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二週間前、辻と会って、石原の武勇伝を聞きました。
その後、日本軍、同じ場所で、ソ連へ戦闘を仕掛け、今や2000人ほどの死傷者を出してボロ負け。
意味がわかりません。バカなの?
7月15日。ソ連、豆満江対岸で砲撃開始。
石原参謀副長、陣形を指揮して戦闘を回避する。
そこまではよかった。しかしその後。
また、どこへともなくフラフラと、布教の旅に出る。
関東軍では、ソ連など腰抜けの集まりだと鼻息荒くなり、一週間も経たないうちに、豆満江国境付近の将軍峯という標高800mほどの丘に我々の旗を立てようという遠足計画を立ち上げ、実行に移す。
あの辺、だだっ広くて地図も曖昧なんですが、将軍峯というのはソ連の地図では、ソ連領ということになってるのかもしれません。
7月19日。
内地の近衛文麿内閣も、リュシコフと石原についての報告をもとに「ソ連も膺懲してやらんといかんな」と緊急時の即時武力行使容認を決定・発表してたので、それに基づき正々堂々と日本軍遠足隊、将軍峯において相手に銃をぶっ放す。
以下説明するまでもないので略。
辻は2000人と言ってましたが、実際はもっと多いらしい。
生還者は何割?もし1万人出してたら1万人死んでたってことじゃないの?と突っついてやりたかったけど、言いませんでした。
圧倒的な砲撃と空爆から逃げ散る日本兵に対し、東京からは一歩も退くべからずとの大号令というおまけ付き。
かわいそうだねえ。しくしく。
東京レアメタルでも葬儀屋部門始めるかな。
これから寝る暇もなくなるくらい繁盛すること間違いないからな。
最近、悩まなくなりました。
おかげで心身ともに健康です。
余談ですが、リュシコフより2週間前にも、ソ連軍からの亡命者があったそうです。外蒙から華北へ。
リュシコフは情報部員でしたが、こちらは、前線の作戦参謀。
若くて、軍用自動車で国境を越えてきたとか。エネルギッシュですね。
石原がやらかしたリーク以来、関東軍へは特に情報が集まらなくなっているみたいなので、辻も、それ以上の詳細は知りません。
実際のところ、ソ連の内部も相当に、ブラックなのだろうとは思います。
それにしても亡命先に日本を選びたくて選んでるのでもないだろうにとも思うのです。