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12月14日。
城内へ入りました。
外周30kmを超える一大城郭ですし、城内だからといって地雷や落とし穴の危険がないとは限らない。
なので自動車数台で巡察です。
地図をつくるならこいつが一番早い、と到一さんに同行を命じられました。光栄です。
十年前、サノと二人で走り回った、なつかしい街、南京。
当時の面影はまったくなく、道路も建物もおそろしく変わり果ててました。
その上、空爆と防空壕と放火掠奪の跡で、道が道じゃなくなってる。
難民もいたるところに徘徊しまくってて、精神的につらい一日でした。
到一さんは、住んでたこともあるので、なおさら感慨深いはずですが、おくびにも出さず、運転手や私に、次から次へと方向を指示します。
あの頃も頼もしかったけど、今また、惚れなおしてます。その横顔に。
民国26年。南京が首都になってから十年。
国民政府が4億の民から搾取に搾取を重ねて大きくした街。
蒋介石は抗日一極を掲げて英米独と接近し、西洋の資本を導入したが、利益は役人たちが独占した。その末路を今、我々は見ているのだ。
これからは日本が、支那を導き、アジアを征し、東洋文化を正しく発展させていくんだよ。
到一さんは、そんな風に語ります。
つっこみたい所はありますけど、たしかに一面は事実ですし、まだウォージャンキーも抜けてないのかな。
無粋な茶々は入れますまい。
城内、ほぼ、どまんなかに、高級住宅街と官庁街が連なっていますが、ここには残留西洋人が安全地帯を設置し、難民をかくまってます。
バリケードの外側しか見て回りませんでしたが、敗残兵もいっぱい隠れてるでしょうね。
黄色い腕章外すだけで民間人と区別つかなくなりますし、武器だってどこにでも隠せます。
どうすればよいか、というのは重要課題のひとつですね。
安全地帯の中にある金陵大学には、一千人を超える若い娘さんだけが避難しており、アメリカ人のシスターが男性難民たちからも徹底的に、彼女たちを守っているそうです。
この情報を知ったときの、車中の男どもの下卑た笑いには本気で殺意が漲りましたが、これも最重要課題のひとつに入れておきましょう。
地図には書き込みませんでした。
拠点へ戻ってくると、師団司令部より命令が届いてました。
3日後に、中支那方面軍司令官一行が来て入城式を行うので、それまでに城内の掃蕩を完了すべし。
無理だ!の大合唱。
ようやくまともに交信できるようになった無線で司令部へ確認をとります。
師団長も激オコらしい。できるわけがない。
けど、延期は認められなかったそうです。
なれば、やるしかない。まあ、そういうものでしょうね。
大変だ。どうしましょう。
私は城内地図の清書をすべく、デスクワークに没頭しながら、到一さんたちが現場へ指示を出していくのを、聞くとはなしに聞いていました。
武器を捨て、投降する兵も続々と出ています。城内外で数万人規模。
日本兵一人につき百名を越える俘虜。
見張ってるうちに「やっちまおうぜ」と殴りかかられない方が不思議です。
ひとたび乱闘が始まれば、機関銃が火を噴きます。
虐殺ですか。
虐殺ですね。
「俘虜はとるな」うわあ、この解釈は難しい。
そうはいっても、殺し尽くすのも不可能です。
完全無抵抗の俘虜だけだとしても、どこに収容するべきか。
調書をとる。食事をとらせる。四日前から停電している城内で夜間見張り続けること。すべて、無理なんです。
どうすりゃいいのか。
入城式には、上海派遣軍の司令官、朝香宮中将も来られるそうですよ。皇族です。
恥ずかしいところはお見せできません。
が、それ以前に、地雷が残っていたり、式典中に爆弾でも投げ込まれた場合、到一さんにまで粛清人事が及ぶ可能性もあります。
ここまでがんばってきたのにそれかよ。
さて、準備万端怠りなくするには、何をどうしたらよろしいものでしょうか。
……詰んだ、か、な?