有名詞を自分から口にしてはダメです。そこは私から言わせるよう仕向けるべきでした。
この勝負、もらった。
コミンテルンとは、ソヴィエト連邦の国外戦略部門ですよね。
第四本部とは、モスクワの国防組織ですか?
私は共産党員ではないので、違いをよく知りません。
ゾルゲ氏、また黙考。約15秒。
「私は、第四本部所属だ。コミンテルンとは、1928年に別れた……」
言っちゃったよ。ソ連のスパイだって。
いいのかな。狼狽が激しすぎます。
思考回路がショートしちゃったか。
プレッシャーかけすぎたかな。
泣かれたらどうしよう。
うつろな表情で、ブツブツと、つぶやき始めました。
「……1928年……上海……1931年……満洲……1932年……あっ!?」
ん?
「ロビン君、きみは、1932年の1月、上海事変の二週間ほど前、崑山路のサロンで内山書店の常連たちと、騒いでなかったかね」
……え、ええええええええええ!???
ちょっとまてちょっとまて。
あたまはクラクラおめめはグルグル。私が不意打ちをくらいました。
思い出せ。思い出す。
10ねんくらいまえか?
上海事変?
満洲事変の直後……あっ!
ああああああああああっ。
ええ?あの、私の生涯最悪の、酒の席でのアヤマチを、なぜゾルゲ氏が知ってる???
石化した私に、ゾルゲ氏も呼吸を整えながら、説明してくれます。
「思い出したよ。あの頃、私たちの諜報団は上海を拠点に情報網を張り巡らせていた。ふしぎな少年がいると噂になって、君が帰るまで追跡していた。アメリカ出身の同志が、フェリックス・ザ・キャットという名前を君につけた。そんなマンガが流行ってたんだ。そうだ、君は……あのときの、フェリックスだ!」
ががががががががががあああん。
だれかたすけて。
……そそそそそそれは、おそらく私です。
は、はずかしすぎる。
国際諜報団からマークされるくらいヤバいこと喋っちゃってたのか?
おそろしい。それから10年もよく生きていられたな。
なんで????
「10分過ぎたが、もっと喋りたいね。私はビールを頼むが、君はどうする?」
ファスブラウゼをいただけますか。
アルコールが入ってなければ何でもいいです……。
ふう。
あのう。ゾルゲ先生。私って、目立ちます?
自分では完璧な変装して、バレないようバレないよう、うろつき回って聴き耳を立ててるつもりなんですけど。
以前にも、別な国際探偵団に見つかって、今日と同じような返り討ちに遭ったことあるんです。
何がまずいんでしょう?
「ああ……だって、そんな見た目小学生くらいの子が各国語の新聞雑誌を読みふけってたり、常に尾行を気にしながら小路をクネクネ選んで歩いてたり、自分たちの背後で息を殺してたりしたら、気にならないわけがないよ。
でも、スパイなら誰しも通る道だ。
それに今日の私の捕まえ方と挨拶の仕方は、玄人裸足だった。自信を持っていい。
ところでいったい何歳なんだ君は」
なんかそれこの先も永遠に言われそうな質問なんだよなあ。
ナイショにさせてください。
せめてそのくらいの秘密は持たせて。乙女心がすりきれそう。
とりあえず、距離が縮まったところで、教えてもらっていいですか。
コミンテルンと、第四本部って、何が違うんですか?
「コミンテルンは、赴任先で、政治指導をする。現地で軍隊を組織し、戦術戦略をソヴィエト流に教育する。モスクワへの兵器や物資の要請も担当する。ノルマがある。要は、仕事がきつい」
はい。第四本部は?
「モスクワ政府と赤軍に従属する。諜報が主任務だから、現地の政府や軍隊と交渉する必要がない。調査と分析と執筆に専念できる。だから私は、第四本部に身を移した」
ゾルゲさんは、研究がしたかったんだ。
なんでまた日本へ?と思ったんですけど、それも興味本位ですか。
「東洋人を理解することは難しい。誰もやりたがらない。じゃあ、やってみようかと思った。特に日本は興味深かった。最初はそうだったね。今はもう、イヤになった。帰りたい、モスクワへ」
開戦前に脱出したほうがいいですよ。日本はもう、破滅へ向けて一直線です。
「分かってはいるが、代わりがいないからモスクワからの許可は絶対に出ない。それに、金もない」
金なら私がいくらでも用立てられます。ハルビンへ来ません?
私が、匿います。モスクワからはお尋ね者になっちゃうでしょうから、終戦までには、どこかへ亡命しましょう。
スイスなんて、どうですか。
これからの世界を、もっとずっと良くするために、私はゾルゲさんと一緒に考えたい。
いろんなこと、教わりたいんです。
ゾルゲさん、
大粒の涙を、
流し始めました。
たぶん、こんな対話ができる相手、今まで、いなかったんだろうな。
いないでしょうね。私にもいない。
私だって、今夜、ここまで語ったの、初めてです。
持てる知力を、全身から出し切りました。
やっと、本物の同志を、つかまえた。
そんな……
押したおされました。
くちびるを、うばわれました。
激しい、激しすぎる、キスでした。
骨が砕けるかと思うほどの力で、抱きすくめられました。
ええチビですよ。のしかかられて、抵抗なんてできるわけ、、
できません。
されるがまま。
彼の気がすむまで、
泣かせてあげました。
数日中に、ご自宅の資料を整理、処分し、諜報団を解散させ、満洲へ来てもらえるよう、手筈を決めて。
危険なようであれば、平井氏の自宅の地下へ、しばらく隠れててもらいましょう。
平井さんには、あとで話をつけておきます。
それでは、私は明日、先にハルビンへ戻ります。
待ってます、シュトラウス。
私の、シュトラウス。